目眩

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目眩

 空が降り、地上に垂れた雲海で、目を凝らせど一寸先は白く、吐いた息の行方を追うことしかできない。足元も定かでない、このような有り様では、一歩踏み出すのもあぐねた。 「なんなんだ」  登校を趣旨に外へ出たはずの鵜飼は、霧に巻かれる身体の異質な光景に自失していた。白昼夢を見ているかのような浮ついた心のまま、ふらふらと歩き出す。向こう十年は事故のない道路ではあったが、不用意に歩けば車に轢かれて当然の歩行を鵜飼に見た。しかし、轢かれるどころか、車の排気音が一切、聞こえてこない。 「……」  神妙に顔を伏せる鵜飼に届くのは、アスファルトの地面が轟音で軋んで歪む、薄氷のように亀裂が走る様である。神の啓示の如き万雷が降り注ぎ、地面が割れたのだと、鵜飼は一人悟った。 「あ」  ふいに頭のチャンネルが変わり、頭上の電線が風に煽られてしなる。鵜飼は携帯電話の着信履歴から、鈴見へ折り返しの電話を掛けた。 「……」  コールが虚しく続き、その役目を果たさない携帯電話の態度に鵜飼は顔を赤くする。 「何で出ないんだよ。クソ!」  手に持った携帯電話を振り上げた直後、言下に我に返って舌を打つだけに留めた。暗中模索と何ら変わらない、大気を埋め尽くす白い霧を前に頭が垂れる。鵜飼は人との邂逅を望んで途方もなく歩く。しかしそれは、陰鬱な感情の引き金になった。  何故なら、食いちぎられる海老の尾のように不揃いな脚が霧中で重なり、鼻を濁す山の陰とって、目の前に現れたからだ。それを啄みにきた物見高いカラスを、なし崩しに睥睨しながら、方向転換し直すと、左肩を叩かれ立ち止まる。  見やれば、頭上の街路樹の枝に引っ掛かる布切れのようなものから、ぽつねんと雫が左肩に落ちてきていた。紺色のジャケットに染み入る雫の黒ずみに歯噛みする。半ば覚醒状態にある浅い夢のように、地に足がつかない浮遊感を味わっていた。次々に起きる未曾有の出来事に感覚はすっかり麻痺していた。今の鵜飼を何より驚かせるのは、背後から掛けられる人の声であった。 「君! よかった、やっと生きた人と出会えた」  目に届くものは屍ばかりで、意気消沈としていた鵜飼は、人間の体裁を保って呼気を交わすことができ、小躍り気分になった。そこに臆面など介在する余地はない。直截に嬉々を表した。 「こちらこそ!」 「いやぁ、この町の人たちはもう全員食べられてしまったのかと思っていたから」  四角く縁取る無精髭をたくわえた男は、苦労を滲ませる白髪混じりの頭を掻く。爪の間に残る皮脂が、彼の不潔加減を湛えているが、荒涼たる大地で見つけた心の拠り所を訝しむのは土台無理であった。 「教えてもらいたいことがあるんだ」  彼はつかぬことを聞く建前として微笑を浮かべる。 「なんですか?」 「平野平に行きたいんだ」  酷い耳鳴りに襲われて、瞬く間にめまいのような症状を催した。散逸的な思考の流れを追った目は、落ち着きを取り戻す気配がなく、鵜飼はひたすら具合の悪さを露呈させた。 「だっ、大丈夫かい?」  身体に触れるのも憚られるような苦しみ方をする鵜飼の様子に言葉で労ることしか出来ない。鵜飼は大きく深呼吸を繰り返し、なんとか平静を取り戻そうと苦心する。やがて、握り拳を胸に当てて、乱れた動悸の整えに入った。 「すみません、取り乱してしまい」  額に心労を滲ませながらも、青々しく染まった顔色に僅かの血の気を差す。
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