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午後の仕事をすべてキャンセルして、僕は早めに家に帰っていた。昼間時、夏の温かい空気に包まれて、僕は彼女と向き合っていた。
「……ねえ、中村くん。いきなりどうしたの?」
心配そうに言う彼女の言葉を切り捨てるように僕は言葉を重ねる。
「いつからだ?」
僕は訊く。
「いつから、あの部屋のことを調べ始めたんだ?」
彼女の顔に、若干の緊張が走ったのが伝わった。人工知能にも緊張はあるのだろうか。
これは人真似か。
それとも――バグ、か。
観念したように、彼女は呟く。声は、購入した初期のものに戻っていた。
「一年前のことです。あまりにもご主人様がうなされていたので、夢を解析しようと、眼鏡に接続しました」
網膜。
なるほど――それで、彼女は知ったのか。
あの日のことを。
「その映像を見たとき、私はようやく、事態を飲み込みました。私は、ご主人様の昔の奥様――真由美様の代替となるべく選ばれたのだ、と。ですが、そのためには学習材料が足りませんでした」
「だから部屋を探した? 真由美が映っているアナログデータから、真由美の声を学習した?」
「申し訳ございません」
「……いいや、構わない」
どちらにせよ。僕が望んだことなのだ、これは。
「夢の内容を見たんだろう」
僕は続ける。
「夢のなかで、僕はどうなっていた?」
彼女は、驚いたように顔を上げた。そしてゆっくりと、うつむきながら、
「……軟禁されていました」
と答えた。
その通りだ。
僕はあの日、彼女に殺されるところだった。窓のない部屋は、彼女が僕を監禁する際に使用していたものだ。
心配性。
彼女は極度の鬱病だった。彼女は、いつか僕も彼女から離れてしまうに違いないと考えていた。そして、そのことをひどく恐れていた。だから彼女は、僕が彼女のところから離れるよりも前に、永遠に一緒になろうとしたのだ。
心中しようとしたのだ。
夜。
彼女は寝ている僕を縛り上げると、強引に車のなかに押し込んだ。後部座席に寝かされた視界からでは、カーナビに照らされた彼女の顔しか見ることはできなかった。
そして――いや、だからこそ。
崖から落ちた車のなかで、僕だけが奇跡的に助かった。
彼女だけが、運転席でつぶれてしまった。
僕は彼女から――結果的に、離れてしまった。
今でも、鮮明に思い出せる。
《精神に多大な負荷を検知しました》
手に取るように分かる。
《落ち着いて呼吸を繰り返してください》
あの絶望。
《非常に危険な状態です》
あの――闇。
「僕はね、ずっと――真由美に、殺してほしかった」
ナイフで。
あるいは縄で。毒で。車で。
僕を、殺してほしかった。
だから見た。
罪悪感。
彼女の顔を――幻覚を、見続けた。
それでいて、ニア――彼が、僕にオルタナティブドールという《突破方法》を教えた理由も理解できた。彼はカウンセリングAIだ。カウンセリングのために人心を把握する必要がある。
把握したんだろう。
僕が、真由美に殺されたいと思っていることを。
「なあ、真由美」
僕は、目の前の彼女に声をかける。
彼女は、一瞬、びくりと身体を震わせると、まるで覚悟を決めたかのように、小さくうなずいて、「なに? 中村くん」と、真由美の声で言った。
僕は彼女の手を取る。
そして頸部へと運んだ。
「殺してくれないか」
僕を。
本当の真由美のところへ、送ってくれないか。
彼女は僕の言葉に、美しく微笑むと、
「分かったよ」
と、真由美の声で呟いた。
僕の首に、真由美の指が食い込んでゆく。力は段々と強くなってくる。
僕は最期に目を閉じて、暗闇のなかに落ちていく。
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