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その日は雨が降っていた。といっても唯の雨ではないらしく、記録的なんちゃら大雨みたいな事を朝のテレビが言っていた。そろそろ夏本番という時期の休日だと言うのに、こんな雨が降っていては外出、ましてや海水浴などという予定はことごとく流された事だろう。
とは言え、会社か図書館以外にこれといった外出もしない私には、関係の無い話であった筈だ。その筈だった。
意外と主張の強い雨音を背景に、ソファーに寝っ転がって読書をしていると、何かを擦る様な音を私の耳が拾った。カサカサというどうにか聞こえるかという僅かな音なのに、うまく私の集中を乱した。耳を澄ますと、その音はどうやら玄関からしている様だった。
不意にパタンと音を立てて、ページの分からなくなった本を一瞥し、私は気紛れに立ち上がった。リビングから出て、玄関を覗いて見ると、ドアの磨りガラス越しに何かがドアに持たれ掛かって居るのが見えた。その何かが動く度に、カサカサと耳慣れてしまった音がなる。好奇心を膨らませた私は、そろりと玄関のドアを開けてみた。そこに居たのは1匹の黒猫だった。素人の私でもパッと見で分かる程にそいつは痩せ細っていて、所々の毛が禿げていた。大雨で体をびしょ濡れにし、何とか私の玄関先まで避難して、助けを求めたのだろう。哀れに思った私は、取り敢えずこの猫を保護してやろうと考え、猫に向かって手を伸ばした。
猫に手が触れた瞬間、風呂の排水溝に詰まった髪の毛の様な感触に総毛立ち、私は思わず飛び退いた。思わず猫を凝視する。そいつは大人しい性格なのか、それとも元気がないのか、とにかく私を見つめてキョトンとしていた。その瞳が妙に気味悪く感じられた私は、逃げる様にドアを閉めた。ドアの閉まる音で冷静になった私は、小走りで洗面所に向かい、タオルを引っ張り出して来て、再び猫と対面した。相変わらず気色悪い目で此方を見つめる猫をタオルで包んで、風呂場へと運び入れた。いきなりの事なのに、その大人しい猫は少しも暴れなかった。風呂場で猫をタオルから解放し、ぬるま湯で洗い流す。猫は少し嫌そうな素振りを見せたが、されるがままにぬるま湯を被っていた。一通り流し終わった後、再びさっきのタオルを手に取って、猫を拭く。少し手つきが荒くなっているのが、自分でも分かった。拭いた後、タオルに猫の抜け毛が大量に張り付いているのが見えたので、そのタオルはゴミ箱に放り込んだ。私は自分自身の異変と、私の中に湧き出す衝動を、薄々感じ取っていた。それを振り切るようにして立ち上がった私は、冷蔵庫から牛乳を取り出した。そして食器棚にを掛け、しばらくの逡巡の後に、手頃な大きさの皿を引っ張り出した。暫く使っていなかった所為なのか、被っていた埃を軽く息を吹くことで霧散させ、そこに牛乳を注いだ。
気付けば猫が私の足元にいた。一瞬顔が引き攣り、身を固くした私だが、何とか気を持ち直し、牛乳の入った皿を差し出す。人間用に作られた牛乳を猫が飲んで大丈夫なのか?そんな事を一瞬考えたが、どうでもいいかと思いなおす。猫はぴちゃぴちゃと下品な音をたてて皿から牛乳を飲み出した。
ふと冷静になって考える。私はこの猫に対して冷徹過ぎやしないだろうか。
改めて猫を見る。不細工な顔だ、まるで誰かが悪戯をしたかのように顔のパーツが絶妙にズレている、黒い毛は洗ったばかりだというのに不潔に見え、所々見えるピンク色の皮膚が生々しい。しかしそれだけでは無い、何か言い表せない様な不快感を私はその猫に感じていた。
猫が牛乳を飲み終えた。余程お腹が減っていたのか、皿の隅まで舐めている。
皿から顔を上げ、「にゃー」とひとつ鳴く。陶器を引っ掻く様な不快な声だった。皿は捨てるか迷ったが、洗う事にした。できる限り皿の端をつまんで持ち上げ、大量の水ですすぐ。洗剤に手を伸ばした所で、リビングから大きな音がした。
驚いて向かうと、崩れた本の山と猫があった。一部の本が衝撃でしわをつくり、床は少しへこんでいるのが見えた。
私に気づいた猫が、困った様な顔を此方へ向けて、またひとつ不快な声で鳴いた。
その瞬間、私の中から何かが込み上げるのを感じた。喉の奥が急に生暖かく感じられ、多少の目眩と同時に、体がカッと熱くなる。荒い息を宥めようと試み、拳を強く握る。本についたしわが、床のへこみが、あいつの不快な顔が、出で立ちが、どうしても目に止まって離れない。突発的な怒りと、蓄積された嫌悪によって身を焼かれる様な感覚だった。一種の焦燥感であるのかもしれない。
この猫を外に放り出してやろうか?さぞ寒くて辛い事だろう。凍え死んだっておかしくない。そもそもこいつが本の下敷きになればよかったのだ。そうすれば本が傷つかずに済むので一石二鳥だっただろう。今すぐこいつを絞め殺してやりたい。憎らしい顔を、不快な声を二度と聞きたくない。それが出来たらどんなに楽だろうか?
そこまで考えた所で思考が止まる。なんて馬鹿げた妄想だろう、そんな事出来る訳ないのに。そもそも、たかだか1匹の猫を相手に、何を躍起になっているんだ。私はそんなに狭量な人間だったのだろうか。冷水を浴びせられた様な気分だった。頭が急に冷える。もうどうでも良くなった。ひとつ大きな溜息をつく。
明日、自治体に預けよう。それまでは我慢しよう。そう自分に言い聞かせた。
猫を風呂場に入れてドアを閉め(閉じ込めて)、その日はそのままベッドへ行き眠った。
翌日、玄関のチャイムで目を覚ました。インターホンを覗くと、隣に住んでいる中年女性が見えた。如何にも、絵に書いた様な『おばさん』という感じで、特有の威圧感と厚化粧を画面越しでも、感じた。身なりを整えるため、少し待つように言って通話を切る。切る直前に溜息のような物が聞こえた。
「あのねぇ、昨日から変な音がしてうるさいのよ!」
パジャマからシャツとジーンズに着替えて、ドアを開けるなりそう言われた。
私は昨日の雨で野良猫を一時的に保護した事を話した。
「あらそうなのねぇ、猫ちゃんの声だったの。良かったじゃない。こんな無駄に大きな家に一人で住んで居たってしょうがないものねえ。でも躾はちゃんとしなさいよ。」
中年は早口でそう捲し立てた。声が大きい。
「まあ最近はねえ、猫や犬の殺処分が問題になってるし、貴方みたいに余裕のある人が協力してかなきゃね、いけないものね。」
少し嫌味を含んだ声で、威嚇するように言われた。飛んでくる飛沫が不愉快なので1歩後ろに下がる。
「そうそう、山田さんとか竹内さんちは猫飼ってるから、色々話して聞いてきてあげるわよ。」
言いたい事を言って満足したのか、おばさんは帰って行った。私はおばさんの背中を暫く呆然と眺めていた。
気付けば風呂場の前に立ち、ドアを開けていた。猫は洗面器の中で体を丸めて寝ている。
おばさんの言葉が頭の中で蘇る。
『色々話して聞いてきてあげるわよ』
この言葉のせいで猫を預けることは出来なくなった。あのおばさんはここら辺の地域では影響力が強い。もし私の家に猫が居なくなったことに気づかれたら、かなり面倒な事になる。ただでさえ肩身が狭いのに。最悪村八分だ。
私は朝食の支度の為、とぼとぼとキッチンへ向かう。途中、崩れた本の山が見えた。積み直そうかとも思ったがやめた、また崩されては堪らない。キッチンに着き、昨日の皿を片付けて居ないことに気が付いた。幸い洗剤に漬けてあったので軽く水で流すだけで済む。ついでに布巾で拭いた後に牛乳をそそいで床に置いた。自分の分の朝食を準備して食卓に運ぶ。視界の端で猫が自分の身を隠す様にして通り過ぎていった。そして、いきなり牛乳にがっつくかと思いきや、できる限り音を立てない様にして牛乳を飲み始めた。猫自身、私に快く思われて居ない事を悟って居るのだろうか。
「ごめんね」
猫に向かって小さく呟いた。猫は皿から顔を上げ、小さく口を開きかけた。しかしそれを直ぐに閉じ、再び牛乳を舐め始める。恐らく鳴こうとしたのだろう、しかし私が咄嗟に寄せてしまった眉根が、この猫を萎縮させ、結果的に救った。
この、よく弁えた不幸な猫は、なるべく私に自身の存在を感じさせない様にして、今後生きて行くのだろう。何て惨めな運命だろうか。
この猫には、そして私には、なんの落ち度もない。ただひたすらに、お互い不幸だったのである。
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