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真鶴の朝は早い。
寅の刻――暁七つには自然と目を覚ます。実家で過ごしていた際は、一人で食事や洗濯などをこなさなければならなかったからだ。
心地よい目覚めだった。天井を見て、目を何度かまたたかせた。
(あ、昨日……)
昨晩、何があったのだろう。思い返そうと上半身を起こした。
いつの間にか薄い布団がかけられていて、浴衣には着崩れの痕もほとんどない。
「わたしは確か……抱き締められて……」
眠ってしまった――そう、何をされるわけでもなく、ただ部屋を一緒にしただけだ。
横を見ると、少し離れた布団で加賀男が眠っていた。
少し長めのまつげがあるまぶたは閉じられ、藍色の瞳が隠れてしまっている。褐色の肌にかかる銀色の髪は、紺の浴衣によく映えていた。
無防備な寝顔だ。いつもは厳めしい顔立ちも、今は年相応に見える。
(綺麗なお顔だわ)
思って、真鶴はしばらく見惚れた。
それから我に返り、自らの体を確認してみる。
何も、ない。痛みもかゆみも、異変はどこにもなかった。
加賀男が世継ぎ、すなわち子どもを作ろうとしないのは、やはり自分が妻として認められていないからだろう。
事実を申し訳なく思い、指で唇に触れた。
(口付けもなかった……)
いや、と一人かぶりを振る。別に恋人同士、愛し合うものたちではないのだ。接吻する必要などない、と彼は判断したのかもしれない。
それに真鶴のはじめての口付けは、幼い頃に奪われている。相手は誰だったのか、未だに思い出せないが。
(……朝ご飯を作らないと)
無駄に考えるほど、自分が惨めに思えてきて、思考を切り替える。
加賀男を起こさないよう布団から出て、静かに寝室の障子を閉めた。
下駄を履き、昨晩ツキミが教えてくれた自室へと向かう。寝室と近い距離に自分の部屋はあった。
広い和室だ。たんすに鏡台、そして文机、庭が見える縁側。まだ外は暗く、鬼火の行灯がまぶしい。外からの匂いを敏感に嗅ぎ取り、気を引き締める。
ツキミが片付けてくれていたのだろう。荷物は全て、たんすと鏡台の中に収められていた。
髪を梳かしてから普段用の着物に着替える。少し悩んだのち、縛った髪に蝶のかんざしを挿した。みすぼらしい格好では、加賀男に迷惑をかけるかもしれないと思ったからだ。
たすきで動きやすい格好を作り、自室から台所へと向かおうとした。
「……ツキミさん、起きてらっしゃいますか?」
しかし場所がわからず、小声でささやく。返答はない。まだ寝ているのかもしれない。
「困ったわ。外の草木に聞いてみようかしら」
ここにある草木との対話は、まだ試したことはなかった。上手くいくかと不安がよぎる。
念話をしようと目をつぶろうとした、そのとき。
部屋の隅にある暗がり、そこから一匹の蛇が出てくる。
「……こがね?」
漆黒の鱗に金の瞳をもつ蛇――間違いない。自分をなぐさめてくれていた友が、いた。
「本当にいたのね、こがね。やっぱりあなた、天乃さまの言うとおりまつろわぬものの一人だったのね。先にうなずいてくれればいいのに」
しゃがみこんで手を差し出すと、こがねはすぐに手の甲へ頭を擦り寄せてくる。
「あなたがいてくれるなんて、とても心強いわ。ねえ、台所の場所は知っているかしら? 天乃さまに御ご飯を作って差し上げたいの」
こがねは真鶴の手の感触を確かめるようにすり寄っていたが、少ししてその身を離す。
それから「ついてこい」と言わんがばかりにゆっくりと動き出した。
「ありがとう、案内してくれるのね」
真鶴の声に、こがねがうなずいた。
勝手知ったる、とはこのことだろう。複雑に入り組んだ館を、こがねは迷うことなく進んでいく。
周りの部屋は静まりかえっていた。どこからか聞こえる時計の音が大きい。
「みつやさんはもうお帰りになったのかしら」
真鶴はこがねにたずねてみた。無視された。
「もう」
嘆息した直後、一つの部屋の前でこがねが進むのを止める。
「ここね。案内ご苦労さま、こがね」
労いの代わりにと、その体を真鶴は撫でた。こがねは気持ちよさそうに目を細める。
「……台所、借りますね」
真鶴は再度立ち上がり、誰にともなくささやいた。
中へと入る。勝手口に食器棚、冷暗所がある台所は静かだ。幸いにして明かりがあったため、手元を狂わせたりはしないだろう。
こがねはまた、部屋の隅でとぐろを巻いて大人しくしている。
真鶴はかんざしを外したのち、近くにあった三角巾で頭を巻いた。
「天乃さまはお野菜が好き……」
ふゆ音の言葉を思い出し、献立を考える。
それからの真鶴は素早く動いた。
かまどに火をつけ米を炊き、同時に数品、野菜を中心とした料理を作り上げる。新鮮なニシンもあったため、さばいて塩焼きに。
「……作りすぎた、かしら」
気付けばそれなりのものができたが、量が多かったかもしれない。みつやがいるなら食べてもらえれば、と頭巾を外した、ときだ。
「あわわ、ひいさま。早起きですの!」
台所にツキミが飛びこんでくる。
「おはようございます、ツキミさん。ごめんなさい、勝手に台所を借りて」
「いーえ。いい匂いがしますの……って、ひいさま、一人でこれを作ったんですの?」
「はい。料理は好きなので。でも、さすがに多すぎたような気もします」
「星帝さま、きっと喜ぶですの。いつも野菜を丸かじりだから」
「丸かじり?」
ツキミの言葉に、真鶴は小首を傾げた。
「はいな。大根とかきゅうりとか、丸かじりにして食べますの。だからあんまり料理、ウチも作らないんですの」
「……余計なことをしてしまったかしら」
そそっかしいにも程がある。作ったところで、料理を食べてくれる保証などないというのに。
「そんなことないですの。まともな食事をして、って毎度、ウチは言ってますの」
「ならいいのだけれど……」
「でも、ひいさま。ここの場所は教えてませんの。どうやって来たんですの?」
「友達に教えてもらって」
「お友達?」
「ええ。そうよね? こが……」
友がいたはずの場所を、振り返る。
そこにはもう、こがねはいなかった。影すらなく、いつの間にか消え去ったように。
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