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遅れたというのに、ふゆ音は堂々としたものだ。しかも彼女は真鶴に見向きもせず、ハナミの横へとしとやかに座る。
「よくも遅刻して、悪びれた様子一つもないもんだねぇ」
「女には支度がかかりますの。それを捨てたハナミ、あなたにはわからないでしょうけど」
「減らず口を叩くもんだ。今ここで食ってやってもいいんだけど、オレは」
にたり、とハナミは笑う。長い犬歯を剥き出しにするように。
二人の険悪な情調を止めたのは、誰でもなく加賀男だ。
「そこまでにしろ、二人とも。よくきた、ふゆ音」
「加賀男さまのためならば」
嬉しそうに微笑むふゆ音に、唾を吐きかけるような勢いで、らんは忌々しげな表情を見せた。
「貴様は相変わらず無作法な蜘蛛だな。星帝さまを名前呼びなどと」
「禁則事項ではございませんでしょうに。犬神、あなたはただ、羨ましいのでは?」
「小娘程度が……」
らんがこぶしを握り締めたのを、真鶴は見る。今にも一触即発といった雰囲気だ。
「落ち着けといったはず。ここで殺気を出すことは禁じている」
「ほんに、ほんに。まっこと穏やかではないのォ」
加賀男と銀冥の言葉に、三者の間に流れた敵意のようなものが消え去っていく。
肩を軽くすくめたふゆ音が、笑みを浮かべたまま口を開いた。
「それで? 話はどこまで進みましたの?」
「人柄か、能力か、よ。あの娘、花と念話まではできておる」
「ま、いつの間にかしら。……ですが長雅花はまだ、咲かせたとは聞いてませんわね」
流し目で見つめられ、真鶴はそれでも背筋を伸ばしたまま、視線を受け止める。
冷たい瞳だった。憎悪も怨念も通り越し、無価値なものを見るような目だ。
(これならまだ、前の方がましだったかもしれないわ)
背筋が自然と総毛立つ。だがここで、弱い自分をさらけ出すにはいかない。手の震えをこらえ、なんとか微かにうなずいた。
「ふゆ音さまの仰るとおりです。長雅花は未だ咲かせられておりません」
「十の頃合いだったな、確か。裏華族のものが祝貴品を生み出せるようになるのは」
「はい、らんさま。そのとおりです」
「アンタは十八だっけか。オレたちにとって八年ってのは短いけどさ。人の身なら長く感じるくらいの年月だよなぁ」
「この先、開花させられるか否か。中途半端なものを星帝どのの側に置くわけにはいかぬ」
銀冥が天を仰ぐのを見て、真鶴は膝に置いた手を軽く、握る。
やはり、長雅花――祝貴品を作り上げることができていない自分は、加賀男と共にいられないのか。
歯がゆさに、唇を真一文字に結んだ、そのとき。
「長い目で見守る、というのも必要なのではありませんの? 真鶴さんは人の子なのですもの。わたくしたちと時の流れが違って当然」
助け船を出したのは、誰であろうふゆ音だ。
突然救いの手を差し伸べられた気がして、真鶴は思わず目を見張る。
「期間を設けて、それまでに長雅花を開花させることができたなら。皆さまも納得するものだと思いますわ、わたくし」
「期間、か。なるほど。珍しくまともなことをいうな、土蜘蛛」
「ふむん、それであるならば。まあ、許せるであろうか」
「どうしたの、アンタ。ずいぶんしおらしいじゃないのさ」
らんと銀冥がうなずく中、怪訝な顔でハナミが疑問をぶつけた。
「失礼な夜叉鬼ですこと。わたくしはただ、加賀男さまの幸せを願うだけ」
「さて、どうだかね」
「期間はまた後で設けるとして」
ハナミを無視したふゆ音が、真鶴を見つめる。感情が読み取れない、底知れない光がその瞳に宿っていた。
「お約束なさい、真鶴さん。決して加賀男さまを裏切らないと。誠実であると。幸せにすると」
「は、い。それは……もちろんです」
気配に圧倒され、しかしやっと出た言葉は本心からのものだ。
加賀男の笑顔を大切にしたい。傍らにいて、もらった以上の優しさと心遣いを与えたい。そう思ってしまうのは、欲張りなことなのだろうか。
疑問に思う真鶴をよそに、ふゆ音は首肯することもなく視線を三人の長へ、それぞれ送った。
「本人もこういっておりますわ。加賀男さまが望まれることならば、わたくしたちもそれに応える、支えるのが長の勤めではなくて?」
ふゆ音が笑みを消し、畳みかける。
「仕方ない。この場は一度、収拾するとしよう」
「犬神のいうとおりじゃのォ。祝言の前に、長雅花を咲かせるまでの期間……それを設けるのは、また別の日でもいいであろ」
「そうだねぇ。オレもそれで構わないよ」
らんたちは一斉に加賀男を見た。彼は笑みを浮かべることなく頭を下げる。
「協力、感謝する」
「やめておくれよ、星帝の旦那。世話になってんのはオレたちなんだからさ」
「とはいえ、まだ完全に真鶴嬢を認めたわけではありません」
「ほんに、ほんに。まあ、またの機会に集まることにしようぞ」
あくびをする銀冥は眠たそうだ。現在は暮れ六つの鐘が鳴って、少しばかり。きっと腹も空いたのだろう。
銀冥の様子を見たのか、加賀男がうなずく。
「また後日に会同を開こう。今日はみな、苦労だった」
「は。それでは我らはこれにて」
「やっとこさ食事ができるってもんだ。オレ、もう腹が空いちまったよ」
「ではでは、星帝どの」
「ああ。気をつけて帰ってくれ」
加賀男がゆっくり立ち上がると、長たちもそれにならう。真鶴も静かにその場で立ち、深く一礼をした。
それにしても、ふゆ音の心変わりとあの目付き――真鶴は退室していく長たちに礼をしながら思う。
言葉では助けてくれた。それは事実だ。だが、何か含みがあるような気がして、素直に受け止めることができない。
(わたしの心が狭量なのかしら……)
らんと銀冥、そしてハナミが退室するのを確認してから、そっとおもてを上げる。
「今日は助けられた。感謝する、ふゆ音」
「加賀男さまのためですもの。ねえ、真鶴さん」
ふゆ音はまだ部屋にいた。加賀男の側におもむき、かぶりを振っている。
「は、はい。ふゆ音さまにはなんとお礼を申し上げればいいか」
「加賀男さま、お願いがありますの」
真鶴を無視して、彼女はあからさまにしなを作った。
「なんだろうか」
「実はここ最近、満月が近いためか体の調子が悪いのですわ。霊気が昂る、というよりも上手く調節ができず……」
着物の袖で顔半分を覆う彼女は、確かに少しばかり青ざめている。
「天岩戸を使うか?」
「いいえ。霊気の減少だと思いますの。できることならば、星帝である加賀男さまに直接、霊気の調節を、と」
加賀男が困った様子で真鶴の方を見てくる。
「君の城へ行くことに問題はないが……」
あ、と真鶴は瞬時に理解した。
たぶん、彼は真鶴を、この屋敷に一人にすることを心配してくれている。離れることを、惜しんでくれている。伝わる思いに、自然と胸が温かくなるようだ。
「あなたさま、どうぞふゆ音さまの容体を診てあげて下さい。何かあったら大変です」
「真鶴さんもこういって下さってますし……お願いしますわ、加賀男さま」
「わかった。先に行ってくれ。あとから向かう」
「では、蜘蛛車でお待ちしておりますわね」
唇をつり上げたふゆ音が加賀男から離れ、真鶴の横を通り過ぎる。
彼女は何もいわなかった。嫌味や罵詈の一つすら。
扉が閉まり、真鶴はようやく一息つくことができる。胸元を押さえ、ほっとため息をついた。
「……すまない、君を一人にしてしまう」
「気になさらないで下さい。大切なお仕事なのでしょうから」
「ああ。霊気の調節ができるのは、天岩戸以外で俺しかいない」
近付いてきた加賀男が、真鶴の頬を優しく撫でた。
「一日くらいで帰ってくる。君と離れるのは、寂しいが」
「あなたさま……わたしもです」
手のひらに頬擦りしてささやく真鶴に、加賀男は穏やかに微笑んだ。
「ツキミは置いていく。二人でゆっくり羽を伸ばすといい」
「いいえ、ちゃんとわたしの仕事をします。お帰りを待ち侘びておりますね」
「うん……いってくる、真鶴」
「お気をつけて」
静かに、真鶴の頬から手が離れた。
加賀男を見送るため、真鶴は彼の後をついて外に出る。
玄関の近くには、巨大な蜘蛛を馬代わりにした輿が止められていた。
まるで名残惜しい、といわんがばかりにこちらを見る加賀男へ礼をして、平気なふりをよそおう。
本当は、もっとずっと一緒にいたい。だが、星帝としての加賀男の仕事を妨げるのは、それこそわがままというものだ。
(これが寂しい、ということ)
蜘蛛車を見送り、すっかり静まった玄関で一人、目を閉じる。
冷たい風が髪をさらっていった。ほつれた毛を手で押さえ、屋敷へと戻る。
その夜、真鶴は一人で床についた。実家にいた頃は当然のように一人だったのに、今は胸がざわつく。加賀男がいないだけで、抱き締められないだけで、よく眠れない。
虫一つの声もしない庭を見ながら、ただ、まどろみが来るのを待った。
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