第五幕:願はくは われ春風に 身をなして

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 真鶴(まつる)の眼前で、ゆっくりと首を持ち上げたヤマタノオロチが一つ、咆哮(ほうこう)する。  びりびりと全身をわななかせるほどの声は、(おさ)の四人に苦痛な面持ちを作らせるに十分だった。 「土蜘蛛、貴様、一体何をした!」  らんが激昂の声を上げ、怯えた様子のふゆ()に問う。 「星帝(せいてい)さまが末路衣(まつろい)をなさるなど、よほどのことがなければありえん!」 「わ、わたくしはただ、加賀男(かがお)さまをなぐさめようと……」 「嘘をつくでない。これはただ事ではないぞえ。……よもや」  檜扇(ひおうぎ)を開き、オロチと対峙していた銀冥(ぎんめい)が、流し目でふゆ()を見た。 「よもや、酒を飲ませたのではあるまいな?」 「それは……それは、全てを忘れたいと加賀男(かがお)さまが」 「この()れ者がっ! 星帝(せいてい)どのに酒を飲ませば末路衣(まつろい)すると知っておろうが!」 「わたくしは悪くないっ。そこの女が、人間の身でありながら加賀男(かがお)さまのお心を縛るからっ」  ふゆ()は憎悪をなくすことなく、真鶴(まつる)へと妬みのこもった視線を向ける。 「真鶴(まつる)真鶴(まつる)とそればかり……! こ、この娘が加賀男(かがお)さまを裏切ったのですわっ」 「アンタの差し金だろ。オレの娘にまで危害を加えたとも聞いてる」 「わたくしは無実ですわ! なぜ人の子の言葉を信じるの!?」  激情でか、ふゆ()は金切り声を上げた。崩れた化粧、埃まみれの着物。そこには美しさなど一つもない。  真鶴(まつる)を横抱きにしたまま、ハナミが呆れたようなため息をつく。 「バカとの話はあとだね。まずは星帝(せいてい)の旦那をどうにかしなくちゃ」 「あ、あのようなおぞましい化け物を、一体どうすればいいと仰るの?」  おぞましい、その単語に真鶴(まつる)はまた、前を見据えた。  うごめくオロチが鳴いている。叫んでいる。壊れたように、それこそ理性をなくしたように。  どこがおぞましいのだろう。不気味なのだろう。ふゆ()罵詈(ばり)は全く心に響いてこない。  加賀男(かがお)が今も、心底苦しんでいるのがわかる。 (泣かないで、あなたさま)  おののく腕を動かし、加賀男(かがお)へ、オロチへと手を伸ばそうとした直後。 「一旦退却するぞえ。犬神よ、しんがりは我が務めようぞ。まずは寿々(すず)の小僧と共にみなを退避させねばのォ」 「承知。土蜘蛛は自分が連れていく。夜叉鬼、先頭を頼む」 「あいよ。真鶴(まつる)、ちょいと速さを上げる。しっかり掴まってな!」  即断即決とはこのことだ。真鶴(まつる)が手を伸ばしきる前に、疾風(はやて)のごとき速度でハナミは宙を駆け出した。  オロチがまた、声を上げる。  一歩、また一歩と歩みを進めるオロチに、檜扇(ひおうぎ)を振るうのは銀冥(ぎんめい)だ。 「土蜘蛛、みなを逃がせ。貴様の民だろう」  銀冥(ぎんめい)がなんらかの力を使い、オロチの動きをとどめる。その様子を家屋や道端で見上げ、硬直しているのは蜘蛛の面々だ。  首の根っこを掴まれたふゆ()は、しかし体を震わせたままで小さな口を開け閉めする。 「こ、腰が抜けて、とても」 「民を守ることなく(おさ)の地位に就くなど、笑止! みな、退避せよ!」 「アンタら、逃げないと大変な目に遭うよっ。早くしな!」  らんとハナミの言葉に、ようやく我に返ったのだろう。それこそ蜘蛛の子を散らすように、それぞれあちこちに逃げていく。  だが、中には逆に、未だ真鶴(まつる)たちへと向かってくるものもいた。 「チッ……邪気に当てられたか。ここは自分がどうにかする。いけ、夜叉鬼」 「あいさ。とっとと寿々(すず)の坊やも逃がさないとねっ」  らんが速度を落とし、立ちはだかる蜘蛛たちを軍刀でなぎ払う。  その隙を突いて、ハナミは真鶴(まつる)とふゆ()と共に、なんとかみつやの元まで辿り着いた。 「真鶴(まつる)ちゃん、ハナミさん! 遅いよっ」 「みつやさん、ご無事ですか?」 「文句をいう元気はあるんだね、アンタ」 「それより……あれ、あのオロチ……加賀男(かがお)、だよね?」  ほっと胸を撫で下ろしたような様子で、しかし顔を青ざめさせながらみつやはいう。 「誰が酒を飲ませたんだよ、もう! 末路衣(まつろい)してる加賀男(かがお)を止めることなんて……」 「……ます」  ぽつりと、真鶴(まつる)は呟いた。 「え?」 「泣いています、天乃(あまの)さまが。苦しくて、辛くて……どうにもならないことに」 「真鶴(まつる)星帝(せいてい)の旦那の声がわかるのかい」 「そう思うんです。感じるんです」  痛む胸に手を当て、ここからでもわかるオロチを見つめた。周囲を飛び回り、動きを抑えているのは銀冥(ぎんめい)だろう。だが、その力も次第に弱まっているのか、確実にオロチは家屋を壊し、山の方へと向かっていた。 「蛇宮(へびみや)の方に向かってるんだ……ツキミちゃんが心配だよ」 「結界があるっても、倒された木に巻きこまれる可能性も少なくない、か」 「ツキミさん……蛇宮(へびみや)にいる皆さまのことも、心配です」 「お前の、せいよ!」  今まで大人しくしていたふゆ()が、再びうるさく声を張り上げる。 「お前なんていなければ、加賀男(かがお)さまがあんな化け物にならずにすんだのに! 気持ち悪いお姿になることなんてなかったのにっ」 「ちょいと、いい加減に」 「……何が気持ち悪いのですか?」  怒気を(はら)むハナミを手でとどめ、真鶴(まつる)はふゆ()の前に出た。 「何が、って……か、加賀男(かがお)さまに決まってるでしょっ」 「おぞましく、気持ち悪いのですか。あなたにはそう見えるのですね、ふゆ()さま」 「そうよ! あの黒い蛇も! どこから来たのかわからないけど……突然姿を見せたかと思えば、加賀男(かがお)さまにすり寄って。不気味ったらありゃしないっ」  そこまでいわせた真鶴(まつる)は、心の奥底で何かがこみ上げてくるのを感じた。  手が動く。次の瞬間に、無意識のうちにふゆ()の頬を手のひらで叩いていた。 「なっ……な、なっ」 「申し訳ありません、ふゆ()さま。聞くに堪えなかったものですから」  顔を真っ赤にし、口を開いては閉じるふゆ()に、真鶴(まつる)は微笑んだ。 「あなたにはもう、天乃(あまの)さまを任せられません」  ヒュウ、と一つハナミが口笛を吹く。 「こ、小娘……人間の小娘程度が……ッ」 「動くんじゃないよ、土蜘蛛。アンタ程度、オレ一人でどうにかできる」 「夜叉鬼……!」  屈辱でだろうか、それとも怒りでだろうか。ともかく憎悪をまとうふゆ()へ、棍棒を突きつけたのはハナミだ。 「修羅場はさておいて。加賀男(かがお)のこと、どうする?」  おそるおそる、というようにみつやが手を挙げる。 「このままじゃあ、半日もしないうちに影ヶ原(かげがはら)の町は全滅だよ」 「……天乃(あまの)さま」  みつやの言葉に、また真鶴(まつる)の心が少し、軋んだ。  壊したくないだろう。暴れたくないだろう。まつろわぬものたちを慈しみ、彼らと共に歩んできた加賀男(かがお)のことだ。正気に戻った際、壊れた町を見て強い衝撃を受けるに決まっている。 「銀冥(ぎんめい)もそろそろ力を使い切るね。防戦一方なのが悔しいけどさ。どのみち、攻撃に転じることができても、名付け親にオレたちの力は効かない」 「名付け親……」  真鶴(まつる)はもう一度、オロチを見た。  ハナミのいうとおり、銀冥(ぎんめい)の力が少しずつ弱まっているように思える。オロチの進む速度は次第に速まり、もう山の目前へと迫っていた。 「……こがね?」  ふと、気付く。  一つの頭、そこだけが漆黒だ。そして瞳もホオズキ色ではなく、金。中央ではなく端にある一体――暗緑色の体にまぎれて見えなかったが、確かに異なっている。  それがこがねだとしたら。  そこが全ての大元だとしたら。 「ハナミさま、お願いがあるのです」 「なんだい、真鶴(まつる)」 「あの山まで、天乃(あまの)さまが向かう山まで、わたしを連れて行くことはできますか?」  振り返り、たずねる。ハナミが唖然とした表情を作った。みつやも同様にだ。 「真鶴(まつる)ちゃん……どうする気?」 「あの、基本は名付け親が強いのですよね?」 「まあね。名付けるのは(まじな)いだから。名付けたものの下になるっていう」 「それなら……どうにか今の状況を変えることが、できるかもしれません」  真鶴(まつる)が続ければ、みつやがはっと、何かに気づいたようなおもてをした。 「まさか、こがねのこと? そりゃまあ、君が名付けたのは加賀男(かがお)の分身にだけど」 「星帝(せいてい)の旦那の分身に? どういうこったい」 「説明はあとです。お願いです、ハナミさま。わたしを山の近くに」 「……死ぬかもしれないよ、アンタ」  脅しではない忠告に、真鶴(まつる)はただうなずく。 「怖くないのかい? 勇気と蛮勇(ばんゆう)は、違うよ」 「怖いです。本能が怯えていて、今も足がしっかりしていません……でも」  笑った。心からの喜びをこめて、頬を赤らめながら。 「わたしは今度こそ、天乃(あまの)さまのお役に立ちたいのです」  破砕音。逃げ惑う足音。オロチの、いや、加賀男(かがお)咆哮(ほうこう)。そんなものが谺した。  しばしの静寂ののち、ため息をついたのはハナミだ。 「……わかったよ」 「ハナミさん! 真鶴(まつる)ちゃんも。危険すぎる!」 「オレはこの子に賭けるよ、寿々(すず)の坊や。ここで逃げてもどうせみんな、死ぬ。そうじゃなくても致命的なことになるかもしれない。だったら真鶴(まつる)に託すよ、オレは」 「ありがとうございます、ハナミさま」 「そうとなれば転移の方がいいね。走るより確実に時間を縮められる」  ハナミが差し出した手に真鶴(まつる)はうなずき、かっちりと握る。 「寿々(すず)の坊や、アンタは土蜘蛛を見張ってな。それくらいできるだろ」 「うん……真鶴(まつる)ちゃん、無事でね、絶対に」 「はい、無事に帰ってきます。天乃(あまの)さまと二人で」 「いくよ、真鶴(まつる)」 「お願いします、ハナミさま」  目を閉じた瞬間、ツキミに送ってもらったときのような酩酊(めいてい)感がする。  まぶたの裏に、加賀男(かがお)とこがねの姿が浮かんでいた。
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