210人が本棚に入れています
本棚に追加
ツキミの言葉に「げっ」と呟いたのは、みつやだった。
「ふゆ音が、来たか」
「はいな。どうしますの?」
「無体にするわけにもいかない。ここに呼んでくれ、ツキミ」
「承知ですの」
ぺこりと頭を下げ、ツキミは静かに退室していく。
何やら天井を仰ぐみつやをさておき、真鶴は加賀男の方を見た。
「ふゆ音……さま? どのような方でしょう」
「土蜘蛛にして、蜘蛛の一族の長だ。四人の長の中では今回、唯一俺の味方をしてくれている」
「味方……」
それは、加賀男と自分が夫婦になる、という事実を認めてくれているということだろうか。
顎に指を添えて考えていたとき、みつやが不意に立ち上がった。
「加賀男、客室貸して。ぼくは逃げる」
「好きにしろ」
「助かるよ。どうにも苦手だ、彼女は。じゃあまたね、真鶴ちゃん」
「は、はい」
真鶴が答えるより先に、帽子を持ったみつやは手を振ったのち、扉を開けて立ち去っていく。
慌ただしさが消え、残された真鶴は目を伏せる加賀男にたずねてみた。
「天乃さま。そのふゆ音さまという方を、迎えに行かなくてもいいのですか?」
「星帝たる俺が、自ら長を出迎えることはない。してはいけない。特別扱いになるから」
「わたしも退室した方が、よろしいでしょうか」
「……君のことは星帝の妻として紹介するつもりだ。ここにいてほしい」
重々しい言葉に、小さくうなずく。
再び沈黙が下りた。だが、落ち着かない静寂ではない。
窓から入りこむ草木の香り。加賀男がまとう実直な雰囲気。掛け時計の古めかしい音。どれもが緊張をほぐしてくれている。
(無作法にならないようにしなければ)
そればかりを考えていたとき、扉が控えめに叩かれた。
「失礼しますわ、我が星帝。加賀男さま」
凜とした声が響く。そうして静かに入ってきたのは――
「わざわざ苦労、ふゆ音」
軽く微笑を浮かべ、加賀男が首肯した。
一方の真鶴は立ち上がり、扉の方へ体を向ける。
「労い、感謝いたしますわ。そのお言葉こそ何よりありがたいものですもの」
妖艶に笑う女性――ふゆ音の腰まである藍色の長髪は、電灯に怖いほど艶めいていた。着物はまばゆいほどの緋色。黄土色の瞳は一重だが、大きくくっきりとしている。
とてつもない美女だ。まさに壮美が顕現したような存在に、真鶴は一瞬気圧された。
「お初にお目にかかります。真鶴と申します、蜘蛛長のふゆ音さま」
「あら、これはご丁寧に。あなたが加賀男さま……我らが星帝の正妻となられるお方?」
圧迫感を振り切り、なんとか頭を下げた真鶴へ、ふゆ音は笑みを深めた。
「古野羽真鶴。俺が娶ることになるだろう女人だ」
「可愛らしい方ですのね。はじめまして、真鶴さん」
「ふゆ音、座って構わない」
「それじゃあ、遠慮なく失礼いたしますわ」
たおやかな所作で歩くふゆ音は、机を挟み、真鶴の目の前にある椅子へと腰かけた。
「本日は野菜を持ってまいりましたの。加賀男さまは野菜がお好きでしょう」
「ありがとう、ふゆ音。いつもすまない」
「とんでもございません。長として当たり前のことをしているだけですわ」
小さい笑い声すらよく通る。紅を塗った唇が嬉しそうにほころんでいた。
(もしかしたらこの方が、天乃さまの思い人なのかもしれない)
二人のなごやか会話を聞き、真鶴はふと、思う。
加賀男ははっきりと笑みを浮かべていた。今まで見たことがないおもてだ。
(天乃さま、とても楽しそう)
きっと自分ではこうはいかない、と軽く、うつむく。二人にわからない程度に。
(せめてこの屋敷で、わたしと過ごすときは安らいでいてほしいのだけれど)
内心で思い、それから自嘲した。
お飾りの妻である存在が、何を期待しているのだろう。自分は子を産むだけの器なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。使命を果たすと、加賀男に告げたばかりだというのに。
「ふゆ音。他三人の長たちは、今回の件をどう言っていた」
「残念ながら。九尾の銀冥も夜叉鬼のハナミも、そして犬神のらんも、いい顔はしておりませんわ」
「そうか……」
加賀男の長いため息に、真鶴は我に返る。
「申し訳ありません、わたしのせいで」
ささやいて謝罪すれば、加賀男が首を横に振った。
「君が謝ることじゃあない」
「ですが、加賀男さま。失礼ですが真鶴さんは、裏華族の力を使えないのでしょう? それならば当然、反発はあるというもの」
「……他の長とも、いつかは話し合う必要があるな」
「微力ですがお力添えしますわ、加賀男さま」
「助かる。何か礼をしなければいけないな」
「まっ」
ほんのり頬を赤く染め、ふゆ音が照れた声を出す。上目遣いで加賀男を見るおもては、少しだけ子どもじみているように真鶴には見えた。
「では、一つお願いがありますわ」
「なんだろうか。俺にできることであればいいのだが」
「加賀男さまのお茶が、飲みたいですわ。簡単なもので構いませんので」
「そんなことか。粗茶になるぞ」
「ま、ご謙遜。茶を点てるのはご趣味でしょうに」
「簡単なものでいいなら、今すぐ出せるが」
「お願いしますわ。ねえ、真鶴さんも飲んでみたいですわよね?」
「え、あ……はい」
気圧されてつい、遠慮ができなかった。
「すぐに用意しよう。茶室に、とはいかないがな」
「楽しみですわ、加賀男さまのお茶」
「二人で待っていてくれ。すぐに淹れてくるから」
椅子から立った加賀男を、真鶴はふゆ音と共に見送る。
ぱたり、と小さな音を立てて扉が閉まった。
「古野羽真鶴」
「え?」
呟かれ、視線をふゆ音の方へやる。
「わたくしはお前を認めない。今すぐ、許されるならこの場で食ってやりたいくらいよ」
「ふ、ふゆ音さま?」
「下賤の出来損ないが、わたくしの名を呼ぶでない」
顔を上げたふゆ音の瞳は、怨鎖の炎に満ちていた。
彼女はは、とため息をつくと、先程までとは打って変わり、傲慢気味に真鶴を睨む。
「加賀男さまもおかわいそう。このようなみすぼらしい女を妻にするだなんて」
「あ、の……」
「わたくしたちにとって星帝、加賀男さまは命。名付け親にしてあるじ。そんな偉大な方の側に、役立たずの人間がいて何になるの?」
真鶴はただ、固まる。人のものではない気配――まつろわぬものとしての力が、一斉に向けられていた。
殺意、憎しみ、恨み。負の念が凝り固まった気は、父のものとは比べものにならない。
だが、何も言い返せなかった。事実本当のことだからだ。
本能が震えていた。それでも恐怖を顔にすることは、かなわない。
「可愛げすらないなんて。おいたわしいわ、加賀男さまが……」
赤い唇を噛みしめ、視線を逸らすふゆ音の声は歪んでいた。
(この方は……天乃さまを慕っている)
それだけは真鶴にもはっきりとわかり、だが、どうすればいいのだろう。
今すぐ荷物を持って、屋敷から逃げ出せばいいのか。しかし現世に帰るすべを、知らない。
現世に帰ったところで、働き先を見つけることは困難だ。いや、できるかもしれない。今まで考えたことがないだけで。
女性も働きに出ている世の中、もしかしたら自分にできることも見つかる可能性はある。
(……でも、わたしが逃げたら、天乃さまが怒られてしまうかもしれない)
両膝に置いた手を握り、まぶたを閉じた。
樫のじいやなら、何と言ってくれるだろう。こがねならばどうするだろう。
憎悪という針のむしろに晒されたまま、今はただ、友に会いたいとだけ思った。
最初のコメントを投稿しよう!