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【眠り姫】
「おはよう。寝てる?寝てるだろうね」
魔女はベッドですやすや眠る娘に話しかける。娘は心の中で『おはよう』と返した。娘の体は百年の眠りについており指先一つ動かせないが、意識はしっかりしている。魔女はそれに気付いているのかいないのか、毎日娘の寝所に訪れ、埃一つないベッドの上を丁寧に掃除して、皺ができる筈もないシーツを伸ばしていく。
「相変わらず、お前さんは美しいね」
その言葉に娘はドキリとした。魔女の声はやけに美しく――女にしては低い。娘は自らを魔女と名乗っているこの人物が、実は“魔法使い”なのではないかと思っていた。しかしそれが、恋に恋する年頃故の都合の良い妄想でないとは言い切れない。眠ったままでは確かめられないのだ。
「今日はうんざりする程良い天気だった。森で花を摘んできたよ」
柔らかな花の芳香が、娘の鼻先でふわっと広がる。娘の目蓋の裏には色とりどりの花々が咲き乱れ、この世の物とは思えない美しい光景が浮かんだ。娘は魔女の見せる夢にうっとり浸る。
娘が魔女について知っていることは多くない。
父である国王が娘の誕生を喜び、盛大な祝いの宴を開いたが、国内の魔女の中でこの魔女だけが招待されずのけ者にされたということ。憤慨した魔女が娘に“十五歳になった時、糸車の針で指を刺して死ぬ”という呪いをかけ、別の魔女が“死ぬのではなく百年の眠りにつく”という魔法をかけてくれたということ。
娘は呪い通り十五になると眠りにつき、同じく城の者も皆眠りにつき――魔女はといえば、何故か死の呪いをかけた娘を甲斐甲斐しく世話しているのだ。魔女の行動理由は分からないが、優しすぎるその声と言葉は娘に淡い期待を抱かせる。
「お前さんは起きているとうるさいが、寝ていると静かすぎるね」
(起きている時に、会ったことがあるのかしら?)
魔女の硬い指が娘の髪に、頬に、唇に触れる。その手はいつも恐る恐る、繊細なものを愛でるように娘を扱った。
娘は……もうこの夢が、ずっと続いても良いと思っていた。たった十五年ぽっちの人生で出会ってきた人々よりも、長い眠りの間側に居た魔女のことを愛してしまったのだ。しかし娘は知っている。何故か知っている。この物語はそろそろ展開しなくてはいけないということを。
「ああ……もうじき勇敢な王子がお前さんを救いに来てしまうね。私はお前さん達が強い運命で結ばれるよう、最強の悪として立ちはだかろう」
悪い魔女は倒され、姫は王子と幸せになる。それがこの物語の運命なのだと、魔女は言った。
「お前さんにさよならを言うには、百年ばかしじゃ物足りなかったね」
(待って、行かないで!)
――眠り姫が長い眠りから目を覚ました時、そこに居たのは見知らぬ男だった。唇に悍ましい感覚が残っている。押しつけがましい愛と正義。誰もが姫の幸せを決めつけ祝福している。
城の外の森には、大きな竜の亡骸が横たわっていた。魔女が魔法で姿を変えたものらしい。瘴気を放つその骸は直に燃やされ灰になるという。姫は近付くことすら許されず、遠くから眺めて涙した。
心臓を抉るような悲しみ、愛しさ。姫はその理由をようやく思い出す。自分と魔女が遥か昔、別の物語で出会っていたことを。
百年の眠りから覚めた彼女はずっと、覚めることのない悪夢にうなされ続けた。
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