序幕:月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ

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 ――口付けを、されたことがある。  ふと彼女が八年前のことを思い出したのは、明日、姉の祝言(しゅうげん)があるからか。  肺炎をわずらっていた十歳の頃。死にかけていた自分の記憶は、ほとんどが曖昧だ。それでも柔らかい、熱を帯びた唇の感触ははっきりとしている。 『どうしたんだね、真鶴(まつる)』  無意識に指を口元へやったとき、脳裏にしわがれた声が響いた。 「なんでもないわ」  声へ呟き、さまよわせていた手で着物の襟を正す。赤い鼻緒の草履(ぞうり)を履き、明かりも持たずに縁側から庭へと出た。  巨大な(かし)の木を中心に、松やレンギョウ、ユズリハ、ヤツデなどの葉が、障子近くに置いた行灯(あんどん)にきらめいている。だが、自然豊かな庭に花はない。全てが緑一色だ。 『真鶴(まつる)真鶴(まつる)、今日は満月だ』 『もうそろそろ晴れるわよ』 「月もきっと、お姉さまたちを祝っているのね」  聞こえる慣れ親しんだ声に、彼女――真鶴(まつる)は天を仰ぐ。  薄い雲が初夏の風に流れ、まばゆい月光が差しはじめた。  ウェーブがかった黒髪と全身の肌がぞわり、と震える。次の瞬間、多少大きめの黒目が、若草色へと彩りを変えるのを自覚した。  少しばかりの期待をこめ、一房(ひとふさ)髪を持ち上げて確認しても、紛れもない黒だ。 「……わたしは何も変わらない」  平坦な声音でささやく。ため息すらもう出ない。 『真鶴(まつる)はそのままでも綺麗だよ』 『そういうもんじゃないわ、馬鹿』 「ありがとう、ヤツデ。でもユズリハの言うとおりなの。今宵もまた、だめだった」  風にそよぐヤツデとユズリハの葉を撫で、首を横に振る。  庭に人はいない。来ない。真鶴(まつる)の会話相手は、草木だ。十八年、共に過ごした草木たち。 「……何見て笑むはサクヤヒメ ニニギさまに向けるのは 花(ざか)りのはかなき一生」  家に伝わる、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)祝詞(のりと)を唱えてみた。何も起こらない。いつものように。 「やっぱり、変わらない」 『真鶴(まつる)や。急くことはない。いずれお前にも変わるときが来よう』 「そうね、(かし)のじいや」  慰めてくれることが心苦しい。庭の隅でしゃがみ、ただ草葉に指を絡ませる。  蓄音機の楽曲が、微かに真鶴(まつる)の耳に入ってきた。本宅からのものだ。隣接する西洋風の建物へと視線をやった。伊国(ローマ)式建築だという大きな邸宅は、白熱灯の明かりで闇夜に浮かび上がっている。  宵を裂く光はまぶしいが、どこか恐ろしく感じた。だが、そう思う心を顔に出せない。八年前から、ずっと。喜び、怒り、悲しみ、楽しさ。自分は全ての感情を失っている。 「怖いだなんて、もう思うことはないはずなのにね」  家屋のまばゆさから目を背け、立ち上がろうとしたそのとき――  かさり、と藪が鳴る。足下に視線をやれば、低木の茂みから一匹の蛇が這い出てくるのが見えた。 「こがね」  つけた名を呼べば、縞模様の薄い蛇がこちらを見上げる。そのまなこは、金。鱗のある体は漆黒で、二尺(60cm)ほどの長さだ。  普通の令嬢ならば、悲鳴を上げて逃げ出すなりするだろう。しかしもう何年も付き合いのある彼女は、こがねと名付けた蛇がとても大人しい、温厚な性格をしていることを知っていた。 「こちらにいらっしゃい」  柔らかな声で呼ぶと、賢い蛇は自分の後ろをついてくる。  いつの間にか草木たちの声は静まっていた。唯一の友達との対話に、彼らが入ってくることはない。  縁側に腰かけ、こがねが上ってくるのを待つ。やや間を置き、友人は板敷きの上で身を丸めた。真鶴(まつる)へ寄り添うように。 「あなたの目は本当に、綺麗。お月さまみたいね」  蛇と語る術を持たないながら、優しく声をかける。離れに使用人すらいないことを、こがねも知っているのだろう。すでに景色の一部となってこちらを見ていた。  シマヘビが変異したカラスヘビなのかとも真鶴(まつる)は思うが、瞳が金というのは珍しい。 「……明日はお姉さまたちの祝言(しゅうげん)があるの。あなたもどうか祝ってあげて」  こがねが僅かにうなずく。 「ありがとう。お姉さまは絶対に、とても素敵な花嫁さんになるわ。お母さまにも見せてあげたかった」  ため息をつくと、まるで「気を落とすな」と言わんがばかりに、こがねは体を伸ばす。そしてそのまま真鶴(まつる)の太股へ、頭を乗せてきた。 「……こんなわたしでもね、まだ、寂しいと思う心はあるのかもしれない」  死んだ母の代わりに、厳しくも優しく自分の面倒を見てくれていた姉が、明日、(とつ)ぐ。そうなれば父は、(めかけ)とその息子を屋敷に住まわせるだろう。真鶴(まつる)を置き去りにしたままで。 「わたしは古野羽(このは)家の出来損ない。仕方がないわ」  家伝の力も使えない役立たずの未来は、どんな想像をしても見えてはこない。 『真鶴(まつる)や』  こがねを撫でようとした刹那、(かし)の木の思念が頭の中に響く。 『我らはいつでも、お前の味方であろう』 「じいや?」  返答は、ない。  真鶴(まつる)は庭の中心にそびえ立つ巨木を見つめた。他の木や草の葉も風にそよぐだけで、相変わらず無言だ。  こがねと会っているときに草木が話しかけてくるのは、今までになかった。  いつもと違う雰囲気に、どこか戸惑う。  それでも真鶴(まつる)には何もできず、こがねの頭を撫でて月を見る。  蓄音機からの音楽が、場違いなほど明るく、耳に入りこんできていた。
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