210人が本棚に入れています
本棚に追加
※ ※ ※
ふゆ音は加賀男の前ではしおらしい。真鶴にも丁寧に接し、先程二人きりのときに放った怨念など、露ほどにも見せはしなかった。
「お茶の方、大変美味しゅうございましたわ、加賀男さま」
加賀男が出してくれた茶にもほとんど手をつけられず、真鶴は彼と共に帰ろうとするふゆ音を見送る。
「お野菜、どうか食べて下さいましね。真鶴さん、どうかこれから仲良くしてくれれば嬉しいですわ」
「……はい」
「今日はわざわざすまなかった。長たちの動向も、助かる」
「加賀男さまのためならば。それでは、失礼いたしますわね」
妖しく笑みつつ、ふゆ音はお辞儀をすると応接室から出て行った。
扉が閉まるのを見て、真鶴は一気に疲労が押し寄せてくるのを感じる。覚えた明確な恐怖は心の底に沈殿し、しこりのようなものを作り上げていた。
「どうかしたのか」
手の震えを着物の袖で隠す自分を見てだろう。加賀男が柔らかい声で問いかけてくる。
「い、いえ」
「疲れさせてしまったようだな。顔色が悪い」
「大丈夫です……慣れない方々に、緊張をしただけですので」
かぶりを振り、口角を上げようとしてみた。無理だ。頭も上手く働かない。
「……口に、合わなかっただろうか」
「え?」
「その、茶だ。珈琲というものの方が、君は好きなのだろうか」
「そんなことはありません。お茶は嫌いではありませんので」
加賀男を見た。どこか落ちこんだような面持ちをしている。
「この茶は……君のために淹れてみた。喉も渇いていただろうから」
太く、それでも透き通る声音が真鶴の心に染み渡った。不器用な優しさが伝わってくるようだ。
手の揺らぎを抑え込み、湯飲みを手にする。すでに温くなってしまった茶は、それでも微かに匂い立っていた。
目をつぶり、そっと飲んでみる。まろやかで深い味わい。苦みはほとんどなく、甘かった。
「……美味しい」
はじめて心からの思いを告げられた。ほっとできる味に、心身が休まる。
「よかった」
加賀男が、笑う。これ以上ないほど安堵した様子で。
「ありがとうございます、天乃さま。本当に美味しいです」
「そういってもらえるならありがたい。ああ、風呂も沸いている。腹は空いていないか」
「はい。ですが、天乃さまより先んじて、最初にお湯をいただくわけにはいきません」
「みつやがもう入っている。湯は取り替え済みだから、安心してほしい」
「……わかりました。それでは、お言葉に甘えます」
「ツキミ、案内を」
真鶴が首肯するが早いか、室内にツキミが現れる。
「はいな、星帝さま。あっ、野菜は冷暗所に全部保管しておきましたの」
「助かる。彼女を風呂場と寝室に案内してやってくれ」
「わかりましたの。真鶴ひいさま、どうぞこっちに」
「案内、よろしくお願いします。ツキミさん」
「はいなー」
楽しそうに笑うツキミが、扉を開けてくれた。
真鶴は加賀男に頭を下げてから、ツキミの後をついていく。
館は広い。ともすれば迷ってしまいそうなくらいだ。
「このお屋敷、気に入りましたの?」
「え? ええ……とても広くて綺麗です。お掃除が大変そうだけれど」
ツキミは平らな胸を張り、器用なことに後ろを向いて歩いている。
「お掃除ならウチも手伝いますの。でも、よかったですの。洋風の方がひいさま、辛くないだろうって星帝さまが……」
「辛くない?」
「あっ、あわわ。い、今のは、その、忘れてほしいですの」
慌てふためく彼女を見て、真鶴は首を傾げた。
辛くない、というのはどういう意味だろう。困惑しながら辺りを見渡してみる。
絢爛ではないが落ち着きのある空間だ。しかし埃もほとんどなく、大抵のものが真新しい。そこで真鶴は気付いた。
「もしかしてこのお屋敷は、建てられたばかりのもの?」
「そ、そうですの……ひいさまをお迎えするに、建て直したのですの」
「わたしを迎えるため……」
「星帝さまに言わんといてほしいですの。怒られてしまいますの」
しょんぼりとするツキミに、曖昧にうなずく。
和風の建物なら、もしかしたら自分が現世を思い出すから――そう考え、加賀男は屋敷を洋風作りにしてくれたのかもしれない。
(どこまでもわたしを気遣って下さるのね、天乃さまは。優しい方だわ)
自分には、もったいなさ過ぎる相手だ。そう心から思う。
ツキミの案内で菖蒲風呂に浸かり、爽やかな香りに酔いしれた。先程までの緊張と恐怖が薄れていくようだ。
(心尽くしをいただいている……わたしもただ、怖がってばかりではいけない)
用意された黒い浴衣に着替えつつ、決める。
ふゆ音とは仲良くなれないかもしれない。それでもただ恐れ、びくびくしているだけでは、なんの進展も見こめないだろう。
加賀男だってそうだ。彼は、優しい。とても。
淹れてくれたお茶の美味しさ、抱き留めてくれた暖かさ、気遣いの数々。それらに応えたいと思ってしまう。
星帝の妻として、立派に。例え短い間でも、加賀男を支えよう――
そう決めたのはいい。だが。
「……どうしましょう」
問題は、寝室に入ってすぐおとずれた。
大きな寝床の中央には二人分の布団があり、うろたえてしまう。
初枕――男女がはじめて一つ床で寝る事態に、ただ固まった。
(でも、これは必要なこと……お世継ぎを産むに、必要なこと……)
さしもの真鶴でも、子どもを作るに男性と体を重ねる、とまでは知っていた。
しかし、具体的に何をすればいいのか。閨での事柄は、姉が確か「殿方に委ねなさい」と言っていた記憶がある。
「天乃さまに、委ねる……」
心臓だけがただただ早鐘を打つ。顔に出てはこないが、緊張の極みにあった。
奥の布団の上で正座し、ぼんやりと明るい行灯を見つめる。
そうしてどのくらい、経過しただろう。
「中に入っていいだろうか」
不意に加賀男の声がふすまの向こうから聞こえ、真鶴は背筋を正した。
「は、はい」
声が少しだけ上擦る。若干の間を置き、静かに浴衣姿の加賀男が入ってきた。
加賀男は難しい顔をしている。ためらいと迷い、そんなものをない交ぜにしたかのようなおもてだ。
「……こちらへ」
真っ正面に座った加賀男が、無言ののちに手を差し出してきた。
褐色の肌は、薄暗がりにあればまさしく闇のようだ。
(怖がっていては、いけない)
一つ決心し、真鶴はてのひらの上に自らの手を、重ねる。
優しく、壊れ物を扱うような所作で、加賀男が体を引き寄せた。
そのまま大きくたくましい胸板へ、真鶴は顔を押し付ける形となってしまう。
「大丈夫だ」
真鶴の髪を指で何度も梳きつつ、頭上で加賀男はささやいた。
「眠れ。そっと目を閉じて……辛いこともいやなことも、全てを忘れていいから」
呟きを繰り返し聞いていれば、次第に強烈な睡魔が真鶴のまぶたを降ろしていく。
(ねむって、いいの、かしら)
うとうととしつつ、残された気合いだけで思う。
抗いがたい催眠は甘く、柔らかい。
「お休み、真鶴」
意識を手放そうとした瞬間、今まで聞いたどんな声よりも暖かい加賀男の声が、した。
最初のコメントを投稿しよう!