第二幕:天の海に 雲の波立ち 月の船

7/7
前へ
/42ページ
次へ
  ※ ※ ※  ふゆ()加賀男(かがお)の前ではしおらしい。真鶴(まつる)にも丁寧に接し、先程二人きりのときに放った怨念など、露ほどにも見せはしなかった。 「お茶の方、大変美味しゅうございましたわ、加賀男(かがお)さま」  加賀男(かがお)が出してくれた茶にもほとんど手をつけられず、真鶴(まつる)は彼と共に帰ろうとするふゆ()を見送る。 「お野菜、どうか食べて下さいましね。真鶴(まつる)さん、どうかこれから仲良くしてくれれば嬉しいですわ」 「……はい」 「今日はわざわざすまなかった。(おさ)たちの動向も、助かる」 「加賀男(かがお)さまのためならば。それでは、失礼いたしますわね」  妖しく笑みつつ、ふゆ()はお辞儀をすると応接室から出て行った。  扉が閉まるのを見て、真鶴(まつる)は一気に疲労が押し寄せてくるのを感じる。覚えた明確な恐怖は心の底に沈殿し、しこりのようなものを作り上げていた。 「どうかしたのか」  手の震えを着物の袖で隠す自分を見てだろう。加賀男(かがお)が柔らかい声で問いかけてくる。 「い、いえ」 「疲れさせてしまったようだな。顔色が悪い」 「大丈夫です……慣れない方々に、緊張をしただけですので」  かぶりを振り、口角を上げようとしてみた。無理だ。頭も上手く働かない。 「……口に、合わなかっただろうか」 「え?」 「その、茶だ。珈琲(コーヒー)というものの方が、君は好きなのだろうか」 「そんなことはありません。お茶は嫌いではありませんので」  加賀男(かがお)を見た。どこか落ちこんだような面持ちをしている。 「この茶は……君のために()れてみた。喉も渇いていただろうから」  太く、それでも透き通る声音が真鶴(まつる)の心に染み渡った。不器用な優しさが伝わってくるようだ。  手の揺らぎを抑え込み、湯飲みを手にする。すでに温くなってしまった茶は、それでも微かに匂い立っていた。  目をつぶり、そっと飲んでみる。まろやかで深い味わい。苦みはほとんどなく、甘かった。 「……美味しい」  はじめて心からの思いを告げられた。ほっとできる味に、心身が休まる。 「よかった」  加賀男(かがお)が、笑う。これ以上ないほど安堵した様子で。 「ありがとうございます、天乃(あまの)さま。本当に美味しいです」 「そういってもらえるならありがたい。ああ、風呂も沸いている。腹は空いていないか」 「はい。ですが、天乃(あまの)さまより先んじて、最初にお湯をいただくわけにはいきません」 「みつやがもう入っている。湯は取り替え済みだから、安心してほしい」 「……わかりました。それでは、お言葉に甘えます」 「ツキミ、案内を」  真鶴(まつる)が首肯するが早いか、室内にツキミが現れる。 「はいな、星帝(せいてい)さま。あっ、野菜は冷暗所に全部保管しておきましたの」 「助かる。彼女を風呂場と寝室に案内してやってくれ」 「わかりましたの。真鶴(まつる)ひいさま、どうぞこっちに」 「案内、よろしくお願いします。ツキミさん」 「はいなー」  楽しそうに笑うツキミが、扉を開けてくれた。  真鶴(まつる)加賀男(かがお)に頭を下げてから、ツキミの後をついていく。  館は広い。ともすれば迷ってしまいそうなくらいだ。 「このお屋敷、気に入りましたの?」 「え? ええ……とても広くて綺麗です。お掃除が大変そうだけれど」  ツキミは平らな胸を張り、器用なことに後ろを向いて歩いている。 「お掃除ならウチも手伝いますの。でも、よかったですの。洋風の方がひいさま、辛くないだろうって星帝(せいてい)さまが……」 「辛くない?」 「あっ、あわわ。い、今のは、その、忘れてほしいですの」  慌てふためく彼女を見て、真鶴(まつる)は首を傾げた。  辛くない、というのはどういう意味だろう。困惑しながら辺りを見渡してみる。  絢爛(けんらん)ではないが落ち着きのある空間だ。しかし(ほこり)もほとんどなく、大抵のものが真新しい。そこで真鶴(まつる)は気付いた。 「もしかしてこのお屋敷は、建てられたばかりのもの?」 「そ、そうですの……ひいさまをお迎えするに、建て直したのですの」 「わたしを迎えるため……」 「星帝(せいてい)さまに言わんといてほしいですの。怒られてしまいますの」  しょんぼりとするツキミに、曖昧(あいまい)にうなずく。  和風の建物なら、もしかしたら自分が現世(うつしよ)を思い出すから――そう考え、加賀男(かがお)は屋敷を洋風作りにしてくれたのかもしれない。 (どこまでもわたしを気遣って下さるのね、天乃(あまの)さまは。優しい方だわ)  自分には、もったいなさ過ぎる相手だ。そう心から思う。  ツキミの案内で菖蒲(しょうぶ)風呂に浸かり、爽やかな香りに酔いしれた。先程までの緊張と恐怖が薄れていくようだ。 (心尽くしをいただいている……わたしもただ、怖がってばかりではいけない)  用意された黒い浴衣に着替えつつ、決める。  ふゆ()とは仲良くなれないかもしれない。それでもただ恐れ、びくびくしているだけでは、なんの進展も見こめないだろう。  加賀男(かがお)だってそうだ。彼は、優しい。とても。  ()れてくれたお茶の美味しさ、抱き留めてくれた暖かさ、気遣いの数々。それらに応えたいと思ってしまう。  星帝(せいてい)の妻として、立派に。例え短い間でも、加賀男(かがお)を支えよう――  そう決めたのはいい。だが。 「……どうしましょう」  問題は、寝室に入ってすぐおとずれた。  大きな寝床の中央には二人分の布団があり、うろたえてしまう。  初枕(ういまくら)――男女がはじめて一つ(とこ)で寝る事態に、ただ固まった。 (でも、これは必要なこと……お世継ぎを産むに、必要なこと……)  さしもの真鶴(まつる)でも、子どもを作るに男性と体を重ねる、とまでは知っていた。  しかし、具体的に何をすればいいのか。(ねや)での事柄は、姉が確か「殿方に委ねなさい」と言っていた記憶がある。 「天乃(あまの)さまに、委ねる……」  心臓だけがただただ早鐘を打つ。顔に出てはこないが、緊張の極みにあった。  奥の布団の上で正座し、ぼんやりと明るい行灯(あんどん)を見つめる。  そうしてどのくらい、経過しただろう。 「中に入っていいだろうか」  不意に加賀男(かがお)の声がふすまの向こうから聞こえ、真鶴(まつる)は背筋を正した。 「は、はい」  声が少しだけ上擦る。若干の間を置き、静かに浴衣姿の加賀男(かがお)が入ってきた。  加賀男(かがお)は難しい顔をしている。ためらいと迷い、そんなものをない交ぜにしたかのようなおもてだ。 「……こちらへ」  真っ正面に座った加賀男(かがお)が、無言ののちに手を差し出してきた。  褐色の肌は、薄暗がりにあればまさしく闇のようだ。 (怖がっていては、いけない)  一つ決心し、真鶴(まつる)はてのひらの上に自らの手を、重ねる。  優しく、壊れ物を扱うような所作で、加賀男(かがお)が体を引き寄せた。  そのまま大きくたくましい胸板へ、真鶴(まつる)は顔を押し付ける形となってしまう。 「大丈夫だ」  真鶴(まつる)の髪を指で何度も()きつつ、頭上で加賀男(かがお)はささやいた。 「眠れ。そっと目を閉じて……辛いこともいやなことも、全てを忘れていいから」  呟きを繰り返し聞いていれば、次第に強烈な睡魔が真鶴(まつる)のまぶたを降ろしていく。 (ねむって、いいの、かしら)  うとうととしつつ、残された気合いだけで思う。  抗いがたい催眠は甘く、柔らかい。 「お休み、真鶴(まつる)」  意識を手放そうとした瞬間、今まで聞いたどんな声よりも暖かい加賀男(かがお)の声が、した。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

210人が本棚に入れています
本棚に追加