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声の大きさにびくりと、真鶴は肩を跳ね上げる。
「今、のは」
入口近くからだ。何事かと思い加賀男を見ると、呆れた表情でかぶりを振っている。
「ツキミ、保護してやれ」
「はいですの」
どこからか届いたツキミの返答ののち、彼は大きく嘆息した。
「あの、どなたかいらっしゃったんでしょうか」
「知り合いだ。どうせ今日も鬼人たちの花街で、酔っ払っていたんだろう」
苦々しい声に、真鶴は目をまたたかせた。
「花街なんてものもあるのですね」
「……影ヶ原は現世の世相が反映される。街並みもほとんど、君が住んでいた場所と変わらない。いろんな店もある」
なるほど、と唇に指を当てた瞬間だ。
どたばたと、誰かが廊下を走ってくる音がした。
「加賀男っ! なんで蛇があんなにいるんだい!」
扉が開け放たれたと同時に、悲鳴の主と思しき青年が入ってくる。
毛先がはねたおかっぱ頭の黒髪に、赤いスーツ。かんかん帽と丸い眼鏡が似合う優男だ。
「なんで蛇がうじゃうじゃいるの? いつもより多いよね? 噛まれそうになったよ!」
「少しくらい静かにできないのか、お前は」
「ツキミちゃんに助けてもらったからいいけど……って」
青年が、真鶴を見た。真鶴もつい扉の方を向いていたため、目が合う。
「何、誰、可愛い」
相好を崩した青年に、手を振られた。
真鶴はどうしていいかわからず、加賀男の方へと向き直る。
「俺が妻を娶ることになったことを話したはずだ、みつや」
不機嫌そうな声音にもかかわらず、みつやと呼ばれた青年は唇を釣り上げた。
「そっか、君が古野羽真鶴ちゃんかあ。はじめまして。ぼくは寿々みつや」
「寿々……? もしかして裏華族御三家の……」
「そう。寿々家の次男。加賀男の親友にして体調管理担当の医者さ」
「お医者さま?」
真鶴は加賀男とみつやを見比べる。
目をすがめ、友を睨む加賀男は何も言わない。ただ重苦しいため息をつくだけだ。
「ツキミちゃん、いつものあれ出して。梅干し入りの白湯」
「寿々さま。天乃さまはどこか加減が悪いのですか?」
アルコールの匂いを漂わせつつ、近くに腰かけたみつやへ真鶴は問う。
見た目だけでいうなら、加賀男は健康そうだ。足取りもしっかりしていた。外傷も見える限りでは存在しない。
みつやはけらけらと、軽快に笑う。
「ぼくのことはみつやでいいよ。いや、加賀男って」
「勝手に話すな」
鋼のごとき声音が空気を裂いた。叱咤に近い加賀男の言葉も、本人には効いていないらしい。
「真鶴ちゃん、妻になる女性でしょ。教えておいてもいいと思うんだけど?」
「……妻と認められたわけではない」
渋面を作る加賀男に、真鶴も小さくうなずいた。
力も使えない半端者。ほとんどただの人間である自分は、やはり彼にふさわしくない。
加賀男には何か秘密があるようだが、それすら話してもらえないのは、ひとえに力量不足だからだろう。
「長たちが反対してる、と見たけど。ならなんで連れてきたのさ、ここに」
帽子を机へ投げ、みつやは肩をすくめた。加賀男が言いづらそうに口を閉じる。
その様子に、真鶴が代わりに答えた。
「わたしが困っていただろうからだと思います。実家を半ば追い出されましたので」
「古野羽家の当主もひどいことするなあ。放蕩者のぼくが言えた義理じゃないけどね」
言って、みつやはスーツのポケットから葉巻入れをとり出す。
「真鶴ちゃんはどのくらいの力、使えるんだい?」
「花以外の植物との対話……その程度です」
「そっかあ。ぼくもね、寿々家の次男だけど刀の扱いはぜーんぜんだめ」
「でも、お医者さまなのでしょう? とてもご立派だと思います」
「寿々の一族は政治家や軍関係者にならなきゃいけない。それが普通さ」
マッチをつけ、葉巻の煙をくゆらせながらみつやはまた、笑う。
「医者だなんて仕事、と兄には言われてる。まあ当然だよ」
「……誰が葉巻を吸っていいと言った」
片眉を器用につり上げる加賀男は、やはりどこか不機嫌そうだ。
「別にいいじゃないか。真鶴ちゃん、葉巻はだめかい?」
「あ……わたしにはお気遣いなく、寿々さま」
「みつやさん、でいいって。ほら、呼んでみて」
「それでは、みつやさん、と……」
「声も綺麗だねえ。柔らかくて、透き通ってて。姿もそうだけど鈴の音みたいだ」
「ありがとう、ございます」
声や容姿を褒められ、真鶴はどこか落ち着かない気持ちになる。今まで男性とはまともに話したことがない。賞賛されるような外見などしているつもりは、少しもなかった。
「今日は診察の日ではないだろう。早く現世に帰れ」
微動だにせず、突き放すような物言いをする加賀男に対し、みつやが目をまたたかせた。
「なんでそんなに怒ってんの? あ、真鶴ちゃんと仲良くするから怒るの?」
「人の妻となる女人を口説くような知人を、俺は持ったつもりはない」
「へぇ」
面白そうに笑い、紫煙を吐き出したみつやは、真鶴にその笑顔を向ける。
「大丈夫そうだね、真鶴ちゃん」
「ええと、何がでしょうか」
「今にわかるさ。ここでの生活も大変かもしれないけど、慣れたら楽になるよ」
「はい、それは……覚悟をしてきておりますので」
死ぬ覚悟を、と付け加えようとしたのを飲みこみ、真鶴は首を縦に振った。
「失礼しますの」
机にあったアルミの灰皿に、みつやが葉巻を押し付けたときだ。
ツキミが入ってくる。手には盆を持っており、その上では湯飲みが湯気を上げていた。
「どうぞですの、みつやさん」
「ありがとう。ツキミちゃんの梅白湯は二日酔いに効くからねえ」
「星帝さま、お知らせが」
「……今度はなんだ」
疲れきったため息をつく加賀男に、ツキミが困ったような顔を作る。
「蜘蛛長、ふゆ音さまがお祝いにきてらっしゃいますの」
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