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彼岸
目礼もなく、ただ耳を貸しているだけの人間たちの前へ立ち、マイクに向かって口を開く苦痛は計り知れない。だが、そんな光景に苦虫を一つも潰さずに話し出す校長は、昔々に飼い慣らした子どもへの失望だろう。粗悪な油で膨らんだ腹から、声を出すことに傾倒した校長の話はやはり、生徒たちにとって聞くに耐えない、つまらないものだった。
「えー」
出口の見えない話を生徒たちは早々に見切りをつける。隣に座るクラスメイトとの私語や、下腹部の辺りで携帯電話を弄り出す者。他の教職者ですら、口を覆った手の中で欠伸を潰していた。そんな中で、たった一人だけ耳をそばだてる生徒がいた。
フレームのない眼鏡の奥で涼しい目をした彼が、背筋を正してひとえに校長の話を聞いている。しかし不意に、彼の視線が外れた。日差しを取り入れる為に備え付けられた体育館の窓に目が向いたのだ。そして、左手で悲劇的な口の覆い方をする。
過ぎた加熱に割れる飴細工のように窓ガラスが割れ、この世の理を外れた巨大な手と思しきものが窓枠を押しのける。それはさながら、玩具箱の人形を掴み取るかのように、六人ほどの生徒らが一掴みされた。半狂乱な叫び声は、窓の外へ引き摺り込まれる。荒唐無稽な出来事を前に、触角をもがれた蟻のように生徒たちが動き出す。
すぼんだ体育館の出入口に、到底抑えきれない数の足が押し寄せる。もはや、「逃げる」ことを念頭に置いた人間に理性を働かせる余裕はなく、引き戸の分厚い硝子に次々と猛進する始末であった。外に出る機会を失った者は、出入り口の壁と累々と押し寄せる圧力によって、気狂いめいた叫び声を上げた。足元では、すすり泣く声も聞こえだし、自制を失った行進に命は転がる。
(この屍のような行進に巻き込まれれば、圧死する)
鈴見は壁の僅かな溝に指を引っかけ、この行進に争っていた。しかし、早々に指は剥がれかかり、伸びきった腕を憂慮し、指を溝から外す。すると同時に、膿の膜が破れたように硝子は割れて、淹留していた熱気が齷齪と外へ飛び出した。その瞬間、流れはより激しくなり、鈴見は否応なく身体を持っていかれる。外気を吸って吐く頃には、行進を率先した生徒が、校舎へ続く渡り廊下を走っていた。
鈴見と他の生徒たちは後続となって、走り出そうとした次の瞬間、赤い触手が渡り廊下を掠め通る。ほんの数秒の出来事であり、渡り廊下を走っていたはずの生徒たちの姿が跡形もなく消え去っていたことに、一刻を要した。これから健脚を披露しようと思っていた生徒たちの足が地面に根付く。鈴見を除いて。
「考えても仕様がない」
前に進むことしか考えていない鈴見の勇み足にも見えたが、逡巡で選択肢を潰すより早い決断を求めたのである。一気呵成に命を繋ぐ走路を駆ける。銃弾を掻い潜るかのように赤い触手が背中を掠めていき、鈴見は更に走る速度を上げた。渡り廊下の先にある扉に辿り着くと、手綱の如くドアノブを引いて、見慣れた校舎の中へ逃げ込んだ。唇は弓形に割れ、乱れた息が漏れる。
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