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1
夕方、青空学園から自転車で温泉街に向かう。
平地に近い市街地から、トトロの森を思わせる丘陵地の曲がりくねった林道を抜けると、山中に温泉街が姿を現す。
湯煙の向こうには、あやかし山が夕日に赤く染まっている。
温泉街の入り口にある、それぞれ広い駐車場と、部屋数の多く持つ「ホテル湯の国」と「遠野旅館」の隙間を抜ける。二つの宿泊施設は値段も高く温泉組合の中でも最上位のカーストを競い合ってる。あやかし温泉入り口バス停の近くにあって、立地も良い。
温泉街のメインストリートを挟むゲートのようなホテルと旅館の間を、自転車で走り抜ける。
正面の山々の景色を霞ませているのは「流星の湯」の露天風呂から立ち上る湯煙だ。温泉街の真ん中の一等地にあり、あやかし温泉に来た以上ここに寄らないわけにはいかない、と流星の湯に立ち寄るリピーターも多い。流星の湯は、客を呼び込むキラーコンテンツなのだ。流星の湯が無かったら、旅館組合も客足が伸び悩んでしまう。そうなると、旅館業を営も我が家の家計も、僕の学費や小遣いも儘ならなくなる。
自宅兼店舗の民宿珊瑚は、流星の湯の裏手にある。メインストリートから外れた路地にあり、お世辞にも立地が良いとは言えないが、素泊まり三千円と、あやかし温泉一の安さを誇る。当温泉街においてカースト最下位の民宿だけど、僕の母が作る手料理はお客様に好評で「お母さん食堂」なんてキャッチフレーズが売りの民宿として愛されている…いや、愛されたいと意図している。
愛されたい、というのは、まだ二週間前にオープンしたばかりで、リピーターらしいお客もいないから、これから「お母さん食堂」を売りにして顧客を集めるつもりだ。
僕の家族は、一ヶ月前にあやかし温泉に引っ越して来た。もともと小料理屋だった中古物件を購入し、民宿珊瑚を始めた。父がオーナーで、母が女将。従業員は仲居が二人。満室の時は、僕も手伝う。
自宅に帰るには、右手に見える流星の湯の手前を右折すると近道になる。でも今日は交差点を通り過ぎた。この先の流星の湯の向こう側の辻にあるちっぽけな喫茶店。その奇妙な佇まいと屋号。初めて目にした時から気になってしょうがなかった。
――怪談喫茶百々目鬼
屋号からして、ただ珈琲を飲むだけのごく普通の客の来店を拒んでいるように思える。
自転車を百々目鬼の店先に止める。百々目鬼の入り口のドアは開いたままになっている。しかしオープンとかクローズとか、良くあるドアに引っ掛けるプレートみたいなやつは見当たらない。あるのは軒先に掛けられた「怪談喫茶百々目鬼」の看板だけだ。
夏の夕風が、そよりと吹いて、和風のカフェに良く似合った「氷」の旗を揺らす。
格子窓から店内に夕焼けが差し込んでいる。一人、客がいるのが視えた。開店中なのだろうか。薄暗い店内に一歩踏み込む。
いらっしゃいませ、と聞こえるのが普通だと思っていたが、この店に限ってそれは聞こえなかった。カウンターの中には、店員らしい人物は見られないのだから、当たり前かもしれない。
僕と同じ高校生くらいの客は、何も注文してないのか、四人掛けのテーブルに文庫本だけを手に持って読みふけっている。僕の存在には気づいていないかもしれない。
奥の壁面には、書架が並んでいた。ブックカフェなのか。
書架の文庫を手に取る。
この書架には、文庫以外は並んでいない。
それも全て同じレーベル。
――百々目鬼怪談文庫。
聞いたことの無いレーベルだ。
偶然手にしていた一冊の背表紙には、百々目鬼怪談文庫の下に猫怪編、とあった。
猫の怪を選集した怪談本なのか。
パラパラとページ捲る。
自然に止まったページには「化け猫の神隠し」と題がある。
当事、小学一年生だったMさんは、冬休みの間だけK君という友人がいた。
冬休みの間だけ、というのは冬休みの終わりにK君が消えてしまったからだ。
K君と出会ったのは、あやかし山の山麓にある市営公園だった。
夕焼けが遠くから沈み掛け、無人の遊具を赤一色に染めていた。
両親は共働きで、帰りが遅い。母が仕事を終え帰宅する時間に合わせて、Mさんも帰宅する。母の料理する香りや音を聞くと安心を覚えた。母が側に居ることを認識出来たからだ。
当事、Mさんの両親は、離婚調停中だった。離婚すれば、両親と三人では暮らせない。Mさんは、より収入の多い父親に引き取られる予定だった。
もうすぐ母と離れ離れになってしまう。それが母の存在を以前にも増して感じたい、そして記憶に焼き付けたい理由だった。
やがて両親が別居を始めた。Mさんは、今まで通りの自宅で父と暮らしていた。
しかし母は居ない。
小学一年生の彼女は、母親から精神的に自立出来ておらず、寂しさを募らせていた。
そんな時だった。父の仕事が終わるのを待つ公園で、K君と出会った。どことなく、Mさんと同じ寂しげな面持ちをした少年だった。
「この辺では見掛けない顔だね」
「最近引っ越して来たんだ」
地元の子供であるMさんに話し掛けられ少し戸惑ったようだった。
K君によると、両親が離婚し、母親の実家のあるこの町に越して来たという。
Mさんと同じく、親が帰宅するまでの間、この公園で時間を潰していた。
それからは、夕闇の公園も寂しくなくなった。
Mさんは、K君の親友となり、お互いを理解する度に少しづつ不思議な感情が芽生えていった。まだ小学生のMさんだったが、それが恋心だと理解するまで、そう時間が掛からなかった。
K君のお陰で、一人ぼっちの寂しさは紛らわされた。その上、朗報があった。離婚調停中だった両親が、話し合いの結果、離婚を取り止めたのだ。
それをK君に報告すると、彼は心から喜んでくれた。
ある日、夕闇の公園で砂遊びをしていると、K君が砂を弄る手を止めてだいぶ暗くなった空を見上げた。Mさんも連られて視線を追うと、紫の薄曇りの空から光の柱が降りていた。光は、丁度あやかし山の頂上辺りに、真っ直ぐに射している。
何の光だろう。K君は興奮気味に立ち上がると、走り出した。光柱の射す場所を見に行くつもりなのか、あやかし山の頂上にある星宮神社の奥宮への参道を登って行く。
Mさんも、遅れまいと、走って追い掛けた。しかし運動の苦手なMさんは、なかなかK君に追い付けない。先を走るK君の姿はだいぶ小さくなっていた。
やがて奥宮の鳥居が見えた。
K君が鳥居を潜る。
彼の姿を見たのは、それが最後だった。
鳥居に着いたMさんは、狭い境内にK君が居ないのを確認した。
代わりに、化け猫が居た。
焔に包まれた人丈もある化け猫は、何か知らない言葉を喋った。
化け猫が、手招きをした。
怖くなったMさんは、踵を返すと逃げ出した。
翌日、放課後に公園へ行ったが、K君の姿は無かった。その翌日も、そのまた翌日も。
K君は、あの後、どうなったのか。彼の身を案ずると共に、彼を見捨てて逃げたという自責の念に苛まれた。
とうとう両親に、山での出来事を告白した。両親は、焔に包まれた猫の件に疑いを抱いたが、事件の可能性もあるため、交番に相談に行った。
警察も、Mさんの独白の怪奇現象には疑問を投げ掛けた。しかし、人が一人居なくなったのだから、当然捜索を行った。
しかしK君は見付からなかった。
彼は、今でも行方不明のままだ。
「焔に包まれた猫が、K君を奪ったのかな」
「それは火車だよ。死者をあの世に連れて行く、猫の妖怪だ。黒雲と共に現れ、虎の腰巻を身に着けた雷神のような姿をし、または猫のような姿をしていると、伝承にある」
「突然妖怪の説明を始めた貴方はどちらさまですか」
「申し遅れた。このカフェのオーナーの轟鬼女と申しまする」
オーナーは、とても美しい顔立ちをしていた。中性的で男性か女性か判らない。
「怪談に興味があるようだね」
「この怪談文庫、聞いたことの無いレーベルです」
「これは、我々が収集した怪談好きによる、怪談好きのための、怪談文庫なのだよ」
「ISBNがありませんね」
「同人誌だからな」
紙の自主出版は、有料で値段も張るだろう。
「web小説サイトには、アップしないのですか」
「本は上質な紙を使うから価値がある」
「上質な紙であることに意味があるのですか」
「上質な紙とは和紙のことだ。和紙には、霊(たましい)が宿りやすい。文庫妖火は知っているか」
「ふぐるまようび?」
「ふぐるまは、文庫と書く。古い文書が変化した妖怪だ」
「ふぐるま…。僕の苗字、文庫と書いてフグルマって言います。まさか妖怪と同じだなんて」
「君は文庫妖火なのか。あやかしの記録を後世に残そうと、怪談など書架に詰め込んでいるから、ついに妖怪が来訪した」
「僕は妖怪じゃありません。文庫瑠璃といいます。ただの女子高生です」
「面妖だな、そのベリーショートの髪形、どう見ても男子に見える」
「よく男性に間違われて、困ります」
すると僅かな刹那、物凄く苦渋の面持ちで黙考して、
「失礼だった、すまない」
「いいんです。気にしないで下さい」
「そうか、君は優しいな。御詫びにサービスのエスプレッソでも」
エスプレッソは苦手だ。あの濃厚なカフェインの味は、普段コーヒーを飲まない僕には苦味が強すぎる。
「あ、そんな気遣いは無用です。僕は怪談という屋号が気になって入店しただけですから」
言ってから少し後悔した。こちらこそ失礼な発言をしたかもしれない。カフェを標榜する店に入って、目的はコーヒーではないと主張してしまった。これでは意趣返しと取られかねない。
しかし轟は、目を輝かした。
「そうか、君は怪談好きなのか。私も怪談が大好きだ」
「怪談が嫌いな人は、怪談同人誌を発行したりはしません。たぶん」
「怪談は読むのが好きなのか、それとも書くのが好きなのか」
「両方です。web小説サイトの怪談コンテストに応募していて、最近、佳作を取りました。もちろん読むのも大好きです」
「書くのだな?」
「はい、書きます」
「それは実話怪談か、それとも創作怪談なのか」
「基本的に実話怪談です。人から聞いた怪奇体験を文字にしています」
「それはいいな…とてもいい…君が欲しい…」
「なな…なんですか?」
「私が怪談を収集するのには理由がある」
「怪談好きのための怪談文庫だと、さっき聞きました」
「それだけではない。民俗学のためだよ」
「民俗学というと、柳田國男とか折口信夫とかですか」
「彼らは偉大だ。私は足元にも及ばない。しかし真似事をしているつもりだ」
オーナーは、在野の民俗学者なのだろうか。
「今、私のことを在野の民俗学者なのかと疑問を抱いただろ」
心の内を見透かされて、少し驚いた。
「在野ではあるが、民俗学に貢献したいと思っている」
「柳田國男のように、民俗学的知見から、怪談を収集しているのですね」
「妖怪という語、もしくは概念を継続させるには、採集し記録することが必要だからな」
採集と記録、つまり怪談を取材して書くということか。
「例えば妖怪。妖怪という事象が起きるたびに、世間の妖怪に対する認識は進化する。
対して民俗学の妖怪の概念は、事象を説明するためにある。
事象が起こる度に、概念も加筆しなければ、事象を説明するための概念として適切ではなくなってしまう」
採集し、記録に残すとは、そういう意義があるのか。
「君は、どんな怪談を書くんだい」
独説を拝聴し、怪談の執筆には意義があるのだと驚いた。
僕の怪談も、そんな意義が見出だされて、記録されたりするのだろうか。
しかし…。web小説サイトに投稿した怪談は、実話のつもりで書いたが、僕自身の体験談ではなく、妹から聞いた話だ。
妹が創作怪談を語り、騙されてしまった純粋無垢な僕が、実話だと信じているだけかもしれない。
もし、そうならば、民俗学の概念のために実話怪談を求める轟さんに話すべき怪談ではない。
「語ってくれないのか」
「轟さんの目的に叶う怪談ではないかもしれません」
「それは私が判断する。それに無償とは言わない」
サービスのエスプレッソだろうか。でも、さっき断ったばかりだ。
でも、大好きなココナッツミルク入りのコーヒーなら考えてしまう。
「残念だが、私はココナッツミルクコーヒーの淹れかたを知らない」
また心の内を見透かされた。どうやって見透かしているのだろう。
「しかし、バイトのウェイトレスなら、ココナッツミルクコーヒーも淹れることができる。だが彼女が出勤するまで、凡そ一時間ある」
「じゃあ、普通のブレンドコーヒーでもいいですよ」
「残念だが、私は普通のコーヒーの淹れかたも判らない」
カフェの主人なのに、何故。
「店のことは、全てバイトのウェイトレスに任せてある。だから彼女が下校するまで開店出来ない。この店が夕方からオープンする理由だよ」
まだ営業時間じゃなかったらしい。じゃあ、さっきの高校生はお客様ではないんだ。高校生が座っていたテーブル席を見る。あれ、誰も居ない。話に夢中になっている間に、店を出ていったのか。
「昼間に、他の従業員を雇って、営業時間を長くする方法もある。しかし、募集をしても適材が居ない」
「適材ですか」
「ここはカフェだ。美味いコーヒーを出す必要がある。今、雇っているバイトの娘は、バリスタ並の腕を持ってるんだ」
「立派な学生さんですね」
「君と同じ女子高生だよ」
女子高生で、バリスタの腕前。
怪談しか書けない僕とは違い、生きるための技能を持ってる。
その女子高生が羨ましい。
「怪談を語ってもらうために、ココナッツミルクコーヒーを一時間待たせるのも忍びない。他に、望みはないのかい」
「他に、と言っても」
どうせ佳作レベルの怪談しか持ち合わせていない。だから見返りなど求めていない。「では、こうしよう。神隠しを起こした火車の正体を教えてやる」
「火車の正体ですか」
「それと引き換えに、君の佳作の怪談を聞かせてくれ」
正体とは何だろう。神隠し事件には、何か隠れた真相でもあるのか。もしかして、ミステリー的な?
「少し、興味があります」
「それでは、神隠しの現場の星宮神社でも散歩しながら話そう」
2
「草薙君は、お母さんにしか取材出来なかったから、狐音ちゃんの証言は、県警の発表による。夏恋君については、県警の発表を待たずに、色々調べたようだ。しかし同名の子供は、静岡県には存在しなかった。もしかして県外から訪れていた子供かもしれない。警察発表では、Mの友達とあるだけで、県内在住とは発表されていないからね。
草薙君は、事件発生から一週間後に、全国の行方不明者を照会してみたが、登録された失踪者のリストの中に、夏恋という未成年は含まれていなかった。夏恋、というのは本名ではないかもしれない。もしかしたら、事情により偽名を名乗っていたとか。でも、その一週間の間に、Mが証言したような特徴の男児が失踪したという届も出ていない。
結局、すべて狐音の虚言だと、警察は判断したようだ。しかし、草薙君の取材によると、当夜、市内のあちこちで光柱の目撃者が多数存在した。しして、狐音君が夏恋君を見失った時刻に、山頂の奥宮で修験者が護摩焚きをしていた。護摩焚きを行っていた年老いた修験者によると、境内で夏恋君と思われる少年を目撃したそうだ」
「じゃあ、警察の発表にある狐音さんの虚言というのは、間違いかもしれませんね」
「うん、確かに狐音は夏恋という少年の知り合いだったかもしれない」
しかし、事件後に該当する失踪者の届は出されていな。謎めいてる」
「どうだい、ここまで聞いて、君は化け猫の正体が分ったかい」
「現実的解釈ではないけど、僕が思うには、夏恋君は、光柱と共に雲間から降臨した猫、つまり火車に攫われた。
夏恋が存在していた痕跡が見当たらないのは、彼は元々存在しなかった。つまり幽霊だったから。火車猫に連れられてあの世に向かったのだと思います」
「それは違う。この事件には合理的解釈が成り立つんだ。さっそく、それを教えたいところだが何か忘れてないかい」
「あ、確か僕の佳作怪談との取引でした」
「真相を話す前に、君から代金の怪談を支払ってほしい」
「はい、では」
瑠璃は、先週結果発表があった中高生怪談コンテストの佳作作品「怪談・猫神社」を語り始めた。
僕の家族が、この町に引っ越して来たのは二週間前です。
両親が、宿泊業の商売を始めるというので中古の物件を探していました。両親は、幾つかあった候補の物件を、不動産屋と一緒に廻ったりしていたようですが、最終的に、値段がお手頃だったこの温泉の物件に決まりました。
購入した物件を改装し、民宿の体が整うと、家族で移り住みました。
引っ越して数日、まだ荷物の整理の終わらない内に、両親が片付けの息抜きに街を見て廻ろうというので、家族で散策に出掛けたのです。それが妹のゆずとある異形が再会した切っ掛けです。
丘陵地にあるせいか、道を進むにつれ視点が移り変わり様々な風景が眺望できる、素敵な温泉街。散策して感じた街の印象です。僕とゆずは、すぐに、この素敵な街が好きになりました。
そろそろ帰ろう、という両親に、ゆずは、「もう少し歩いてみたいと」一人で散策を続けました。僕は、この時、両親と帰宅したので、ここから先はゆずから聞いた話です。
メインストリートを北上していると、星宮神社がありました。
神社の境内で、ゆずは猫の集会と出くわしたんです。二十匹くらいの猫たちが、伸びたり丸まったりしながら円陣を組んでいました。
猫好きなゆずは、すぐにスマホを取り出すと一匹づつ写真に納めていきました。ある一匹の猫をファインダーに納めた刹那、「ニャンタ?」思わず声を上げました。亡くなった愛猫のエキゾチックショートヘアーにそっくりだったんです。
ゆずによると、あんなにブサイクなエキゾは、ニャンタ以外にいなるはずがない、そうです。ニャンタは、ただでさえブサイクなエキゾチックの中でも、輪にかけてブサイクでしたから。
でも愛猫は、去年亡くなっています。ニャンタではありません。
それでも、そのエキゾチックがニャンタの分身か何かのような気がして、側に駆け寄りました。モフモフの尻尾を触りたかったからです。でも、そのエキゾチックには、見ず知らずの鬱陶しい人間にしか見えなかったようです。のっそりと起き上がると、ゆずを無視して、境内の脇から続く山道を登って行きます。ゆずは、不用意に近付いて警戒されてしまった過ちを省みて、距離を取って跡をつけました。
季節は夏。夕闇の中、カエルの大合唱に包まれながら、沢沿いの道を、十五分は登ったそうです。道が折れ曲がり、猫が見えなくなりました。小走りに追い掛け、九折で体を反転して先を行くはずの猫を探しすと、どこにも見当たりません。木立に隠れたのかもしれない。そう思って、「にゃあん」猫語で呼び掛けてみました。すると、「にゃ」と上の方から返事があったんです。
声に誘われるがままに道を登ると、そこには鍾乳洞がぽっかりと口を開けていました。
洞口の横には「神泉鍾乳洞」と案内板があります。
「にゃ」鍾乳洞から鳴き声がします。鍾乳洞に入って行くと、照明に照らされた鍾乳石が光輝いて、とても幻想的だったそうです。その光る鍾乳石の中に、猫神神社と標榜された社があったんです。
神社の縁起を読むと、愛猫供養のための神様だとありました。
ニャンタが導いたのだと思って手を合わせました。
その時、再び猫啼がありました。
「にゃああああ」
社の中に、さっきの猫が隠れているのかと思って格子戸から覗き込みました。でも、中には石が祀ってあるだけで、猫の姿はありません。
帰宅したゆずは、ニャンタに逢ったと興奮気味に騒いでました。
「いい怪談だった。百々目鬼怪談文庫に収録したい」
「それは、かまいませんが」
「そうか、じゃあ、早速店に戻って原稿に直すよ」
踵を返すと、轟は走り去った。
「え、え、それじゃあ、僕が教えてもれるはずの神隠し事件の真相は、どうなろんです!」
小さくなっていく轟の背中を呼び止めたが、聞こえていないのか、彼の姿はやがて神社の前の路地に消えた。
「酷い!これじゃ、詐欺じゃないか!悪徳怪談収取家め、もう、二度と、あんな店には行かないからな!」
3
「化け猫の正体なら知ってる」
休憩所に入ると、さっき百々目鬼に居た高校生が休憩用の木製の椅子に腰掛けていた。紅茶の香りのする紙コップを片手に、文庫本を開いている。
しかし、僕の方を全く見ようとしない。視線は、本から離せないらしい。寸前に呼び掛けた声が、この高校生のものなのか疑問に思うほど、文章を目で追うのに集中していて、僕は自分の存在が空気か何かになってしまったかと疑った。
「貴方は、さっき百々目鬼に居た…。どちら様しょうか」
「ただの紅茶好きの高校生です」
でも目は文庫本から離さない。
「轟さんと僕の会話を…」
はらりと、頁が微風に捲れそうになる。彼は、親指に力を入れて押さえた。
「うん、全部聞こえてたよ」
物陰に聴衆が居たことに気付かなかった。独り語ちた轟さんへの酷い不満も聞かれていた。
恥ずかしさに動揺する。眼鏡を外してレンズをハンカチで拭いてみた。その仕草の間に、心を鎮め落ち着きを取り戻す。
「それって盗み聞きでは」
相変わらず、文庫本から視線を反らさない。よっぽど面白い小説なのかもしれない。表紙を見る限りでは、ブラックウッドのジョン・サイレンスのようだ。
「垂れ幕一枚挟んで距離にして一メートルだから、耳栓でもしないと必然的に聞こえてしまうよ」
まあ、それもそうだけど…。
「轟さんとは、お知り合いなんですか」
「百々目鬼怪談文庫の読者として、あの店を利用しているよ」
「あのう…あの人は何時もあんな感じなんでしょうか。変わり者と云うか、マイペースと云うか」
「轟さんが、何か困るようなことをしたの」
「化け猫の正体を教えてやるから、君の佳作の怪談を話してくれと取引を持ちかけられたんです。これでは僕は代金の払い損です」
「あの人は、君を騙そうとした訳ではない。ただの変わり者なんだ。取引を忘れていて、怪談が聞けたから満足して帰ったのだと思う」
それを聞いて呆然となった。
何と自分勝手な人にめぐり逢ったものだろう。忘れっぽいにも程がある。このままでは、こちらはまんじりともしない。謎である怪異だけ与えられて、真相は判らないまま。「探偵が犯人を指摘する頁だけ破り捨てられた謎解き小説を読んでる気分です。犯人の正体が知りたかった」
だが、この高校生は、化け猫の正体を知っていると最初に言った。轟さんが頁を破り捨ても、この高校生が足りない頁を埋めてくれるかもしれない。
「君自身が謎解きすれば、探偵は必要ない」
そうか、そうなのか。世の中は厳しい。他力本願では、真実に辿り着けないのか。僕には謎解きは無理だ。理屈を捏ねくり回すのは苦手だ。諦観して肩を落とした。
「かと言って、俺が教えてはいけない理由もない」
紅茶好きの高校生は、文庫本を閉じて、初めて顔を上げた。
その時、彼の目に映った僕の両目は、期待に満ちて輝いていたと思う。
「まず、二人の児童があやかし山の山頂に見た光柱の正体。あれは地上の光が大気中の氷晶に映るライトピラー現象だと思うよ。恐らく、修験者が行っていた護摩焚きの灯りが、ライトピラー現象を起こしたんだろう」
「でも、それだと、市街地の灯りも氷晶に映って光柱がたくさん見えるはずではありませんか」
「500メートルある山頂と市街地には温度と湿度に差がある、だから山頂にだけライトピラー現象が起きた」
「じゃあ、ライトピラーと神隠しは関係ないのでしょうか」
「その通り」
「それでは、狐音が証言した、「人の背丈ほどある巨大な猫」と、修験者が見たと証言した、夏恋君と思われる「少年」の正体は?」
「儀式のために猫神の仮面を付けた"小柄"な老婆の修験者だよ。修験者が目撃した「少年」の正体については、ボーイッシュな恰好をした狐音さんだと推測される。狐音さんは、きっと平均的小学一年生の女子よりも背が高いんじゃないかな。狐音さんが在校していた青空小学校では、学年ごとに通学帽子の色が分かれている。事件当夜、狐音は一年生が被る赤い帽子を被っていたんだと思う。しかし、一年生の女子にしては背の高い狐音を目撃した修験者は、彼女を男子生徒だと思い込み、「少年」だったと証言した」
「でも、それでは行方不明になった、夏恋君の存在が説明つきません。目撃された少年の正体が狐音さんだとしたら、狐音さんが何時も一緒に遊んでいた夏恋君は何者なんですか」
「夏恋君の正体は、狐音のイマジナリーコンパニオンだよ。幼少期に過度のストレスなどの原因から、空想の友達を生み出してしまう症状で、狐音の場合、両親の離婚の話が、彼女の心に負荷を与えていたのかもしれない。イマジナリーコンパニオンは、大抵同性の友人であることが多いけど、ある解離性同一性障害の女性は、目に見える異性のイマジナリーコンパニオンを持っていたという例もあるそうだよ」
「そっか、狐音は寂しかったから空想の友達を幻視してしまったのですね。でも、両親の離婚が取り止めになり、もう夏恋君は必要なくなった。だから、彼は消えてしまった」
「怪談というのは、合理的な現象であるにも拘わらず、それを非科学的現象だと思い込む心理から生まれるものなんだ」
「でも、中には本当の怪異もあるのではないでしょうか」
「君は怪談鵜を書くみたいだから、そう考えるだろう。でも、一見して怪異と捉えられる事象が起こったら、怪異ではないかもしれないという視点からも考察してみると面白かったりする」
「面白いんですか」
「怪異を怪談として楽しむのも、怪異を合理的に解体して謎解いてみるのも、どちらも面白い」
「怪異は娯楽という観点には元々賛成です。でも謎解いてみるのも、怪異の楽しみ方だというのは、今、気付かされました」
「web小説サイトには、怪談を良く投稿するのかな」
「中学の頃から、八雲というクリエーターネームで、ロマンジェーレというサイトに八雲怪異譚というシリーズを書き綴っています」
「中学の頃からか。俺と同じだ」
「小説を書くのですか」
「うん、怪奇小説をアニマ・リヴェスタってサイトに投稿してる、最も俺のは。怪異を謎解きする小説だけどね」
お互い、クリエーターということで、少し親近感がわいた。この人のことをもう少し知りたい。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「ツキカ。夜空の月に、歌唱の歌と書くよ」
苗字が、だろうか。いや、苗字か名前かは判らない。
「えっと、どちら様のツキカさんでしょうか?」
「ココノ」
月歌は下の名前のようだ。ココノは小恋乃とでも書くのかも。
「苗字で呼んだほうがいいですか」
まだ下の名前で呼ぶほど親しくない。
「ルナって呼んで。みんなそう呼んでる」
ルナ?
そうか、月の字が入っているからルナという通称なのか。
「そうだ、怪談好きな君のために、これ貸してあげる」
ルナは、カバンあら冊子を取り出した。
「あやかし山の民話と伝承 星宮神社発行」と印刷された、薄い本だ。
「薄い本だけど、怪談の素材が一杯載ってるから読んでみて」
「大事な資料をありがとうございます。すぐに読了して返します。返却はどうすれば良いですか」
さっそく頁を捲る。目次には、鬼火、幽界、化け猫、など魅力的な文字が並んでいる。
「何時でも良いよ。僕は愛読書にしていて、百回は読んだから」
確かに、糊付けされた頁が分解しそうなほど、繰り返し読み返された跡が見て取れる。
「じゃあ、今夜中に読了して、明日返します」
「うん、判った。明日の正午に怪談喫茶百々目鬼で会おう」
そう約束して、僕とルナさんは別れた。
4
家に帰ると、ベッドに寝転がり、さっそく冊子を開いた。
前書きによれば、この冊子は、星宮神社の神主の星宮さんが、あやかし山周辺の伝承を集めたものだとある。
あやかし山周辺は、かつて養蚕を生業とする村々、麻機村、大内村、新田村、平山村、足踏郷、が点在していた。その村々が、いまは合併して青空町になった。
目次には、民話らしい題名が並んでいる。
滝の天狗、河童渕、弁天池の女神、雷神の社、化け猫の沢、隠里世。
目次には、民話らしい題名が並んでいる。
隠里世というのは、何と読むのだろう。「かくれざと」に「世」の字が付いている。
隠里世の頁を開いてみると「かくりよ」とルビが振られていた。
「隠里世とかいて「かくりよ」と読むのか。めずらしいな」
「かくりよ」という響きに覚えがあった。本当は、別の字を当てるのが正しい気がする。電子辞書で「かくりよ」を検索すると、「幽界」と表示された。幽界と書いて、かくりよと読む。
生者の世界「現世(うつしよ)」に対して、死者の世界を「幽界」というらしい。
「あの世のことね」
死者の世界「かくりよ」に「隠」れた「里」の「世」と当て字した。人が死ぬことを、「お隠れになる」と昔は言ったらしい。死んだ(隠れた)者の里がある世界という意味だろう。
冊子の隠里世を読んでみる。
隠里世‐壱 鼠の穴
むかしむかし、ある修行僧の妙沢さんが、あやかし山の頂上でおむすびを食べていました。すると、おむすびが掌からこぼれ落ちて、ころころと斜面を転がっていきます。
妙沢さんは、まてーまてー、と追いかけます。
おもすびが、とつぜん消えました。
きえた辺りを探すと、大きな穴があります。
穴の中から、
「おむすびだー、おむすびをくれたぞー」
ネズミたちの騒ぐ声が聞こえてきました。妙沢さんは、穴の中をもっとよく見ようと覗き込みます。
そのとたん、穴に落ちてしまいました。
ネズミたちは、
「きっと、あのお坊さんがおむすびをくれたんだ。権兵衛ネズミに相談しよう」
そう話し合って、ネズミの棟梁の権兵衛に相談しました。
話しを聞いた権兵衛ネズミは、妙沢さんにお礼をすることにしました。
妙沢さんに山のような金銀財宝をくれたのです。
ただし、とネズミたちは言いました。
「この穴のことは秘密にしてください」
妙沢さんは、約束してネズミの穴を去りました。
ネズミの穴から帰った妙沢さんは、もらった金銀財宝であやかし山に虚空蔵尊を奉り寺院を建立しました。
そのお寺が、後の猫沢寺(びょうたくじ)だということです。
隠里世‐弐 猫浄土
昔、猫沢寺の酒好きの破戒
僧は録に勤行もせず、檀家に迷惑ばかりかけていた。
しかし金毛の愛猫だけは可愛がっていた。この金の猫は、浄土から来た猫だという。
破戒僧は死ぬ数日前から、読経を始める。
破戒僧が死ぬ。
臨終前に本 領を取り戻した坊主のために、檀家連中が銭を出し合って隣村から僧侶を呼び、葬式をした。
破戒僧の愛猫が現れ、棺の遺体を抱えて雲間に消える。破戒僧は、可愛がっていた金の猫に連れられ極楽に行けたのだ、檀家連中は口々に言い合った。
星宮神社は、廃仏毀釈以前は猫沢寺という寺だった。現在の星宮神社の宝物殿には、その浄土猫を模った純金の猫の置物がある。昔は、この金の猫を祀っていた。
隠里世‐参 あの世の穴
昔、猫沢寺のお坊さんが、この山にはあの世と繋がる入り口がある、というので豪勇で知られる侍が、その穴を見に行きました。山の中腹にぽっかりと口を開いたあの世の穴からは、温泉が流れ出ています。これは霊泉に違いないと、源泉を探しに穴に入ると、あの世の里には、亡者が労役に処されていました。閻魔様は、亡者も労役の疲れをとる不老の霊泉があるからと、侍を源泉に連れて行きました。その源泉に浸かると、たちまち病や創が癒え若返ったそうです。
侍は、現世に戻ると、あやかし山の一画に閻魔天と亡者を祀る社を建てました。すると、麓の村々にも、その霊泉が湧き出でて、全国から湯治の客が訪れたそうです。
毎年猫祭りの前後数日の間、この社に亡者が訪れ、その姿が鬼火となって光ると云う。
冊子を枕元に置く。
三話構成の内、壱に関しては、星宮神社の前身の猫沢寺の開基の話し。
弐は、後の猫神信仰につながり、参はあやかし温泉の起源譚のようだ。
どれも、異界と現世の交換譚のようだ。異界の恵みを得て、それを祀り信仰する。
三つの内、二つの異界は、あやかし山にあり、それは穴だと明記されている。
スマホを取り出すと、「あやかし山 穴」で検索する。
ヒットしたのは「あやかし山神泉鍾乳洞」という観光名所。
「これって、ゆずが猫啼を聞いた鍾乳洞かもしれない」
鍾乳洞に祀られた「猫神」って、猫浄土から来訪した「金の猫」と、同じ対象なのかもしれない。そして「鼠の穴」からは金銀財宝を持って帰る。「鼠の穴」から授かった金で、猫浄土の「金の猫」の像を造ったのだろうか。ひょっとして、「鼠の穴」と、「猫浄土」は同じなのかな。
じゃあ、霊泉のある「あの世の穴」はどうなんだろう。霊泉の話しには、金を授けたり、謎の猫は出てこない。この参だけは、独立した別の伝承なのだろうか。
それと、祭りの前後に鬼火が光るというのは、どういう意味だろう。
祭りの提灯か何かが遠くから見ると、鬼火に見えるという比喩だろうか。
スマホのカレンダーを見る。猫祭りまで、数日。本当に社が光って見えるのか。
ベッドから起き上がると、去年の誕生日に両親から買ってもらった高感度カメラを、棚から取り出した。
私は星を眺めるのが好きで、子供のころから、夜空の絵を描いてコンクールに応募していた。
「瑠璃、カメラに興味はあるかい。写真も楽しいよ。」
全国の天文台を巡っては、星座や星雲の写真を集めていた父親に促されて、スマホで夜空の写真を撮るようになった。そんな私に喜んで、父が、このカメラを買い与えてくれた。
窓を開けると、ふんわりと夜風の匂いがした。満天の星空の下に、あやかし山の稜線が見える。カメラで山腹を映す。接続したPCのスクリーンにに幽かな光がキラリと瞬く。確かに、あやかし山の山腹には、緑色の怪しい明りが燈っていた。
5
翌朝、朝早くにゆずに起こされた。時刻は午前五時。
「なに、こんなに早くに」
ゆずは、ベッドの横たわる私に跨りながら、
「お母さん、体調が悪いって。風邪みたい」
「宿泊客の朝食は、どうなっているの」
小柄なゆずを持ち上げながら起き上がる。
「お母さんは寝込んでいるから、ゆずとお姉ちゃんもお客様の朝食手伝ってって」
「お父さんが、そう言ってるのね」
「うん、そう言ってる。エプロン似合うかな」
ゆずは、母のエプロンを着けている。
「似合うよ。女将さんみたい」
私も、パジャマから作務衣に着替えると、厨房に立つため、エプロンを着けた。
その日は、日曜日で、宿泊客も満員だった。厨房でゆずと二人で、父が作った料理を盛りつけしする。それが終わると、各部屋に配膳する。
朝食を終えた宿泊客がチェックアウトすると、布団を片付けた。
今夜の仕入れに行き、父と仕込みを始める。
いつの間にか、ゆずは居なくなっていた。きっと親友のみーちゃんの家に遊びに出掛けたのだろう。
その後は、今夜の客のお部屋の準備だ。チェックインの時間が始まる三時前に、熱の下がった母が、職場に復帰した。
後は、母に引き継ぎ、自室に戻った。
「ああ、疲れた。もう三時半か。待ち合わせの時刻は五時だったよね」
少しだけ休もうとベッドに横になった。
そしてウトウトとしてる内に、眠りに就いたのだと思う。
気付くと、午後六時だった。
「遅刻じゃん!ツキカさんに怒られちゃう!」
慌てて自転車に乗って怪談喫茶百々目鬼に向かった。
百々目鬼の店内には、客が数人居た。テーブル席に二人。カウンターに一人。
従業員の女性も一人居る。彼女が、轟さんの代わりに店を仕切っているアルバイトだろうか。まだ高校生に見える。
ツキカさんの姿は見当たらない。まで来てないのか。違う、もう待ち合わせ時刻を一時間以上過ぎているから帰ってしまったのだ。
待ち合わせ時間を守れなkった居心地の悪さと、相手を怒らせたかもしれないという不安が、顔に現れていたのだと思う。従業員の女性が気を配ってくれた。
「誰かと待ち合わせなの?」
ココノツキカは、オーナーの轟さんを良く知っているようだった。ものかしたら、常連かもしれない。もしそうなら、この従業員もココノツキカを知っているはずだ。
「ココノツキカさんと待ち合わせをしてたけど、遅刻してしまって」
「ココノツキカ」
彼女は首を捻った。知らない客なのかもしれない。
「轟に訊けば判るかもしれない。座って待って」
従業員は、カウンターの奥に消えて行く。
待ってる間、カウンター席に座って、入り口の外を眺めた。
外は、しとしとと雨が降り始め、入り口の硝子に雫が伝う。
ココノツキカも寝坊した揚げ句、今頃になってタイミング良く遅刻して来ないだろうか。
「お待たせ。轟は、ココノツキカを知らないって」
カウンターの奥から、従業員が戻ってきた。
「そうなんですか?ココノさんは、轟さんを良く知ってる口振りだったのに」
「まあ、轟の奴、厨房で本を枕にしてウタタネしてるから、寝言の返事だけどね」
轟さんも、従業員も知らないんじゃ、常連客ではないようだ。しかし、初めてココノツキカを見たのは、この喫茶店だった。初来店の客なのか。
待てよ、昨日、ココノツキカは開店前の店内に座っていて、開店前に店を出て行った。
不可解な行動だし、それを轟さんは咎めもしなかった。
「開店前にお客様が入店していることはありますか?」
「それは常連客ね。常連客は轟の許可があれば入店して良いの」
やっぱりココノさんは、常連客なのか。でも、轟さんも貴女も知らない人物。
これは謎だ。
「力になれなくてごめんね」
従業員は申し訳なさそうに謝った。
「こちらこそ、お忙しいところに申し訳ありません」
物思いに耽りながら、店を出た。
自転車で自宅に向けて走る。
途中、コンビニの前で停車した。店内に見覚えのある人物の姿が居たからだ。雑誌を立ち読みする、ココノツキカだ。ココノツキカは青いシャツを着ていた。
コンビニの横にある駐輪場に自転車を止め、表に廻って店内に入る。さっきまで書籍コーナーに居たココノツキカの姿が無い。
消えた?
コンビニの外に出て、車道の左右を見渡すと、ミニバイクに乗る青の半袖の男性が、赤信号で停車している。
私が店舗脇の駐輪場に自転車を止めている間に、彼は入れ違いに店を出て正面の駐車場に止めてあったミニバイクに乗ったようだ。自転車に跨り、ミニバイクを追いかける。信号が青になると、近付いていたミニバイクが走り去って行く。ミニバイクの制限時速は三十キロだ。自転車でも、ついて行けないことはない。
追跡しながら考えた。ココノツキカという人物は存在しない。何者なのだろう。あやかし山には、鍾乳洞を抜けると、隠里世――カクリヨと読む隠里がある。祭りの前後に、鬼火が見えるのは、亡者が幽界から現世に現れるからだという。現世には存在しないココノツキカ。ツキカの正体は隠里世の亡者かもしれない。
やがて、ミニバイクは星宮神社に到着した。ココノツキカは、ミニバイクを境内に乗り入れて行く。私は、一分の差で、鳥居の前に辿り着いた。境内には石灯篭が燈っていて、本殿がライトアップされている。しかし境内を見渡しても、ココノツキカどころか、ミニバイクの姿も見えない。ココノツキカは消えた。隠された里に帰郷したの?
「隠里世って、此処の事?」
今、自分は何て言っただろう。
「此処の…ココノ…」
そうか、私は「ココノツキカ」を本名だと勘違いし、月歌に月の字があるから、
ルナという愛称だと思い込んでいた。でも、それは勘違いだった。ココノとは、ここの場所という意味。此処の神社の、という意味だ。星宮神社の神主は「星宮」さんだ。彼の本当の苗字は、「星宮」なのだ。
境内の奥にある住居の表札には、「星宮」の苗字と、両親の名前の下に「月渚」と印字されている。月歌という名前は印字されていない。
昨日は、web小説の話しの後に、彼のことが知りたくて本名を訊いた。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
しかし彼はまだ最前のweb小説サイトの話題が継続中のつもりで、
「ツキカ。夜空の月に歌唱の歌と書くよ」
クリエーターネームを名乗ったのだ。その後、ルナと呼んでほしいと言った。本名はルナであり、そう呼んでという意味だ。
つまり、この表札にある月渚は「ルナ」と読む。
少し緊張していた。呼吸を整えると、呼び鈴を鳴らした。
6
境内の休憩所で、星宮さんは、自動販売機の紅茶を奢ってくれた。
「月歌は、クリエーターネームだよ。本名は星宮月渚。自己紹介の際に、齟齬があった。お互いに気付かなかったんだね」
「てっきり月渚さんは、隠里世から来た異形だと思ってしまいました」
「どうして」
「隠里世の鬼火を目撃したから、祭りの前後に隠里世から現れる亡者は、実在すると思ったんです。そこへ来て、轟さんが、ココノツキカなんて客は知らないって言うから、てっきりココノツキカは、隠里世から現れた異形だと思ったんです」
「そっか。確かにココノツキカは実在しない。だけど、鬼火は実在するよ。君が見た山腹の灯りは、鬼火に間違いない。ただし、亡者の魂ではなく、あれは蛍石の燐光なんだ」「蛍石?」
「フローライトという蛍光石だよ。蛍光石というのは、紫外線を当てると励起して、紫外線より波長の長い光を放つ。様々な蛍光石があるけど、代表的なのがフローライト」「紫外線で光るということは、太陽光で発光するのですね。でも、僕が見たのは日暮れ以降です」
「フローライトの中には、紫外線照射を終えても、蓄光していた光を燐光する石もある」「なるほど。蓄光ですか。昼間に光を蓄えて、日暮れ以降も光るということですね。しかし、それでは、祭りの前後だけ光るという伝承が符合しません。毎日燐光を放つのではありませんか」
「蛍石を御神体とする、鬼火社へ射し込む太陽光の角度が重要なんだ。鬼火社のある、渓谷の岩壁に、太陽光が射すのは、夏の一週間の間だけなんだ。その間に、祭りが行われる」
「…光る社の謎、なかなかです」
「謎じゃないよ。謎だと思うのは、まだ君が引っ越して来て日が浅いから。鬼火社の御神体がフローライトで、それが太陽光で燐光するなんて事実は、地元民には当たり前の事さ」
「そっ…すか」
「ところで、星宮さんは…」
「月渚で良いって」
「月渚先輩は、青空学園の生徒さんなんでしょうか」
「そう、青空学園三年生。君もかい」
「僕は、一年です」
「最近、あやかし温泉に引っ越して来た一年生が居るって聞いたけど、君のことなんだね。もう部活は決まったのかい」
「部活は、前の学校でも、帰宅部でした」
「そっか。あの冊子は、青空学園民俗学研究部が発行したものなんだ」
「え、そうなんですか」
「怪談好きだと聞いたから、冊子を読んでもらって、君の反応を見たかった。冊子は、面白かったかな」
「妖怪の伝承が盛り沢山で、僕の好みでした」
「じゃあ、決まりだね。俺の一存で入部の是非は決められないけど、顧問の遠野先生に入部届け出すのは決まり。楽しい怪談収集に青春の全てを費やそう」
怪談に全霊を注ぎ込む青春。
僕の青春は、ここから始まった。
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