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……結局、真鶴はこがねを探すことはできなかった。作ったものを食事処に運ばねばいけなかったからだ。
ツキミと共に、料理が載った皿などを持ちこんでいく。仏国仕様の赤いカーテンを開け、上げ下げ窓の外を見れば、満月より少しだけ欠けた月が視界に入ってきた。
(天乃さまは、料理を食べて下さるかしら)
月光に目を細めつつ、今更ながらそわそわとしてしまう。
癖だけで作ってしまった代物だ。加賀男の口に合うかもわからない。
「ひいさま、あとはウチがやりますの。座って待っててほしいですの」
「ありがとう、ツキミさん。でも天乃さまを起こさなくては」
振り返り、白米をよそおうツキミへ首を振った、直後。
「おはよう」
パネル扉が開かれ、樺茶色の着物をまとった加賀男が入ってくる。
「おはようございますですの、星帝さま」
「お、おはようございます、天乃さま」
「ツキミはともかく君は早いな。……ん?」
匂いに釣られてだろうか、加賀男が食卓の上を見た。
「この朝食は……」
「ひいさまの手作りですの!」
「申し訳ありません、勝手にお台所や食材を使ってしまいました」
彼はじっと献立を見てから、真鶴へと視線を戻す。
「ここは君の館でもある。好きに使ってくれて構わない」
「は、はい」
「それにしても、美味そうだ」
ふ、と加賀男は口元をほころばせた。それから衝立近くの席へと腰かける。
「食べよう。君も、一緒に。座ってくれ」
席を手で指し示され、真鶴はうなずく。
慣れないチェアの座り心地は、どこか落ち着かない。いや、それより、彼の舌を喜ばせられるかどうかの心配が先んじている。
「それではツキミは失礼しますの。あとはひいさまにお任せしますの」
一礼ののち、ツキミが退室していく。
「いただこう」
「はい。いただきます」
二人一緒に手を合わせた。
早速、菜っ葉の味噌汁をすすった加賀男が、目を見張る。
「……美味い」
穏やかに微笑む彼のおもてに、真鶴はほっと安堵した。
「まともな食事など、ここ数年していなかった。暖かくて安心する味だ」
「それはよかったです」
それから加賀男は、様々な品に手をつけては何度も一人、うなずいている。
「白菜の漬物も、君が?」
「塩揉みしたくらいのものですけれど。ぬかがなかったものですから」
「十分すぎる。この魚も、大根の煮物も、本当に美味しい」
「お口に合ったなら……嬉しいです」
真鶴は味噌汁のお椀を置き、小声で答える。
喜びの感情など、今の自分には存在しない。それでも食べてくれたことがありがたく、落ち着きのなさはいつの間にか消え去っていた。
「もし君がよかったら、これからも料理を作ってくれれば俺は、嬉しい」
「わたしの料理でいいのなら……お野菜の丸かじりは、あまりよくないことですし」
「ツキミに聞いたのか」
困った顔をする加賀男に、真鶴は首肯する。
「俺は手料理というものに、ほとんど縁がなくてな。たまにみつやに引っ張られ、洋食店などには行くのだが」
「みつやさんはもうお戻りに?」
「とっくに帰っている。あれも寿々家の一族だ。小刀で俺が張る結界を破り、隠世と現世を行き来できる」
「そうだったんですね」
「……みつやの身を案ずるか」
若干暗い声音に、一度箸を置いた。
「いえ。食事を作りすぎてしまいまして……残してしまうのが心配だったのです」
「それなら大丈夫だ。ツキミはああ見えて大食らい。それに、俺も食べる」
苦笑をこぼす加賀男の方をよく見れば、すでに料理の大半が減っていた。
「本当に、美味い食事だ」
しみじみとした口調で言われ、しかし真鶴の心は動かない。
よかったという思いはある。安心感は確かに覚えている。だが、本来あるべき喜びが、すっぽりと欠け落ちていた。
それでも少なくとも、飯炊き女房としては合格だろう。彼がなごんでくれた事実は確かなのだから。
(それで今は、十分だわ)
箸を再び手にし、魚や白米を口に運び、咀嚼していく。
(……でも)
本当は昨晩のことを聞きたかった。真鶴、とささやいてくれたのは夢だったのかもしれない。大体、自分は世継ぎを産む器だ。体を重ねなかった理由が少し、気になる。
「よかったら、あとで出かけないか」
ツキミがあらかじめ用意していた番茶を飲み、加賀男が不意に呟いた。
昨夜のことに気を取られていた真鶴は、少し反応が遅れてしまう。
「お出かけ……」
「いや、気乗りしないのならばいいんだ」
「星帝である天乃さま自ら、町に下りるのですか?」
真鶴もようやく食事を終えつつ、とりとめもなく疑問に思った。
「ああ。普段、何か問題があれば、直接まつろわぬものたちは家に来る。だが、そうならないため見回るのもまた、俺の仕事だ」
「そうなのですね。ですが、お仕事にわたしがついていくのは邪魔なのでは」
「君も星帝の妻として、仲裁のやり方を覚えてほしい。ああ、いや……」
困ったような、迷ったようなおもてを作り、加賀男が顎に手を添える。
「何か?」
「……この蛇宮の町を、君に見てほしい。だから、その……」
言いよどむ彼の様子に、真鶴もまた悩みあぐねる。
力も中途半端な自分が表に立てば、加賀男の立場が悪くならないだろうか。他のまつろわぬものたちからの心象を、下げてしまうことにならないだろうか――
「君もきっと、この町に溶けこむことができるだろうから」
困惑する真鶴を引き戻したのは、真摯な、実直に過ぎる言葉だった。
「そういうことでしたら。ご迷惑でなければ、色々と教えて下さい」
渋面で茶を飲む加賀男に、素直にうなずく。
彼は湯飲みを置き、じっとこちらを見てからまた、視線を逸らした。
「時計は必ず持っていくことを忘れないでくれ。昼四つ半くらいに、出よう」
「はい。それまでに身支度をしますね」
答えながら、真鶴は思う。
彼は神秘的な藍色の瞳の奥に、何を隠しているのだろう。どうして自分に優しくするのだろう。
問い質せば答えてくれるかもしれない。だが、なぜか冷たく返されることが怖くて、黙って目を伏せる。
(おいたわしいわ、加賀男さまが)
昨日聞いたふゆ音の独白が、胸にちくりと刺さった、気がした。
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