Ⅰリンの章【救出】

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そこにいるのは私ではないの? 連れて帰るのは私ではないの? 花街一の高級遊女。美しく艶やかな胡蝶。 みんなが私を振り返る。みんなが私を褒めそやす。 ねえ、私が欲しいのではないの? ハルキが大切そうに抱きかかえているのが薄汚れたリン(能面)だと気づいた時、胡蝶の中の何かが壊れた。 あんなゴミ屑、ハルキ様が触れる価値もない。 気が付いたら胸に忍ばせていた懐刀をきつく握りしめ、突進していた。 「クソ、この売女がっ」 何が起こったか分からなかった。 ハルキに顔を蹴り飛ばされて後ろに吹っ飛んでいた。 痛い。顔が痛い。頭が痛い。地面に打ち付けた背中が焼けるように痛い。 痛みに曇る眼にハルキの横顔が映る。 伯爵家の令息とは思えない罵り声をあげながら、横っ腹から何かを引き抜き、地面に叩きつけた。 ハルキ様の麗しい礼服に濡れたような赤い染みが広がっている。あれは能面の血かしら。あんな娘でも血を流すのね。まさかハルキ様を刺したのではないわよね。 私、ゴミ屑を始末してあげたの。ねえだから、そんなもの早く捨てて、一緒に逃げましょう。 「坊ちゃま、…ハルキ坊ちゃま、…っ!!」 誰かがハルキを迎えに来た声がする。 そう、私よ。私はここ。早く私を連れて逃げて。 空が燃えるように赤い。血に染まっているように。 なんて綺麗なのかしら。何もかもが真っ赤に燃えていくわ。 胡蝶は妓楼の庭にあおむけに横たわり、血の涙を流しながらいつまでも笑っていた。 妓楼を燃やす炎はなかなか消えなかった。 追い風の勢いもあり、空にも届きそうに燃え盛った炎は、一昼夜消し止められずに妓楼を全焼させた。花街に並ぶ隣の家屋やビルにも延焼し、多数の死者や負傷者、行方不明者を出す大惨事となった。 この火災の中に久我宮ハルキがいたことは、誰にも知られていなかった。刀傷を負ったハルキは家老の手により速やかに病院に搬送されて、一命をとりとめた。 そして、多くのものを失った焼け跡で、かろうじて息をしていたリンが放火犯として捕らえられた。 生き延びた妓楼の面々は、口をそろえてリンの仕業だと証言した。部屋に火をつけるのを見たと言う者までいた。リンが不遇な扱いを受けていたことは誰もが知っている。 こうして、花街の大火災を引き起こしたリンは、翌日夕刻、北大井門の処刑台に立たされた。
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