第三幕:自らが 幸い君が さいはひの

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 真鶴(まつる)の朝は早い。  (とら)(こく)――暁七つ(4時)には自然と目を覚ます。実家で過ごしていた際は、一人で食事や洗濯などをこなさなければならなかったからだ。  心地よい目覚めだった。天井を見て、目を何度かまたたかせた。 (あ、昨日……)  昨晩、何があったのだろう。思い返そうと上半身を起こした。  いつの間にか薄い布団がかけられていて、浴衣には着崩れの(あと)もほとんどない。 「わたしは確か……抱き締められて……」  眠ってしまった――そう、何をされるわけでもなく、ただ部屋を一緒にしただけだ。  横を見ると、少し離れた布団で加賀男(かがお)が眠っていた。  少し長めのまつげがあるまぶたは閉じられ、藍色の瞳が隠れてしまっている。褐色の肌にかかる銀色の髪は、紺の浴衣によく映えていた。  無防備な寝顔だ。いつもは厳めしい顔立ちも、今は年相応に見える。 (綺麗なお顔だわ)  思って、真鶴(まつる)はしばらく見惚れた。  それから我に返り、自らの体を確認してみる。  何も、ない。痛みもかゆみも、異変はどこにもなかった。  加賀男(かがお)が世継ぎ、すなわち子どもを作ろうとしないのは、やはり自分が妻として認められていないからだろう。  事実を申し訳なく思い、指で唇に触れた。 (口付けもなかった……)  いや、と一人かぶりを振る。別に恋人同士、愛し合うものたちではないのだ。接吻(せっぷん)する必要などない、と彼は判断したのかもしれない。  それに真鶴(まつる)のはじめての口付けは、幼い頃に奪われている。相手は誰だったのか、未だに思い出せないが。 (……朝ご飯を作らないと)  無駄に考えるほど、自分が(みじ)めに思えてきて、思考を切り替える。  加賀男(かがお)を起こさないよう布団から出て、静かに寝室の障子を閉めた。  下駄を履き、昨晩ツキミが教えてくれた自室へと向かう。寝室と近い距離に自分の部屋はあった。  広い和室だ。たんすに鏡台、そして文机(ふみづくえ)、庭が見える縁側。まだ外は暗く、鬼火の行灯(あんどん)がまぶしい。外からの匂いを敏感に嗅ぎ取り、気を引き締める。  ツキミが片付けてくれていたのだろう。荷物は全て、たんすと鏡台の中に収められていた。  髪を()かしてから普段用の着物に着替える。少し悩んだのち、縛った髪に蝶のかんざしを()した。みすぼらしい格好では、加賀男(かがお)に迷惑をかけるかもしれないと思ったからだ。  たすきで動きやすい格好を作り、自室から台所へと向かおうとした。 「……ツキミさん、起きてらっしゃいますか?」  しかし場所がわからず、小声でささやく。返答はない。まだ寝ているのかもしれない。 「困ったわ。外の草木に聞いてみようかしら」  ここにある草木との対話は、まだ試したことはなかった。上手くいくかと不安がよぎる。  念話をしようと目をつぶろうとした、そのとき。  部屋の隅にある暗がり、そこから一匹の蛇が出てくる。 「……こがね?」  漆黒の鱗に金の瞳をもつ蛇――間違いない。自分をなぐさめてくれていた友が、いた。 「本当にいたのね、こがね。やっぱりあなた、天乃(あまの)さまの言うとおりまつろわぬものの一人だったのね。先にうなずいてくれればいいのに」  しゃがみこんで手を差し出すと、こがねはすぐに手の甲へ頭を擦り寄せてくる。 「あなたがいてくれるなんて、とても心強いわ。ねえ、台所の場所は知っているかしら? 天乃(あまの)さまに()ご飯を作って差し上げたいの」  こがねは真鶴(まつる)の手の感触を確かめるようにすり寄っていたが、少ししてその身を離す。  それから「ついてこい」と言わんがばかりにゆっくりと動き出した。 「ありがとう、案内してくれるのね」  真鶴(まつる)の声に、こがねがうなずいた。  勝手知ったる、とはこのことだろう。複雑に入り組んだ館を、こがねは迷うことなく進んでいく。  周りの部屋は静まりかえっていた。どこからか聞こえる時計の音が大きい。 「みつやさんはもうお帰りになったのかしら」  真鶴(まつる)はこがねにたずねてみた。無視された。 「もう」  嘆息した直後、一つの部屋の前でこがねが進むのを止める。 「ここね。案内ご苦労さま、こがね」  労いの代わりにと、その体を真鶴(まつる)は撫でた。こがねは気持ちよさそうに目を細める。 「……台所、借りますね」  真鶴(まつる)は再度立ち上がり、誰にともなくささやいた。  中へと入る。勝手口に食器棚、冷暗所がある台所は静かだ。幸いにして明かりがあったため、手元を狂わせたりはしないだろう。  こがねはまた、部屋の隅でとぐろを巻いて大人しくしている。  真鶴(まつる)はかんざしを外したのち、近くにあった三角巾で頭を巻いた。 「天乃(あまの)さまはお野菜が好き……」  ふゆ()の言葉を思い出し、献立を考える。  それからの真鶴(まつる)は素早く動いた。  かまどに火をつけ米を炊き、同時に数品、野菜を中心とした料理を作り上げる。新鮮なニシンもあったため、さばいて塩焼きに。 「……作りすぎた、かしら」  気付けばそれなりのものができたが、量が多かったかもしれない。みつやがいるなら食べてもらえれば、と頭巾を外した、ときだ。 「あわわ、ひいさま。早起きですの!」  台所にツキミが飛びこんでくる。 「おはようございます、ツキミさん。ごめんなさい、勝手に台所を借りて」 「いーえ。いい匂いがしますの……って、ひいさま、一人でこれを作ったんですの?」 「はい。料理は好きなので。でも、さすがに多すぎたような気もします」 「星帝(せいてい)さま、きっと喜ぶですの。いつも野菜を丸かじりだから」 「丸かじり?」  ツキミの言葉に、真鶴(まつる)は小首を傾げた。 「はいな。大根とかきゅうりとか、丸かじりにして食べますの。だからあんまり料理、ウチも作らないんですの」 「……余計なことをしてしまったかしら」  そそっかしいにも(ほど)がある。作ったところで、料理を食べてくれる保証などないというのに。 「そんなことないですの。まともな食事をして、って毎度、ウチは言ってますの」 「ならいいのだけれど……」 「でも、ひいさま。ここの場所は教えてませんの。どうやって来たんですの?」 「友達に教えてもらって」 「お友達?」 「ええ。そうよね? こが……」  友がいたはずの場所を、振り返る。  そこにはもう、こがねはいなかった。影すらなく、いつの間にか消え去ったように。
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