第二幕:天の海に 雲の波立ち 月の船

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 声の大きさにびくりと、真鶴(まつる)は肩を跳ね上げる。 「今、のは」  入口近くからだ。何事かと思い加賀男(かがお)を見ると、呆れた表情でかぶりを振っている。 「ツキミ、保護してやれ」 「はいですの」  どこからか届いたツキミの返答ののち、彼は大きく嘆息した。 「あの、どなたかいらっしゃったんでしょうか」 「知り合いだ。どうせ今日も鬼人たちの花街(かがい)で、酔っ払っていたんだろう」  苦々しい声に、真鶴(まつる)は目をまたたかせた。 「花街(かがい)なんてものもあるのですね」 「……影ヶ原(かげがはら)現世(うつしよ)の世相が反映される。街並みもほとんど、君が住んでいた場所と変わらない。いろんな店もある」  なるほど、と唇に指を当てた瞬間だ。  どたばたと、誰かが廊下を走ってくる音がした。 「加賀男(かがお)っ! なんで蛇があんなにいるんだい!」  扉が開け放たれたと同時に、悲鳴の主と思しき青年が入ってくる。  毛先がはねたおかっぱ頭の黒髪に、赤いスーツ。かんかん帽と丸い眼鏡が似合う優男だ。 「なんで蛇がうじゃうじゃいるの? いつもより多いよね? 噛まれそうになったよ!」 「少しくらい静かにできないのか、お前は」 「ツキミちゃんに助けてもらったからいいけど……って」  青年が、真鶴(まつる)を見た。真鶴(まつる)もつい扉の方を向いていたため、目が合う。 「何、誰、可愛い」  相好(そうごう)を崩した青年に、手を振られた。  真鶴(まつる)はどうしていいかわからず、加賀男(かがお)の方へと向き直る。 「俺が妻を(めと)ることになったことを話したはずだ、みつや」  不機嫌そうな声音にもかかわらず、みつやと呼ばれた青年は唇を釣り上げた。 「そっか、君が古野羽(このは)真鶴(まつる)ちゃんかあ。はじめまして。ぼくは寿々(すず)みつや」 「寿々(すず)……? もしかして裏華族(うらかぞく)御三家の……」 「そう。寿々(すず)家の次男。加賀男(かがお)の親友にして体調管理担当の医者さ」 「お医者さま?」  真鶴(まつる)加賀男(かがお)とみつやを見比べる。  目をすがめ、友を睨む加賀男(かがお)は何も言わない。ただ重苦しいため息をつくだけだ。 「ツキミちゃん、いつものあれ出して。梅干し入りの白湯(さゆ)」 「寿々(すず)さま。天乃さまはどこか加減が悪いのですか?」  アルコールの匂いを漂わせつつ、近くに腰かけたみつやへ真鶴(まつる)は問う。  見た目だけでいうなら、加賀男(かがお)は健康そうだ。足取りもしっかりしていた。外傷も見える限りでは存在しない。  みつやはけらけらと、軽快に笑う。 「ぼくのことはみつやでいいよ。いや、加賀男(かがお)って」 「勝手に話すな」  鋼のごとき声音が空気を裂いた。叱咤(しった)に近い加賀男(かがお)の言葉も、本人には効いていないらしい。 「真鶴(まつる)ちゃん、妻になる女性でしょ。教えておいてもいいと思うんだけど?」 「……妻と認められたわけではない」  渋面(じゅうめん)を作る加賀男(かがお)に、真鶴(まつる)も小さくうなずいた。  力も使えない半端者。ほとんどただの人間である自分は、やはり彼にふさわしくない。  加賀男(かがお)には何か秘密があるようだが、それすら話してもらえないのは、ひとえに力量不足だからだろう。 「(おさ)たちが反対してる、と見たけど。ならなんで連れてきたのさ、ここに」  帽子を机へ投げ、みつやは肩をすくめた。加賀男(かがお)が言いづらそうに口を閉じる。  その様子に、真鶴(まつる)が代わりに答えた。 「わたしが困っていただろうからだと思います。実家を半ば追い出されましたので」 「古野羽(このは)家の当主もひどいことするなあ。放蕩者のぼくが言えた義理じゃないけどね」  言って、みつやはスーツのポケットから葉巻入れをとり出す。 「真鶴(まつる)ちゃんはどのくらいの力、使えるんだい?」 「花以外の植物との対話……その程度です」 「そっかあ。ぼくもね、寿々(すず)家の次男だけど刀の扱いはぜーんぜんだめ」 「でも、お医者さまなのでしょう? とてもご立派だと思います」 「寿々(すず)の一族は政治家や軍関係者にならなきゃいけない。それが普通さ」  マッチをつけ、葉巻の煙をくゆらせながらみつやはまた、笑う。 「医者だなんて仕事、と兄には言われてる。まあ当然だよ」 「……誰が葉巻を吸っていいと言った」  片眉を器用につり上げる加賀男(かがお)は、やはりどこか不機嫌そうだ。 「別にいいじゃないか。真鶴(まつる)ちゃん、葉巻はだめかい?」 「あ……わたしにはお気遣いなく、寿々(すず)さま」 「みつやさん、でいいって。ほら、呼んでみて」 「それでは、みつやさん、と……」 「声も綺麗だねえ。柔らかくて、透き通ってて。姿もそうだけど鈴の音みたいだ」 「ありがとう、ございます」  声や容姿を褒められ、真鶴(まつる)はどこか落ち着かない気持ちになる。今まで男性とはまともに話したことがない。賞賛されるような外見などしているつもりは、少しもなかった。 「今日は診察の日ではないだろう。早く現世(うつしよ)に帰れ」  微動だにせず、突き放すような物言いをする加賀男(かがお)に対し、みつやが目をまたたかせた。 「なんでそんなに怒ってんの? あ、真鶴(まつる)ちゃんと仲良くするから怒るの?」 「人の妻となる女人(にょにん)を口説くような知人を、俺は持ったつもりはない」 「へぇ」  面白そうに笑い、紫煙を吐き出したみつやは、真鶴(まつる)にその笑顔を向ける。 「大丈夫そうだね、真鶴(まつる)ちゃん」 「ええと、何がでしょうか」 「今にわかるさ。ここでの生活も大変かもしれないけど、慣れたら楽になるよ」 「はい、それは……覚悟をしてきておりますので」  死ぬ覚悟を、と付け加えようとしたのを飲みこみ、真鶴(まつる)は首を縦に振った。 「失礼しますの」  机にあったアルミの灰皿に、みつやが葉巻を押し付けたときだ。  ツキミが入ってくる。手には盆を持っており、その上では湯飲みが湯気を上げていた。 「どうぞですの、みつやさん」 「ありがとう。ツキミちゃんの梅白湯(さゆ)は二日酔いに効くからねえ」 「星帝(せいてい)さま、お知らせが」 「……今度はなんだ」  疲れきったため息をつく加賀男(かがお)に、ツキミが困ったような顔を作る。 「蜘蛛(くも)(おさ)、ふゆ()さまがお祝いにきてらっしゃいますの」
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