Ⅰリンの章【救出】

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久我宮ハルキがやって来た。 店はこれまでにないほど色めき立ち、楼主と女将は潰れた蛙のようにハルキに(へつら)って、仲間の遊女たちも蝿のように胡蝶に纏わりついてきた。鬱陶しいけれど、気分はいい。誰がどう見ても自分とハルキは特別な関係だ。 食事や芸事で一通りもてなしてから、ハルキは人払いをして胡蝶と二人きりになった。 やっと、… 胡蝶の心臓ははち切れんばかりに高鳴った。 ハルキ様に抱いてもらえる。もう、どんなにつらい客の相手でも耐えられる。 新参遊女のようにおずおずとおもねる胡蝶に、ハルキは白い粉を差し出した。 「これを今宵、楼主の酒に混ぜて、眠っている隙に人受け証文を持ってきてくれないか」 ハルキには、生き別れた妹がいるのだという。 ハイイロに殺されたと思っていたが、どうやら生きているらしい。記憶をなくし、身をやつして、この帝都のどこかにいる。可哀想な妹を探し出してやりたいのだ、と。 「相分かりました」 胡蝶は二つ返事で引き受けた。 証文は店の重要機密だ。持ち出したのがバレたらどんなにひどい罰を受けるだろう。折檻か、鞍替えか、まさか金の成る胡蝶を役人に差し出しはしないだろうが。店に来る得体の知れない客に引き渡されて海に沈められるかもしれない。 でもそれが、何だというのだ。 「やはり胡蝶だ。俺の見込んだ通り」 ハルキは胡蝶を引き寄せると、うっとりするような長い口づけを交わしてくれた。 「胡蝶、俺はお前の身受けを考えている」 心臓が止まるかと思った。 口づけだけで蕩けそうに幸せで、ハルキに焦がれるあまり、自分が作り出した幻聴が聞こえたのかもしれないと思った。 「二人で幸せになろう」 でも、ハルキは確かにそう言って再び胡蝶に口づけた。 ハルキ様と幸せに、… 金の成る胡蝶を楼主が簡単に手放すとは思えなかったが、ハルキほどの富豪に望まれれば承諾するかもしれない。 胡蝶は夢心地のまま、酒を持って楼主の部屋に押し掛けた。 適当に言い繕って白い粉を入れた酒を飲ませ、眠り込んだところを見て証文を探した。もちろん、金庫の鍵は楼主の懐から拝借した。 何としても今夜中に見つけ出して、ハルキとの未来を手に入れる。 胡蝶の働きはすさまじく、やがて蔵の奥にある金庫に隠された証文を見つけ出した。 誰にも会わないよう、速やかにハルキが待つ部屋へ戻る胡蝶の目に、勝手口の先に虫けらのように転がっているリン(能面)の姿が映った。そうだ。万が一、楼主に咎められたら、能面のせいにするのもいい。 それまで死んでもらっては困る、と確認のために蹴り飛ばしてみると、瞼が少しだけぴくぴく震えた。 ふん、気味の悪い娘。 せっかくのハルキ様との輝かしい未来に、幸先が悪い。頭にきて能面に唾を吐きかけた。 まあいい。 もう一度蹴り飛ばしてから踵を返す。 この証文を届けたら、ハルキ様とはもっと濃密で離れられない関係になるのだから。
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