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夏のかけら
青。青。青。
目の前に広がる見渡す限りの青。
下を向いた時の床の色、もしくは見上げた時の空の色。どこまでいっても一面に広がる青。
最後の一かきの後、思いっきり腕を伸ばして、ぐんぐんと近づく壁に、掌を寄せた。
その一瞬の後、天地があべこべになって、思いっきり遊園地のコーヒーカップを回された様な軽い眩暈。うねりをあげる青を押し除ける数多の水泡。
ぎらぎら照りつける太陽は、水のカーテンを被って、水中にその身を隠す者には少し手心を加えてくれるようだ。その太陽に背を向けて、更にその顔を隠しながら、掌を寄せた壁を今度はつま先で押し込んだ。
そしてもう一度目の前に広がる一面の青。
その青色を味わいながら、手と足に力を入れる。
最後の25m。今日の俺のベストタイムへ向けて、最後の最後までその力を振り絞る。
次の壁に向かって必死になってる俺の隣をすり抜けたしなやかな肢体。学校指定の紺色水着に包まれて、まるで優雅に泳ぐイルカだ。
イルカとの距離はみるみるうちに広がって、いつの間にか存在を感じることもできないぐらい。
イルカに比べ、のろのろと泳いだ俺がようやく岸に辿り着き、立ち上がった鼻の先に差し出されたのは、白くて細い手。その腕を辿って視線を滑らせた先で、背中に太陽を背負ったイルカがオレに向かって笑いかけた。
「おつかれっ」
「女子だっていうのに、相変わらずはえーや」
目の前に差し出された手を取るのはさすがに躊躇われて、プールサイドに手をついて一気に身体を引き上げた。
目を覆っていたゴーグルをおでこの位置に上げながら、プールサイドに置いてあるタオルを取りに歩く。
「あー。それって男女差別」
歩き始めた俺を追いかけて、相間美波が頬を膨らませながらついてくる。
「これは差別じゃない。区別。男子の平均タイムの方が速いじゃん? 仕方ないって」
「その女子に負けてるよ?」
「うっせ」
美波のタイムには誰も敵わない。部員の中でも断トツに速い。『美しい波』なんてさ、泳ぐための名前だろ。
「怒んないでって。孝弥だって速いし」
「美波に負けてるけどな」
「ごめんってばー」
早足で歩く俺に遅れそうになりながら、美波が情けない声をあげる。
水の中のイルカは、陸地じゃまるでペンギンだ。身体を左右にヨタつかせながら、必死に着いてくる。
「美波、どこまで着いて来んの?」
「え?!」
俺に着いてきたまま、男子更衣室の入り口に足を踏み入れようとした美波に、さすがに声をかける。
「きゃあ!」
「きゃあ、はこっちのセリフな」
「も、もう! 早く言ってよ!」
「いやぁ、覗きたいのかと……」
「そんなわけないじゃん! バカっ」
捨て台詞を口にした美波は、慌てて女子更衣室に入って行った。
別に着替えに戻ってきたわけじゃないから、覗かれても困ることもないけど、着替えようが着替えなかろうが、男子更衣室は女子禁制。女子更衣室も然り。
少しでも日光で温まることを避けようと、ロッカーに避難してあった水筒の中身を口に入れれば、火照った身体を冷たい水が通り過ぎる。
このまま着替えて帰っても今日は問題ないだろう。授業でのプール開きの前に顧問が特別に作ってくれた水泳部員の為のプール開き。みんなが思い思いにこの夏の初泳ぎを堪能して帰ってる。いつまでも水が恋しく、プールに浸かっていたのは、気がつけば俺と美波だけだった。
「美波、もう帰るかな」
プールに続く道を見つめても、誰かが通る気配もない。『一緒に帰ろ』今日もまた、その一言が言えずに、美波の気配を探しながら帰るのか。
カバンの奥底に隠す様に放り込んであるスマホ。校内での使用は禁止。バレたら没収の上、親同伴で職員室。
まさかプールの男子更衣室で使ってるのが見つかるわけないだろうと、メッセージアプリを開く。
水泳部のグループから友達登録だけ済ませた『美波』の名前。トークを開けば一言の会話もない画面が広がる。
『もう帰った?』メッセージを打ち込んで、親指で消して。
『一緒に帰ろ』また打ち込んで、また消して。
美波と繋がってから、幾度となく繰り返したこの仕草。
スマホを握りしめてぐずぐずしてれば、髪の毛から雫が落ちて、その画面を滲ませた。
慌ててアプリを消して、もう一度カバンの中に放り込む。
ガシガシと痛いくらいの力を入れて頭を拭いて、制服に着替える。
今日も、無理だ。
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