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今回に限ったことではないけど、橙子が前日の話を覚えているかは五分五分だ。
前日の話の続きより印象的な出来事――例えば、朝のバスでくしゃみのうるさいお爺さんと乗り合わせたとか、カッコいい先輩にあいさつできた、みたいなこと――があったら前日の私との会話なんて宇宙の彼方にすっ飛んで行ってしまう。
かといって、私の方が前日の約束を忘れていたら「茉莉って結構薄情だよねー」と怒られる。だから、私は今日の橙子がどっちのモードでも対応できるよう、今朝見た夢の説明を口の中で整理しながら教室のドアを開けた。
「あ、茉莉、おはよー! ねえちょっと聞いてよ」
教室に入るやいなや、頬を上気させた橙子が飛び付いてきたので思わずたじろいだ。
「どうしたの?」
「文学先輩に告白されたの!」
「ええっ!」
毎朝橙子と同じバスで登校している、イケメンな先輩の話は前から聞いていた。名前は知らないけどいつも難しそうな文庫本の小説を読んでいるから文学先輩。
「今日さあ、バスで痴漢に遭ったの! 最悪でしょ。でも、そこで颯爽と助けてくれたのが文学先輩だったってわけ。凄くない?!」
「すごい、ドラマみたい」
「でしょでしょ!」
どうやら、今日の橙子は“こっち”のパターンだったらしい。アプリの話なんて最初からなかったみたいに忘れ去られている。
「それで、付き合うの?」
「もちろん」
「そっかー、おめでとう。ところで、文学先輩の本当の名前って何だったの?」
たわいない質問のはずだった。だって、橙子の彼氏になったのなら文学先輩、なんてふざけたあだ名では呼べない。
なのに、橙子は急に真顔になった。
「は? 茉莉、人の彼氏のこと狙ってんの?」
「違うよ! 別にそういうわけじゃ」
「じゃあなんでそんなに先輩の情報に執着するの?」
「執着なんて……」
橙子はゆらりと一歩、私との距離を詰めた。
「前から思ってたけど、ほんとアンタって最低だわ」
「急にどうしたの?」
人が変わったかのように表情を変えた橙子が私をじりじりと壁際まで追い詰める。背後には、全開の窓が口を広げて私を待っていた。
「アンタなんか、死ねばいいっ!」
「やめて、橙子っ」
どん、と突き飛ばされると共に、私の体は宙を舞った。
みるみる地面が近くなる――。
◯
「……っていう夢でさ、ほんと怖かったんだよ!」
私が熱弁するほど、橙子は心底おかしそうに笑った。
「あはは、なにそれ。私めっちゃ悪女じゃん」
「夢の中ってなんでもアリだからさ、どうなるか分からないのが余計怖かったよね」
今日は朝から雨だったので、自転車登校を早々に諦めてバスを使った。なので、放課後橙子と並んで帰りのバスを待つ間、空想さんが私に見せた夢の話をしていたのだった。
たくさんの生徒が利用するはずのバス停なのに、なぜか今日は私たちの他は誰もいない。雨の影響か、いつもより交通量の多い大通りを自動車が勢いよく駆け抜けては水飛沫を散らしている。
橙子はひとしきり笑ったあと、まだひいひい言いながら私の肩を叩いた。
「夢って不思議だよね。めちゃくちゃな設定でも夢の中に居る時は気づかないんでしょ? でもまあ、茉莉に関して言えば、現実でなにか起こってても気づかなそうだけど」
「えー、そうかなあ? 確かに、注意深い方ではないけど」
「実際、アタシが先週彼氏できたの気づいてないでしょ?」
「えー確かに……って、今なんて?!」
さらっと聞き流しそうになったけど、橙子に彼氏ができたって?
確かに、気がついてなかった。だってこれまでそんな素振り全然なかった。
「相手は誰?」
「二組の藤野くん」
橙子はぺろっと舌を出して言った。
藤野くんって、いつも冷静で勉強ができて、凄く優秀な男の子だ。橙子とはまるで正反対なような……そういえば、昔藤野くんでからかわれた事があったっけ。
「あ、その顔。アンタ、どうせ藤野くんみたいな優等生はアタシには勿体無いって考えてんでしょ」
「いやいや、そんな事ないよ!」
顔の前で両手を振って慌てて否定する。
もし私がちょっと沈んだ顔をしてしまったとすれば、藤野くんがどうとかではなくて、橙子が彼氏と過ごすようになったら私はひとりぼっちだなあ、なんて考えが一瞬よぎったせいだ。
だけど、橙子は私の言葉を全く信用していないようだった。イライラと指で髪を巻き取りながら、私を睨みつけている。
「前から思ってたんだけどさ、そうやって人のことバカにするのやめてくれない?」
「ど、どうしたの急に?」
人が変わったかのように表情を変えた橙子が私をじりじりと歩道のきわまで追い詰める。背後には、タイヤを鳴らし走り抜ける自動車が私の背を掠めた。
「アンタなんか、死ねばいいっ!」
「やめて、橙子っ」
どん、と突き飛ばされると共に、私の体は宙を舞った。
眩しいベッドライトが近くなる――。
◯
私と橙子は、二人きりで長い大きな煙突のてっぺんに座り、淡い色の空を見ていた。
いや、本当のところそれが空なのか、または目下に広がる海と空が曖昧に混じり合ってできた水色なのか、私たちにはわからない。
ひとつ確かなのは、ここには私たちしかおらず、これまでも、これからも私たちは二人きりだということだった。
そして、どういうわけか私はその事実を憂いている。
橙子はさっきから私の知らない誰かの話をずっとしていて「それでさあ、サプライズとかアタシ無理なタイプじゃん? ずっとそう言ってんのにコイツなんも聞いてないじゃん! ってムカついちゃってさ」と私の上の空の相槌を気に留める事なく喋り続けている。
「ねえ茉莉、ちゃんと聞いてる?」
「え? ……ああ、うん」
「アンタさ、ただでさえ普段から何考えてるかわからないんだから、返事くらいまともにしなよ」
「してると思うけどなあ」
「……はあ」
大きくため息をつく橙子の横顔の向こう、水平線の彼方にきらめくものが見えた。
「あっ」
船が来た、と思った。
助けが来たのだ、と。
橙子もその光に気づいたようだった。
そして、私に暗い目を向けた。
「……茉莉が何考えてるか分かるよ。アタシが居なくなれば自分は助かるって思ってるでしょ」
「えっ」
急に何を言い出すのかと驚いたが、そう言われると、たしかに自分はそんな風に考えていたような気もしてくる。
私は、橙子と二人きりでいるのに辟易していたのだから。
取り繕う様子すら見せない私に、橙子はみるみる怒りを募らせているようだった。
「そんなこと……絶対させないんだから!」
人が変わったかのように表情を変えた橙子が私をじりじりと煙突の中央に向かって追い詰める。渡り廊下くらいの幅しかない足場の先には、真っ暗な空洞が無機質な風を吹き上げている。
「アンタなんか、死ねばいいっ!」
「やめて、橙子っ」
どん、と突き飛ばされると共に、私の体は宙を――
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