kill

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 オルタナティブドールとは製品名ではなく、人工知能の改造手段のひとつであるようだった。  人工知能にオリジナルの設定を付け加え、疑似的な人体実験を行う研究施設の話は聞いたことがあるが、それと似たものなのだろう。なるほど、ニアの言う「倫理的に」とはこのことを指しているらしい。  けれど倫理は、心の欠落の前では無意味な枷だった。  オーダーメイドのボディパーツはかなり高価だった。今の仕事の、およそ三年分の収入に匹敵するほどである。  それでも、やはり日本産のボディは素晴らしく、「彼女」が家にやってきたとき、僕は本当に――彼女が帰ってきたのだ、と思った。 「ご主人様、はじめまして」  と、彼女の顔をした人工知能は微笑む。大学時代に出会ってから、そのまま学生結婚をして以来、彼女はずっと主婦だった。だからかもしれないが、彼女のスーツ姿には新鮮な感覚がある。 「素敵なお宅ですね!」  彼女の顔をした人工知能は、家に入ってくるとすぐにそう言った。外見は似ているけれど、やはりまだ声は似ていない。知識や声質、仕草や身振り手振りについてはこれからの学習で合わせていくのだろう。  僕は彼女の手を引いて、まずはこの家の間取りを教えることにした。家の間取りが分からなければ、人工知能は正しく作用することができなくなってしまう。そのため、主人の名前や、自身の呼び名よりも先に、人工知能がこれから住まう家の間取りを教えることのほうが多い。 「こっちがリビングで、こっちがダイニング。廊下を進んだ突き当りにある階段を上がると、そこに僕の部屋と物置、それから寝室――」  と、そこまで言って、言葉に詰まった。 「あれ、どうしました? ご主人様」  と、人工知能は首を傾げる。目の前にある部屋について、説明できないでいる主人のことが不思議らしい。けれど何も知らない彼女は、躊躇なくその部屋の扉を開いた。 「あれ? この部屋、何もない――窓もなければ、内側から鍵も開けられな……」  と、そこまで言った人工知能の肩をぐい、と僕は引く。そして勢いよくその部屋のドアを閉めた。 「……ご主人様?」 「この部屋は」  呼吸が加速しているのが分かる。 「この部屋は――使う予定のない部屋だ」  言いながら、僕はその部屋の鍵を閉めた。こうして部屋は密室になった。 「だから、この部屋には入らないで」 「……了解いたしました」  人工知能は何かを察したようにそう言うと、次の部屋へと足を運ぶ。  購入した人工知能は、現在販売しているなかでも最新の機種だった。そのためか、学習のスピードも異常なほどに早い。彼女はあっという間に、この家での生活に馴染んだ。 「中村くん、お夕飯は何にしようか」  最初の変化は、僕の呼び方だった。初めは「ご主人様」と僕のことを読んでいた彼女は、いつの間にか――その変化を誰にも気付かせないままに、僕のことを、生前の「彼女」のように「中村くん」と呼ぶようになっていた。  彼女はゆっくりと、「彼女」になった。  疲れ果てて家に帰ってくると、彼女は夕飯を作って待っていてくれる。視覚情報だけを見れば、以前の生活がそのまま戻ってきていると言えた。そして、そういう生活を続けているうちにいつの間にか、彼女の幻覚を見ることもなくなった。  こうして、僕の世界はオルタナティブドールによって補完された。  不思議なことに、彼女と会話を重ねているうちに、彼女の声は、以前の「彼女」の声によく似るようになっていった。「彼女」の映像記録はすべて削除してしまったので、「彼女」の声までは学習させることは不可能だろう、と踏んでいたのだが、それでも彼女は日に日に「彼女」に似始めている。  朝、目が覚めると、朝日やシーツ、目覚まし時計よりも先に、彼女の寝顔が目に入る。一緒に朝食を準備して、僕が仕事に出かけると、彼女は僕の家で家事をする。僕が家に帰ると、一緒に食事をして、テレビを見て、話をして、そして同じベッドで眠った。  あの幻覚はやはり、僕の精神的な疲労からくるものだったのだろう。そう考えてみると、すべてのことが腑に落ちた。僕の中にある、彼女への「会いたい」という気持ちが、僕に彼女の幻覚を見せていたのだ。 「あなた、いってらっしゃい」  彼女の声に見送られて、会社へ向かう。  ただそれだけのことが、僕を幸福にした。  そんなある日のことだった。  深夜に目が覚めると、「彼女」が寝室の扉からこちらを覗いていた。  ぞっとして、僕はすぐさま、隣で眠っている彼女のことを確認した。人工知能におよそ必要ないであろう寝息を立てて、彼女はスリーブモードに入っている。  つまり、あれは幻覚だ。  久しぶりだ――と、僕は嫌に冷静になりながら、立ち上がって、「彼女」のほうに歩み寄った。しかし、珍しいことにそれでも「彼女」は消えなかった。近付いていくと、「彼女」はテレポーテーションするかのように、視界の最も奥にある物陰から、僕のことを心配そうに見つめた。  僕は「彼女」を追うようにして歩み出した。  部屋を出て、廊下、突き当り、階段、廊下――の順番で、まるで一周するかのように家全体を巡ったのちに、「彼女」はあの部屋の前にやってきた。彼女がやってきた初日に、鍵を閉めてしまった部屋だった。 「彼女」はその中に、逃げ隠れるようにして入っていった。  待て。  入っていった?  鍵をかけたはずなのに?  どうしてドアが開いている?  僕は急いで、その部屋のドアを開いた。  ドアは開き、密室のなかにはカセットデッキが、墓標のように佇んでいた。
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