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「火を放て」
妓楼の人受け証文を確認し、おざなりに胡蝶を抱いた後、煙管を吹かしながら久我宮ハルキが言い放った。
「次の満月の夜。お前を迎えに来る。どんなに金を積んでも楼主はお前を手放さないだろうから、一緒に逃げよう」
独りよがりのハルキの性技は、プロの胡蝶を満足させるものではなかったが、ハルキに抱かれたという事実だけで胡蝶は有頂天だった。
満月の夜が待ちきれない。
あらかじめ床と襖に灯油を撒いて、布団にも染み込ませておく。真夜中零時になったら、石油ランプで火をつける。きっととてもよく燃える。後は店の裏口でハルキと落ち合えば、ハルキが連れ出してくれる。ハルキとなら、どこにだって行ける。
「胡蝶姐さま、最近肌艶の調子がいいみたい」
「やっぱりハルキ様に抱かれると違うのかしら」
手筈は整った。
もう胡蝶は下卑た遊女の仲間ではない。こんな馬鹿で下品で尻軽な連中など、どうにでもなればいい。楼主も女将も死んで当然。みんな燃えてしまえ。ああ、その炎はどんなに美しいだろう。
「あ~~ん、ねえ、ハルキ様、次はいついらっしゃるの?」
「姐さま、今度は絶対私もそばにつけて」
「ええ。次は必ず一緒におもてなししましょうね」
胡蝶は上機嫌のまま、艶やかに微笑んだ。
満月の夜。
時は来た。決行の夜。
胡蝶がランプで火をつけると、あっという間に部屋に燃え広がった。さっきまで胡蝶に馬乗りになっていた上客は、寝乱れたまま火に捲かれようとしているのに起きる気配もない。隣合った部屋から次々悲鳴が上がり、火事に気が付いた人たちが大騒ぎをしながらわらわらと廊下へ湧き出してくるのが滑稽だった。
やっぱりハルキ様は優秀だわ。
こんなに爽快な思いは初めて。
火を消し止めよう、家財を持ち出そう、客を逃がそう、…妓楼の面々が躍起になっているのを横目に、胡蝶は裏口へ向かった。混乱に乗じて胡蝶のように逃げだそうとしている遊女の姿も見られる。
でも、身受け人がいなければ、どこにも行けないわ。
店を逃げ出したって街の男に乱暴されるか、ハイイロに食い散らされるのが落ち。馬鹿な娘たち。
胡蝶は内心せせら笑いながら、庭を抜け、炎に包まれ、煙に巻かれて大混乱に陥っている妓楼に、不似合いなほど清潔で麗しい礼服の後姿を見つけた。
「ハルキ様っ、ハルキ様っ! 胡蝶はここですっ。ここに居りますっ」
焦げた髪を振り乱してハルキに駆け寄った。
喜びで、煤けた身なりも火傷の熱さも、擦り切れた足の痛みも忘れていた。
「ああ、…」
しかし、ハルキは死んだ虫を見るような目をして言った。
「触るな。お前はもう用済みだ」
「ハルキ様、…?」
何を言われたのか分からなかった。
呆然としたまま麗しい礼服の青年を見つめる。
「リン、…リンっ、しっかりしろ。…もう少しだから。もう少しで、お前を連れて帰れる」
周囲が轟轟と燃え盛る炎に包まれる中、ハルキが腕にぼろきれのような何かを抱きかかえている。とても大切そうに。
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