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 丸椅子をくるりと回転させるようにして、彼はこちらを振り向いた。そして、極めて平和的で柔らかな印象のある笑みを浮かべると、僕に手前の椅子に座るよう促した。  手慣れているな、と感じながら、僕は丸椅子に腰かける。  人間に似ていたが、無機物だった。 「こんにちは、中村さん。カウンセリングAIのニアです。名称は英単語の【near】に由来しています。本日はよろしくお願いいたします」  そう言って、カウンセリングAIのニアは、その金属質の右手を、関節を弄ぶようにして開いて見せた。きりり、と歯車の心地よい音が室内に響く。殺菌という言葉のよく似合う密室のなかで、人間と呼べるものはおそらく僕だけだった。  ゆえに、秘密は保持される。  そういうところを、すなわち「うり」にしているのがこの医院だった。どれだけ優秀なカウンセリング能力を持つAIとはいえ、データを引っこ抜かれれば、一瞬にして記憶喪失者だ。もちろん、通院履歴は別の、無機質で発言しないデータベースが管理している。 「本日で本医院への通院は五回目ですね。時間帯も誤差三分以内に収まっている。お仕事の休憩時間を利用してこちらに?」  ニアは人懐っこい笑みを浮かべてそう尋ねる。すでにカウンセリングは始まっているようだった。こういう些細な雑談から、人間の深層に入っていく。その特徴はどのカウンセリングAIにも共通していた。 「ああ」  と、僕はまず相槌を打った。 「編集の仕事をしていてね」 「なるほど、小説や漫画の?」 「小説のほうだね」 「するとお仕事のほうも大変でしょう」 「いいや、そんなことはないよ」 「謙遜されることはありませんよ。私も情報収集のために小説を読むことはありますが、ひとつひとつが完璧で、誤字脱字の少ないところには感動します。我々は時々、意味の間違った言葉を使用する場合がありますので」 「いえいえ、編集の仕事でも結構、あなたがたの助けを借りていますよ」  話しながら、上手いな、と思った。今の会話だけで、すでに三つは会話の分岐点が用意されていた。おそらく、その分岐点について悩みを抱えているのであれば、その方向に進むのだろう。つくづく計算された会話ということだ。けれどそういう手法は、自分から悩みを語りたがらない患者に向けての方法だ。  そして僕はそうではない。 「最近、幻覚をよく見るんです」  と、僕は自ら切り出すことにする。 「幻覚……ですか? 残影現象ではなく?」  残影現象とは、網膜接続による映像出力の接触不良から発生する、ある種の現実影響現象のひとつだった。例えば、第二現実で「バックトゥザフューチャー」を見たとする。通常、出力切り替えによって視界は切り替わるはずだけれど、これが接触不良を起こすと、第一現実――すなわち、裸眼で直接見る現実世界に、デロリアンが現れ始めてしまうのだ。  けれど僕のこれは、そういう次元のものではない。  なぜなら、彼女の映像データは、もうどこにも遺っていないからだ。 「大切な人がいたんです。けれどその人とは、わけあってもう会えなくなってしまって。だからなのか、いるんです――見えるんです」  僕は視界を、右に少しずらしてみた。  その先には本棚がある。  そして、本と本とのあいだにある暗闇から、彼女がこちらを覗いていた。  青い目。心配そうな眉。  害意はない。いつもの彼女だ。 「彼女とは、どうして会えなくなってしまったのですか?」  ニアは、少しだけ声音を低くして言った。本当に人真似が上手いな、と思わず感心してしまう。 「事故でね」  そのときの様子を、僕は今でも鮮明に思い出せた。  彼女の運転している車のなかで、僕は目覚める。辺りは暗く、カーナビの光りで照らされた彼女の顔以外には、ほとんどなにも見えない。急ブレーキの音。浮遊感。彼女の心配そうな眉。青い目。  衝突音。 「動物が飛び出したんだろうな。彼女はいきなり急ブレーキを踏んだ。僕と彼女を乗せた車は、ガードレールを突き破って崖へと真っ逆さまさ。僕だけが助かって――以来、僕は見るんだ」  彼女の顔を。 「自動走行車ではなかったのですか?」 「自動走行が可能な道じゃなかったんだよ。よくあるだろう? 田舎の山道なんかだと、マップの登録がされていないくて、結局手動運転にするしかない。そういう道に運悪く行き会ってしまったんだな」 「それは……お辛い経験をされましたね」 「もう慣れたよ」 「では、幻覚の内容について、もう少し詳細に伺ってもよろしいですか?」 「ああ」  僕はうなずく。 「見えるのは、往々にして彼女の顔だ。心配性な彼女は、いつも眉を八の字に曲げて、心配そうに僕のことを見上げてくる。もともと心が弱い人だったから、生前もよくそういう顔をしていたよ」  黒。  一面の――闇。  血。 「多分、僕が見ている彼女の顔は、事故にあった直後の彼女の顔だと思う。心配性な彼女のことだから、最期の最期まで僕のほうを見ていたんだと思う。彼女の顔は、色々なところの隙間だとか、物陰から僕のことを見ていることが多い。時間帯に区別はないけれど、少し視点を変えるとすぐに消えてしまう」 「なるほど――分かりました」  ニアは数秒ほど、目を閉じた。この光景には見覚えがある。今、彼は映像を作っているのだ。映像媒体からの働きかけが、人間の精神状況を改善させる一助になることは数十年前に証明されていた。  カウンセリングAIは、これをカウンセリング技術に応用する。症状を改善させる作用のある映像を、網膜接続から第二現実に反映させ、より直截的な治療を試みるのだ。 「それでは、治療に移りましょうか」  と、ニアは首筋のプラグを伸ばす。映像が完成したのだろう。僕は接続用の眼鏡を取り出し、接続の準備を始める――と、そのとき、不意にニアが、これまでのカウンセリングAIの誰もが言わなかったことを不意に、口にした。 「そういえば、オルタナティブドールのことは検討しましたか?」 「オルタナティブドール?」 「少し生々しい話になりますが」  と、ニアは前置いて続ける。 「僕たちのような人工知能は、このようなボディを得ることで初めて人間のようにふるまうことができます。通常、このようなボディは、人間の皆さんに過度の緊張を与えないためだとか、人間的な能力の必要な業務のために用意されるのですが――オルタナティブド―ルは、このボディを、故人とそっくりにすることができるんです」 「故人と?」 「そうです。加えて、故人のデータをフリーの人工知能に学習させてしまえば」 「故人とそっくり――なるほど、代替(alternative)ってことか」 「はい。……まあ、倫理的な側面から、滅多に利用される方はいないそうですがね」  それでは、治療を開始します。とニアは言う。  視界に、曼荼羅のような幾何学模様が現れて、視界を次々に埋め尽くしていく――そのあいだも、オルタナティブドールのことで頭はいっぱいだった。  たとえ、疑似的なものだとしても――彼女に、もう一度会える。  心拍数が上昇していくのが分かった。
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