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【人魚姫】
深い海の底。月の微笑みも星の囁きも届かない深潭に、孤独な魔女が住んでいる。魔女はいつも上の明るい海を見上げては「ほう」と患うような溜息を吐いてばかりいた。煌びやかな珊瑚の城に住まう、六人の人魚姫達。中でも一番美しいのは末の姫。その輝く黄金の髪、錦の鰭は、どんな自惚れ屋の熱帯魚をも黙らせるのだった。
ある日突然、その末姫が深海に下りて来た。「お婆さん、魔女のお婆さんはいらっしゃいますか?」と尋ねる甘く澄んだ声の、なんと可憐で愛らしいこと。場違いな訪問者に、強面なウツボも尻尾を巻いて逃げ出した。
「魔女のお婆さん、どうかわたしをお助け下さい」
その懇願に涙の気配が混じり始めると、人見知りの魔女もとうとう放っておけなくなり姿を現す。
「失礼だね。誰がお婆さんだい」
「あらっ!ごめんなさい、お若い方でしたのね。それにとても美人」
「お前さんに言われても嫌味にしか聞こえないよ。さあ、早く本題にお入り」
「あのね……わたしを人間にして欲しいの!わたし、人間になって王子様と結ばれるの!」
疑うことを知らない無垢な瞳。無邪気故の傲慢さ。今まで父や姉から蝶よ花よと育てられてきたのだろう。
話を聞けば、どうやら姫は先日初めて海上に出て、そこで船に乗った王子に一目惚れをしたらしい。姫は熱い想いを秘めておくことができず彼に恋の歌を歌ったが、王子は気付かず……その後、船は嵐に見舞われ転覆。海に落ちた王子を助け浜辺に送るも、王子は人間に連れて行かれてしまい、姫は名乗ることすら出来なかったという。
「可哀想にねえ。私なら憐れなお前さんに、人間の足をくれてやれないこともない」
「まぁ本当に?」
「だが一つ。人間の足だと、歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるよ。それでもいいのかい?」
「そんなもの!この恋の苦しみに比べたら些細なものよ。いざとなったら二本の腕で立ち上がるわ!」
「そ、そうかい。それからもう一つ。王子と結ばれなければ、お前さんは海の泡となってしまうよ」
魔女は今度こそ姫が怖がって諦めるのを期待したが、彼女は何でもない様子で「問題ないわ。わたしは愛されるもの」と勝気に笑って見せた。
「まあ、そうだろうねえ。誰だって一度お前さんを見れば、愛さずにはいられないだろうさ」
「ふふ。でしょう?」
「その賑やかな口を閉じてさえいればね。さあ、もう一つだけ条件があるよ」
「どんどん後出しして来るわね」
「これが本当に最後さ。お前さんに足をくれてやる代わりに……お前さんが持っている“一番良いもの”を一つおくれ」
「一番良いもの、ですって?」
「そうさ。例えばその愛らしい声とかね」
「どうして?魔女さんの声もとっても素敵なのに」
「いいから、よこすんだよ」
姫はようやく惜しむような顔をして「最後に一曲だけ歌っていい?」と言うと、魔女の答えも待たないまま歌い出した。透き通った歌声は暗い海を明るく照らし、チョウチンアンコウが悔しそうに逃げていく。
そのあまりに美しい歌声に、魔女は軽く眩暈を覚えた。人魚の歌には聞いた者の心を惑わす効力があり、時に航行中の人間を惑わし、船を難破させることもある。同族にも威力のあるこれ程の歌声なら、さぞ凄まじい“嵐”を起こしたのだろう。
姫が歌い終えると、魔女は彼女の喉から災厄の種を奪い、幸福への“足掛かり”を与えるのだった。姫は声無く『ありがとう』と紡ぎ、魔女の凍った頬に口付けをして、地上へ上がっていった。
――姫が居なくなって暫くが経つ。穏やかな深海は以前よりずっと暗く陰気になったようだった。魔女は美しい姉姫達から奪ったばかりの髪で、手慰みに三つ編みを編む。これは彼女達に魔法を授ける対価で得たものだ。姉姫達は王子に愛されなかった不憫な妹を救いたいと願い、魔女は、姫が王子を殺せば再び人魚に戻れると教え、魔法のナイフを渡したのだ。
(そろそろ戻ってくるだろうさ)
あんなに元気はつらつな娘が、悲恋の末に海の泡になるなどという悲劇的な最期を迎える筈がない。平気な顔でひょっこり戻ってきて、また姉達と鮮やかな海を泳げばいいのだ。と、魔女は思った。
しかしこの世界はそれを許さない。物語は美しい悲恋を望んでいる。
あくる朝、海の中が虹色に輝いた。それは誰も見たことがない、貝の螺鈿より美しい七色の泡だった。
望まない形の再会に、魔女は胸を痛める。
(あの娘は一つでいいと言ったのに……余計なものまでくれてしまったね)
彼女の持つ宝物。それは美しい声と――誰かを愛する心。魔女は暗闇の中で一人、愛した娘の声が枯れるまで、悲しい恋を歌い続けた。
魂の行く先があるのなら、今度こそ彼女が幸せになれるように……と願いながら。
七色の泡は歌声に導かれ、やっと還る場所を見つけたように、魔女に降り注ぐのだった。
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