第二幕:天の海に 雲の波立ち 月の船

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 加賀男(かがお)の住まいは純然な日本家屋ではなく、洋館付きの住宅だ。  黒い煉瓦で作られた建物の周りには草木が満ち、親しみのある匂いに、真鶴(まつる)は少しだけ緊張を解くことができた。  洋風の応接室に通され、ツキミが出してくれた緑茶にも手をつけず、ただ加賀男(かがお)を待つ。  一人がけのソファに腰を下ろしたまま、周囲を見渡した。  ステンドグラスで飾られた上げ下げ窓には赤いカーテンがあり、真鶴(まつる)の位置から外を覗くことはかなわない。空席の膝掛け椅子とティーテーブル、天井からつり下がっている四灯式の電灯は、いかにも流行を取り入れた立派なものだ。 (電気はどこから引いてるのかしら)  ふと、場違いなことを思う。しろじろとした明かりもまた、石灯籠(いしどうろう)のようにツキミがつけているものなのなのだろうか。 「すまない、支度に手間取った」  ぼんやりと天井を見上げていたとき、不意に扉が開いた。加賀男(かがお)が中へ入ってくる。  着流しした利休(りきゅう)色の着物に、三つ編みの銀髪はよく映えていた。立ち上がろうと腰を浮かせた真鶴(まつる)を手で止め、彼は膝掛け椅子に座る。 「慣れない場所で落ち着かないだろう」 「いえ、大丈夫です」  真鶴(まつる)が答えれば、加賀男(かがお)は小さく首肯した。 「今から君に、ここ、隠世(かくりよ)での規則を伝えようと思う」 「規則ですか?」 「そうだ。この影ヶ原(かげがはら)には他に四つの区画がある。それぞれ蜘蛛、獣、鬼人(きじん)、神の(おさ)たちが治めている区画だ。そこには俺がいないとき、決して足を踏み入れてはいけない」 「あやかしたちがいるから、でしょうか」  真鶴(まつる)の問いに、加賀男(かがお)が若干、厳しいおもてを作る。 「その呼び方は禁句だ。まつろわぬものたち、と呼ぶこと。君も少しは知っているだろうが、彼らは品位を保つことを重視している。星神(せいじん)天津甕星(アマツミカボシ)の子孫という自負があるから」 「わかりました。まつろわぬものたち……ですね」 「そう呼んであげてくれ。この区画、蛇宮(へびみや)は好きに歩いてくれて構わない」 「はい」 「ここに太陽はないが、代わりに時間を示す鐘が鳴る。六時、九時、十二時、十五時、十八時に。時間の感覚に戸惑うだろうが、部屋に日めくりもある。辛いかもしれないが慣れてほしい」  そこまで言うと、加賀男(かがお)が懐から一つの懐中時計を取り出した。緑にうっすらと輝くそれを机に置いて、真鶴(まつる)の方へと差し出す。 「君に、これを。他四区画に引きずられないよう、(まじな)いを(ほどこ)してある」 「こんな高級そうなものを、わたしに?」 「いさかいが起きればただでは済まないだろう。持っていてくれ」 「……ありがたくお借りします」  少し迷ったのち、真鶴(まつる)は銀色の時計を手にした。ひんやりと冷たい。 (こがねの肌触りに似てる)  思いながら帯に挟んだのを確認してだろう。加賀男(かがお)がどこか辛そうな顔をした。 「まつろわぬものたち三人の(おさ)は、君と俺の結婚を認めていない」 「そうだろうと思っていました」 「なぜ?」 「わたしは、古野羽(このは)家の出来損ないですから。満月の夜に瞳の色は変わりますけれど、髪はそのままです。力を使えない証拠。それに……罪を犯しています」  真鶴(まつる)は事実を淡々と答える。 「祝貴品(しゅくきひん)を作ることができないわたしを、皆さんが認めるはずがありません」  苦笑すら浮かべぬままに言い切れば、こちらを見据えていた加賀男(かがお)が視線を逸らした。 「天乃さま。わたしは配偶者としての使命は果たすつもりです。それがあなたさまへの恩返しになると思っていますから」 「使命、か」  ふと、加賀男(かがお)は苦い笑みを浮かべる。自嘲気味の、どこか投げやりな苦笑を。  重たいほどの沈黙が下りた。カチ、カチ、と、掛け時計の音だけが大きく響く。 「他に何か、聞きたいことはあるか」  静寂(しじま)を裂くように硬い声音で問われ、真鶴(まつる)は小首を傾げた。 「この区画は蛇宮(へびみや)だと仰ってましたけれど、事実、蛇がたくさんいるのでしょうか?」 「いる。……君がこがねとつけた蛇も、守り神の一人だ」 「こがねに、会えますか?」 「いつかは。名付けるというのは(まじな)いの一つ。もはやあの蛇は、君のものになっている」 「名付けることにそんな意味があったのですね」  漆黒の蛇を思い出しながら、やはり友人はあやかし――まつろわぬものなのだと悟る。 (勝手に名付けたことを怒っているかしら……)  こがねに、そして加賀男(かがお)に申し訳なく思った。  顔色をうかがうように彼の方を見つめれば、なぜか加賀男(かがお)は先程と違い、柔らかい表情をしている。 「こがねのことをどう思う?」 「とても賢くて優しい友人です。ずっと側にいてくれたので、心をなぐさめられました」 「そうか」  加賀男(かがお)が口元を緩めた。厳しい眼差しが柔らかなものとなり、そうすると巨躯のわりに穏やかな雰囲気を(かも)し出す。 「天乃さまは、こがねと仲がよろしいのですね」 「……そうだな。ああ、それと」  と、加賀男(かがお)が優しい口調で何かを口にしようとした、そのとき―― 「うっわぁぁぁぁあ!」  唐突に、あまりにも不意に、()頓狂(とんきょう)な悲鳴が外から聞こえた。
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