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藤原くんとはそれきり会っていない。
どこかで偶然見かけてもおかしくなかったけど、風の便りで彼が私立の進学校から東京の大学に進んだと聞いた時に、もう会えないだろうなと思っていた。
手紙の返事を書こうか迷ったが、彼の潔さを尊重することにした。
何かしてあげたい気持ちもあったけど、きっと彼なら乗り越えられると思ったから。
そして、もしいつか会えた時に、私も頑張った姿を見せたいとも思っていた。
私は地元の大学を卒業して、地方銀行に就職した。
資格を取得して、主任補佐にも選ばれた。
職場で出会った男性と結婚して子どもが生まれたが、産休と育休を利用してまた復帰するつもりでいる。
あれからいくつか恋をしたけど、夫は私を大切に扱ってくれる人だった。優しいし、家事や育児も一緒にこなしてくれた。ありふれていても、今の自分は幸せだと思っている。
子どもを連れてスーパーに買い物に出かけた。
2人目を妊娠中だが、ようやく安定期に入っていた。まだ体は動けるけど、混雑を避けて早めに来たのでお客さんは少なかった。
「よいしょっと」
「ママ。はいどうぞ」
「ありがとう」
子どもがカートにカゴをセットしてハンドルを握り、ちゃっかりよじ登っている。
「掴まっててね」
子どもを乗せたまま、カートを押して青果売場を歩いていると、微かに見覚えのある綺麗な横顔に目を奪われた。
藤原くんだった。
背の高い優しそうな男性が、カートを押しながら隣を歩いている。その人が藤原くんを見つめる眼差しは、大切なものへの愛おしさにあふれていた。
お互いに言葉を交わして男性が答えると、藤原くんがぱあっと花が咲いたような笑顔になった。
初めて見る顔だった。
『お薬で治ればいいんだけどね』
あの時、彼が言っていた意味がようやくわかった。
藤原くんは嬉しそうにその男性の腕を取り、甘えるように寄り添った。いつも青白い顔をして、寂しく微笑んでいた彼とは別人のようだった。
男性もそっと腕を伸ばして藤原くんの肩を抱いた。
おくすり 見つかったんだね
彼の幸せな様子に、私も心が温かくなった。
『僕も僕のままでいられるように、これからも頑張るから』
ありのままの自分を受け入れてもらえることがどんなに幸せなことか、歳を重ね、母親となった今なら痛いくらいわかる。そして、私を拒むしかなかった彼のつらさも。
きっと、彼は人の何倍も傷ついて、独りで悩みながら過ごしてきたんだろう。優しい人だったから。
でも これからはずっと笑顔でいられるんだね
「ねえ、ママ。早く行こうよ」
子どもが私の顔を不思議そうに見ている。
「何かいいことあったの?」
「うん。とっても」
私は子どもの頭を撫でて歩きだした。
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