第二幕:天の海に 雲の波立ち 月の船

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 ツキミの言葉に「げっ」と呟いたのは、みつやだった。 「ふゆ()が、来たか」 「はいな。どうしますの?」 「無体にするわけにもいかない。ここに呼んでくれ、ツキミ」 「承知ですの」  ぺこりと頭を下げ、ツキミは静かに退室していく。  何やら天井を仰ぐみつやをさておき、真鶴(まつる)加賀男(かがお)の方を見た。 「ふゆ()……さま? どのような方でしょう」 「土蜘蛛にして、蜘蛛の一族の(おさ)だ。四人の(おさ)の中では今回、唯一俺の味方をしてくれている」 「味方……」  それは、加賀男(かがお)と自分が夫婦(めおと)になる、という事実を認めてくれているということだろうか。  (あご)に指を添えて考えていたとき、みつやが不意に立ち上がった。 「加賀男(かがお)、客室貸して。ぼくは逃げる」 「好きにしろ」 「助かるよ。どうにも苦手だ、彼女は。じゃあまたね、真鶴(まつる)ちゃん」 「は、はい」  真鶴(まつる)が答えるより先に、帽子を持ったみつやは手を振ったのち、扉を開けて立ち去っていく。  慌ただしさが消え、残された真鶴(まつる)は目を伏せる加賀男(かがお)にたずねてみた。 「天乃(あまの)さま。そのふゆ()さまという方を、迎えに行かなくてもいいのですか?」 「星帝(せいてい)たる俺が、自ら(おさ)を出迎えることはない。してはいけない。特別扱いになるから」 「わたしも退室した方が、よろしいでしょうか」 「……君のことは星帝(せいてい)の妻として紹介するつもりだ。ここにいてほしい」  重々しい言葉に、小さくうなずく。  再び沈黙が下りた。だが、落ち着かない静寂ではない。  窓から入りこむ草木の香り。加賀男(かがお)がまとう実直な雰囲気。掛け時計の古めかしい音。どれもが緊張をほぐしてくれている。 (無作法にならないようにしなければ)  そればかりを考えていたとき、扉が控えめに叩かれた。 「失礼しますわ、我が星帝(せいてい)加賀男(かがお)さま」  凜とした声が響く。そうして静かに入ってきたのは―― 「わざわざ苦労、ふゆ()」  軽く微笑を浮かべ、加賀男(かがお)が首肯した。  一方の真鶴(まつる)は立ち上がり、扉の方へ体を向ける。 「(ねぎら)い、感謝いたしますわ。そのお言葉こそ何よりありがたいものですもの」  妖艶に笑う女性――ふゆ()の腰まである藍色の長髪は、電灯に怖いほど艶めいていた。着物はまばゆいほどの緋色。黄土色の瞳は一重だが、大きくくっきりとしている。  とてつもない美女だ。まさに壮美が顕現(けんげん)したような存在に、真鶴(まつる)は一瞬気圧された。 「お初にお目にかかります。真鶴(まつる)と申します、蜘蛛(くも)(おさ)のふゆ()さま」 「あら、これはご丁寧に。あなたが加賀男(かがお)さま……我らが星帝(せいてい)の正妻となられるお方?」  圧迫感を振り切り、なんとか頭を下げた真鶴(まつる)へ、ふゆ()は笑みを深めた。 「古野羽(このは)真鶴(まつる)。俺が(めと)ることになるだろう女人(にょにん)だ」 「可愛らしい方ですのね。はじめまして、真鶴(まつる)さん」 「ふゆ()、座って構わない」 「それじゃあ、遠慮なく失礼いたしますわ」  たおやかな所作で歩くふゆ()は、机を挟み、真鶴(まつる)の目の前にある椅子へと腰かけた。 「本日は野菜を持ってまいりましたの。加賀男(かがお)さまは野菜がお好きでしょう」 「ありがとう、ふゆ()。いつもすまない」 「とんでもございません。(おさ)として当たり前のことをしているだけですわ」  小さい笑い声すらよく通る。紅を塗った唇が嬉しそうにほころんでいた。 (もしかしたらこの方が、天乃(あまの)さまの思い人なのかもしれない)  二人のなごやか会話を聞き、真鶴(まつる)はふと、思う。  加賀男(かがお)ははっきりと笑みを浮かべていた。今まで見たことがないおもてだ。 (天乃(あまの)さま、とても楽しそう)  きっと自分ではこうはいかない、と軽く、うつむく。二人にわからない程度に。 (せめてこの屋敷で、わたしと過ごすときは安らいでいてほしいのだけれど)  内心で思い、それから自嘲した。  お飾りの妻である存在が、何を期待しているのだろう。自分は子を産むだけの器なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。使命を果たすと、加賀男(かがお)に告げたばかりだというのに。 「ふゆ()。他三人の(おさ)たちは、今回の件をどう言っていた」 「残念ながら。九尾(きゅうび)銀冥(ぎんめい)夜叉鬼(やしゃおに)のハナミも、そして犬神のらんも、いい顔はしておりませんわ」 「そうか……」  加賀男(かがお)の長いため息に、真鶴(まつる)は我に返る。 「申し訳ありません、わたしのせいで」  ささやいて謝罪すれば、加賀男(かがお)が首を横に振った。 「君が謝ることじゃあない」 「ですが、加賀男(かがお)さま。失礼ですが真鶴(まつる)さんは、裏華族(うらかぞく)の力を使えないのでしょう? それならば当然、反発はあるというもの」 「……他の(おさ)とも、いつかは話し合う必要があるな」 「微力ですがお力添えしますわ、加賀男(かがお)さま」 「助かる。何か礼をしなければいけないな」 「まっ」  ほんのり頬を赤く染め、ふゆ()が照れた声を出す。上目遣いで加賀男(かがお)を見るおもては、少しだけ子どもじみているように真鶴(まつる)には見えた。 「では、一つお願いがありますわ」 「なんだろうか。俺にできることであればいいのだが」 「加賀男(かがお)さまのお茶が、飲みたいですわ。簡単なもので構いませんので」 「そんなことか。粗茶になるぞ」 「ま、ご謙遜。茶を()てるのはご趣味でしょうに」 「簡単なものでいいなら、今すぐ出せるが」 「お願いしますわ。ねえ、真鶴(まつる)さんも飲んでみたいですわよね?」 「え、あ……はい」  気圧されてつい、遠慮ができなかった。 「すぐに用意しよう。茶室に、とはいかないがな」 「楽しみですわ、加賀男(かがお)さまのお茶」 「二人で待っていてくれ。すぐに()れてくるから」  椅子から立った加賀男(かがお)を、真鶴(まつる)はふゆ()と共に見送る。  ぱたり、と小さな音を立てて扉が閉まった。 「古野羽(このは)真鶴(まつる)」 「え?」  呟かれ、視線をふゆ()の方へやる。 「わたくしはお前を認めない。今すぐ、許されるならこの場で食ってやりたいくらいよ」 「ふ、ふゆ()さま?」 「下賤(げせん)の出来損ないが、わたくしの名を呼ぶでない」  顔を上げたふゆ()の瞳は、怨鎖(えんさ)の炎に満ちていた。  彼女はは、とため息をつくと、先程までとは打って変わり、傲慢気味に真鶴(まつる)を睨む。 「加賀男(かがお)さまもおかわいそう。このようなみすぼらしい女を妻にするだなんて」 「あ、の……」 「わたくしたちにとって星帝(せいてい)加賀男(かがお)さまは命。名付け親にしてあるじ。そんな偉大な方の側に、役立たずの人間がいて何になるの?」  真鶴(まつる)はただ、固まる。人のものではない気配――まつろわぬものとしての力が、一斉に向けられていた。  殺意、憎しみ、恨み。負の念が凝り固まった気は、父のものとは比べものにならない。  だが、何も言い返せなかった。事実本当のことだからだ。  本能が震えていた。それでも恐怖を顔にすることは、かなわない。 「可愛げすらないなんて。おいたわしいわ、加賀男(かがお)さまが……」  赤い唇を噛みしめ、視線を逸らすふゆ()の声は歪んでいた。 (この方は……天乃(あまの)さまを慕っている)  それだけは真鶴(まつる)にもはっきりとわかり、だが、どうすればいいのだろう。  今すぐ荷物を持って、屋敷から逃げ出せばいいのか。しかし現世(うつしよ)に帰るすべを、知らない。  現世(うつしよ)に帰ったところで、働き先を見つけることは困難だ。いや、できるかもしれない。今まで考えたことがないだけで。  女性も働きに出ている世の中、もしかしたら自分にできることも見つかる可能性はある。 (……でも、わたしが逃げたら、天乃(あまの)さまが怒られてしまうかもしれない)  両膝に置いた手を握り、まぶたを閉じた。  (かし)のじいやなら、何と言ってくれるだろう。こがねならばどうするだろう。  憎悪という針のむしろに晒されたまま、今はただ、友に会いたいとだけ思った。
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