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真鶴の眼前で、ゆっくりと首を持ち上げたヤマタノオロチが一つ、咆哮する。
びりびりと全身をわななかせるほどの声は、長の四人に苦痛な面持ちを作らせるに十分だった。
「土蜘蛛、貴様、一体何をした!」
らんが激昂の声を上げ、怯えた様子のふゆ音に問う。
「星帝さまが末路衣をなさるなど、よほどのことがなければありえん!」
「わ、わたくしはただ、加賀男さまをなぐさめようと……」
「嘘をつくでない。これはただ事ではないぞえ。……よもや」
檜扇を開き、オロチと対峙していた銀冥が、流し目でふゆ音を見た。
「よもや、酒を飲ませたのではあるまいな?」
「それは……それは、全てを忘れたいと加賀男さまが」
「この痴れ者がっ! 星帝どのに酒を飲ませば末路衣すると知っておろうが!」
「わたくしは悪くないっ。そこの女が、人間の身でありながら加賀男さまのお心を縛るからっ」
ふゆ音は憎悪をなくすことなく、真鶴へと妬みのこもった視線を向ける。
「真鶴、真鶴とそればかり……! こ、この娘が加賀男さまを裏切ったのですわっ」
「アンタの差し金だろ。オレの娘にまで危害を加えたとも聞いてる」
「わたくしは無実ですわ! なぜ人の子の言葉を信じるの!?」
激情でか、ふゆ音は金切り声を上げた。崩れた化粧、埃まみれの着物。そこには美しさなど一つもない。
真鶴を横抱きにしたまま、ハナミが呆れたようなため息をつく。
「バカとの話はあとだね。まずは星帝の旦那をどうにかしなくちゃ」
「あ、あのようなおぞましい化け物を、一体どうすればいいと仰るの?」
おぞましい、その単語に真鶴はまた、前を見据えた。
うごめくオロチが鳴いている。叫んでいる。壊れたように、それこそ理性をなくしたように。
どこがおぞましいのだろう。不気味なのだろう。ふゆ音の罵詈は全く心に響いてこない。
加賀男が今も、心底苦しんでいるのがわかる。
(泣かないで、あなたさま)
おののく腕を動かし、加賀男へ、オロチへと手を伸ばそうとした直後。
「一旦退却するぞえ。犬神よ、しんがりは我が務めようぞ。まずは寿々の小僧と共にみなを退避させねばのォ」
「承知。土蜘蛛は自分が連れていく。夜叉鬼、先頭を頼む」
「あいよ。真鶴、ちょいと速さを上げる。しっかり掴まってな!」
即断即決とはこのことだ。真鶴が手を伸ばしきる前に、疾風のごとき速度でハナミは宙を駆け出した。
オロチがまた、声を上げる。
一歩、また一歩と歩みを進めるオロチに、檜扇を振るうのは銀冥だ。
「土蜘蛛、みなを逃がせ。貴様の民だろう」
銀冥がなんらかの力を使い、オロチの動きをとどめる。その様子を家屋や道端で見上げ、硬直しているのは蜘蛛の面々だ。
首の根っこを掴まれたふゆ音は、しかし体を震わせたままで小さな口を開け閉めする。
「こ、腰が抜けて、とても」
「民を守ることなく長の地位に就くなど、笑止! みな、退避せよ!」
「アンタら、逃げないと大変な目に遭うよっ。早くしな!」
らんとハナミの言葉に、ようやく我に返ったのだろう。それこそ蜘蛛の子を散らすように、それぞれあちこちに逃げていく。
だが、中には逆に、未だ真鶴たちへと向かってくるものもいた。
「チッ……邪気に当てられたか。ここは自分がどうにかする。いけ、夜叉鬼」
「あいさ。とっとと寿々の坊やも逃がさないとねっ」
らんが速度を落とし、立ちはだかる蜘蛛たちを軍刀でなぎ払う。
その隙を突いて、ハナミは真鶴とふゆ音と共に、なんとかみつやの元まで辿り着いた。
「真鶴ちゃん、ハナミさん! 遅いよっ」
「みつやさん、ご無事ですか?」
「文句をいう元気はあるんだね、アンタ」
「それより……あれ、あのオロチ……加賀男、だよね?」
ほっと胸を撫で下ろしたような様子で、しかし顔を青ざめさせながらみつやはいう。
「誰が酒を飲ませたんだよ、もう! 末路衣してる加賀男を止めることなんて……」
「……ます」
ぽつりと、真鶴は呟いた。
「え?」
「泣いています、天乃さまが。苦しくて、辛くて……どうにもならないことに」
「真鶴、星帝の旦那の声がわかるのかい」
「そう思うんです。感じるんです」
痛む胸に手を当て、ここからでもわかるオロチを見つめた。周囲を飛び回り、動きを抑えているのは銀冥だろう。だが、その力も次第に弱まっているのか、確実にオロチは家屋を壊し、山の方へと向かっていた。
「蛇宮の方に向かってるんだ……ツキミちゃんが心配だよ」
「結界があるっても、倒された木に巻きこまれる可能性も少なくない、か」
「ツキミさん……蛇宮にいる皆さまのことも、心配です」
「お前の、せいよ!」
今まで大人しくしていたふゆ音が、再びうるさく声を張り上げる。
「お前なんていなければ、加賀男さまがあんな化け物にならずにすんだのに! 気持ち悪いお姿になることなんてなかったのにっ」
「ちょいと、いい加減に」
「……何が気持ち悪いのですか?」
怒気を孕むハナミを手でとどめ、真鶴はふゆ音の前に出た。
「何が、って……か、加賀男さまに決まってるでしょっ」
「おぞましく、気持ち悪いのですか。あなたにはそう見えるのですね、ふゆ音さま」
「そうよ! あの黒い蛇も! どこから来たのかわからないけど……突然姿を見せたかと思えば、加賀男さまにすり寄って。不気味ったらありゃしないっ」
そこまでいわせた真鶴は、心の奥底で何かがこみ上げてくるのを感じた。
手が動く。次の瞬間に、無意識のうちにふゆ音の頬を手のひらで叩いていた。
「なっ……な、なっ」
「申し訳ありません、ふゆ音さま。聞くに堪えなかったものですから」
顔を真っ赤にし、口を開いては閉じるふゆ音に、真鶴は微笑んだ。
「あなたにはもう、天乃さまを任せられません」
ヒュウ、と一つハナミが口笛を吹く。
「こ、小娘……人間の小娘程度が……ッ」
「動くんじゃないよ、土蜘蛛。アンタ程度、オレ一人でどうにかできる」
「夜叉鬼……!」
屈辱でだろうか、それとも怒りでだろうか。ともかく憎悪をまとうふゆ音へ、棍棒を突きつけたのはハナミだ。
「修羅場はさておいて。加賀男のこと、どうする?」
おそるおそる、というようにみつやが手を挙げる。
「このままじゃあ、半日もしないうちに影ヶ原の町は全滅だよ」
「……天乃さま」
みつやの言葉に、また真鶴の心が少し、軋んだ。
壊したくないだろう。暴れたくないだろう。まつろわぬものたちを慈しみ、彼らと共に歩んできた加賀男のことだ。正気に戻った際、壊れた町を見て強い衝撃を受けるに決まっている。
「銀冥もそろそろ力を使い切るね。防戦一方なのが悔しいけどさ。どのみち、攻撃に転じることができても、名付け親にオレたちの力は効かない」
「名付け親……」
真鶴はもう一度、オロチを見た。
ハナミのいうとおり、銀冥の力が少しずつ弱まっているように思える。オロチの進む速度は次第に速まり、もう山の目前へと迫っていた。
「……こがね?」
ふと、気付く。
一つの頭、そこだけが漆黒だ。そして瞳もホオズキ色ではなく、金。中央ではなく端にある一体――暗緑色の体にまぎれて見えなかったが、確かに異なっている。
それがこがねだとしたら。
そこが全ての大元だとしたら。
「ハナミさま、お願いがあるのです」
「なんだい、真鶴」
「あの山まで、天乃さまが向かう山まで、わたしを連れて行くことはできますか?」
振り返り、たずねる。ハナミが唖然とした表情を作った。みつやも同様にだ。
「真鶴ちゃん……どうする気?」
「あの、基本は名付け親が強いのですよね?」
「まあね。名付けるのは咒いだから。名付けたものの下になるっていう」
「それなら……どうにか今の状況を変えることが、できるかもしれません」
真鶴が続ければ、みつやがはっと、何かに気づいたようなおもてをした。
「まさか、こがねのこと? そりゃまあ、君が名付けたのは加賀男の分身にだけど」
「星帝の旦那の分身に? どういうこったい」
「説明はあとです。お願いです、ハナミさま。わたしを山の近くに」
「……死ぬかもしれないよ、アンタ」
脅しではない忠告に、真鶴はただうなずく。
「怖くないのかい? 勇気と蛮勇は、違うよ」
「怖いです。本能が怯えていて、今も足がしっかりしていません……でも」
笑った。心からの喜びをこめて、頬を赤らめながら。
「わたしは今度こそ、天乃さまのお役に立ちたいのです」
破砕音。逃げ惑う足音。オロチの、いや、加賀男の咆哮。そんなものが谺した。
しばしの静寂ののち、ため息をついたのはハナミだ。
「……わかったよ」
「ハナミさん! 真鶴ちゃんも。危険すぎる!」
「オレはこの子に賭けるよ、寿々の坊や。ここで逃げてもどうせみんな、死ぬ。そうじゃなくても致命的なことになるかもしれない。だったら真鶴に託すよ、オレは」
「ありがとうございます、ハナミさま」
「そうとなれば転移の方がいいね。走るより確実に時間を縮められる」
ハナミが差し出した手に真鶴はうなずき、かっちりと握る。
「寿々の坊や、アンタは土蜘蛛を見張ってな。それくらいできるだろ」
「うん……真鶴ちゃん、無事でね、絶対に」
「はい、無事に帰ってきます。天乃さまと二人で」
「いくよ、真鶴」
「お願いします、ハナミさま」
目を閉じた瞬間、ツキミに送ってもらったときのような酩酊感がする。
まぶたの裏に、加賀男とこがねの姿が浮かんでいた。
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