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――次の日、真昼九つになっても加賀男は戻ってきていない。
空に浮かぶは金色の小望月。掃除も洗濯も終えた真鶴は、彼から借りた懐中時計を眺め、自室でぼうっとしていた。
「天乃さま……まだかしら」
先程から同じ言葉と嘆息ばかりが漏れる。
一日くらいで帰ってくる、と加賀男はいったはずだ。まだ半日ちょっとしか経っていない。食事のときも落ち着かず、ツキミに心配された。
太股に首を載せ、気持ちよさそうに目を細めているこがねをおざなりに撫でつつ、時計の音に集中する。一分一秒が、とても長い。
加賀男がふゆ音といることを考えただけで、胸が靄がかる。この気持ちもまた知らないものだ。
「待つ身が辛いと昔の人はよく言ったものだわ」
呟いて、また大きなため息を漏らした直後。
「ひいさま、ひいさま」
ふすま越しにツキミが話しかけてきた。
「ツキミさん、どうしたんですか?」
「みつやさんがきてますの。美味しい食べ物の匂いがしますの」
「みつやさんが? 今いきますね。応接室に案内をお願いします」
「はいなー」
真鶴はこがねを見る。声で起きたのだろう、彼もまた金色の瞳をこちらに向けていた。
「隠れて見回りをお願いできる? こがね」
頭をくすぐりながらそういえば、こがねは大人しく真鶴の側から離れ、首をもたげた。
小紋の着物の裾を払い、懐中時計を帯に入れて立ち上がる。
すでに道のりも、間取りも頭の中に入っていた。迷うことなく応接室へとおもむく。
「真鶴です、失礼します」
一声かけて中に入れば、お茶を運んだらしきツキミが、みつやの側で目を輝かせているのがわかった。
「やあ、真鶴ちゃん。こんにちは」
「こんにちは、みつやさん」
「美味しそうな匂いがしますの! 何持ってきたんですの?」
「ツキミちゃん、相変わらず鼻がいいねえ。ちょっと待っていてくれたまえ」
苦笑したみつやが、机の上に置いていた風呂敷をほどく。中から出てきたのは、パンだ。しかも十個はある。
「木村のジャムパンだよ。まあ、先んじてのお祝いにと思ってね。現世で買ってきたんだ」
「お祝い、ですか?」
パンを目の前に喜ぶツキミをさておき、真鶴はみつや近くの椅子に座った。
「加賀男と祝言を挙げるんだろう? あと念話ができたって。それの、お祝い」
「ま、まだ、正式に長の皆さまに認められたわけでは……」
「あれ、そうなの? 鬼の花街じゃそう聞いたけど」
「とりあえずは、保留です」
「そうだったんだねえ。ってツキミちゃん、よだれよだれ。垂れそう」
「はっ……失礼しましたですの!」
ツキミが慌てて手拭いで口元をぬぐう。
待ちきれない様子の彼女へパンを一つ手渡しし、みつやは扉の方を見た。
「加賀男は?」
「ふゆ音さまのところへ、霊気の調節をしに」
「あの女のとこに? よくいかせたね」
「お仕事ですから。星帝というお立場を邪魔するわけにはいきません」
「仕方ない。パンは全部平らげてしまおう。ツキミちゃん、僕たちは一個でいいから、あとは全部食べていいよ」
「いただくですの! ひいさま、お部屋で食べていいですの?」
「はい。ゆっくり休んで下さいね」
「じゃあ、これ。真鶴ちゃんの分」
「いただきます、みつやさん」
みつやは自分と真鶴の分のパンをとり、残りを風呂敷ごとツキミに渡す。
「ひいさまのお茶もありますの。ごゆっくりどーぞ」
一つ、可愛らしくお辞儀をし、ツキミは鼻歌交じりに退室していった。
ジャムパンを少し囓り、飲みこんだみつやがカーテンの下りた窓を見つめる。
「それにしても霊気の調節か。明日は満月だからね。僕たち裏華族の人間もそうだけど、見目を変えるものや体調を崩すものもいておかしくはない」
「わたしは花と念話ができて、はじめての満月を迎えるのです。一体、どんな髪色になるか……不安で」
「加賀男にどう思われるか心配してるのかい?」
「はい……」
「髪がどんな色になっても、あいつなら褒めそやしそうだけど」
みつやの言葉に何も返答ができず、パンを一口、食べた。アンズの甘酸っぱさが口腔を満たし、香りが鼻から通り抜けていく。
「みつやさんも、寿々家の血を引いてらっしゃるなら、目と髪の色が変わるのですよね?」
「髪は紫紺。目は紫に変わるよ。急患がいるときは、非常に困る」
「普通一般の方が見たら、驚いてしまうでしょうね」
「まあ、満月の夜は基本的に休んでるよ。加賀男の様子を見なくちゃいけないし」
「天乃さまが、何か?」
「え、何、あいつまだ真鶴ちゃんに話してないの?」
「はい、聞いていません。どこか体調を悪くされるのでしょうか」
「うーん……」
パンを食べ終えたみつやが、こめかみを指で叩いて難しそうな顔を作った。机にあるツバキの水差しを揺らす勢いで、真鶴は身を乗り出す。
「教えて下さい、みつやさん」
「……末路衣」
「え?」
渋々、といった様子でみつやは口を開いた。真摯な顔つきで。
「まつろわぬものたちはね、満月で力を暴走させてしまうことがあるんだ。それが、末路衣。天岩戸ってところで休めば大抵は治るけど、加賀男の場合、そうはいかない」
「何か、もっとひどい症状が……?」
「万が一、末路衣で力を暴走させたとき、天岩戸を使おうとしてもだめなんだ。逆に霊気を全て吸い取られる。天照大御神が隠れたとされる場所とは、加賀男は相性が悪くてね」
「霊気を吸い取られる……死んでしまう、ということですよね?」
「それは知ってるんだね。そのとおり。だからぼくが結界を張る役目としているんだ」
「よかったです。みつやさんはそのために」
対処法がある事実に、真鶴は胸を撫で下ろす。
「うん。とはいえ、加賀男も今まで末路衣をしたことなんてないから、大丈夫。酒を飲まない限りはね」
「お酒、ですか。確かに今まで飲んだ姿は見たことがないです」
「代わりに甘いものを持ってきたわけだけど。それにしてもあいつ、遅いなあ」
と、みつやが机に突っ伏した、ときだ。
『真鶴、何か変だよ』
「ツバキのお方……?」
真鶴がツバキから思念を受け取った直後、それは訪れた。
館全体が微かに揺れる。
「地震?」
「これって……」
顔を上げる二人の前で、ぱらぱらと天井から埃が舞い散った。途端、全ての明かりが消え去る。たちまち暗闇が辺りを制した。
「えっ……」
「ひっ!」
みつやが大きな悲鳴を上げる。次いで、物音。どうやら椅子から転げ落ちたようだ。
カーテンを下ろしていたせいで、月明かりも入らない。
「ツキミさん、ツキミさん? 鬼火は……」
「……い。怖い、怖いっ」
暗闇に目が慣れない中、立ち上がる真鶴をよそに、みつやが声と息を荒げた。
「みつやさん、大丈夫ですか? どうしましょう……」
ツキミの力が、なんらかの理由で消えたのだろうか。鬼火は必ず一つ、どこの部屋にも残されているはずなのに、今はそれすらない。
「怖い、助けて……! いやだ、暗いのはいやだっ」
「みつやさん、落ち着いて下さい。大丈夫です、わたしがいます」
真鶴はなだめるようにささやき、みつやの近くへとしゃがみこんだ。その刹那――
「母様……!」
「え?」
呟くみつやに、強い力で抱き締められた。彼はそのまま真鶴をかき抱き、震える手に力をこめる。その息はとてつもなく荒く、全身から汗が噴き出していた。
「かあさま、怖い……暗いのはいやだ……怖いのは、いやだっ……!」
「みつやさん……大丈夫、大丈夫。一人じゃありませんよ」
そっと、こがねにそうするように、真鶴が頭を撫でた途端だ。
突然電灯が復活する。その光は強烈で、思わず真鶴は一瞬、瞳を閉じてしまった。
まぶたを開ける。みつやはまだ目をつぶったまま自分を抱き締め、離そうとしない。
抗うこともできない力の入れように、真鶴がもう一度口を開きかけたそのとき――
「何を、している」
強張った声がして、顔を扉の方へ向けた。
そこには、恐ろしいほど無表情の加賀男が、いた。
「あなたさま」
「何をしていると、聞いている」
「これは、あの」
「ま、これはひどいところを。いいえ、あなたたちにとってはお楽しみだったのかしら」
加賀男の後ろから、ふゆ音の声が届く。嘲りと侮蔑をこめた声音が。
「違います、これは」
「真鶴さん、誠実であれといったはずですわ。なのに、他の殿方と抱き合っているなんて。これは加賀男さまに対する裏切りも同然」
「……君と俺は、同じ思いだと……そう感じていたのに」
加賀男が、力なく笑った。自嘲するような笑みに、真鶴は必死で首を横に振る。
「あなたさま、聞いて下さい。誤解なんです、違うのです」
「黙りなさいな、小娘! 加賀男さまのお心を傷付けておきながら、よくも!」
ふゆ音の叱咤に、びくりと身が震えた。
ようやく光に気付いたのだろう、みつやも目を開き、はっとした表情を作る。
「真鶴ちゃん……か、加賀男っ。誤解! これは――」
「もう、いい。二人とも現世に戻れ」
失望と傷心、その二つをにじませた声で、加賀男がゆらりと手を振るった。
「君の幸せがみつやにあるというのなら、それでいい」
「違うのです、あなたさま!」
「……君は姉君の元に帰れ。話は、つけておく」
どうして、と真鶴は思う。
どうしてこんなときに、こんな大事なときに、自分は表情一つ変えられないのだろう。
焦りも何も、届くことはない。
指二本の刀で加賀男が空気を切り裂いた、刹那。
強烈な目眩がして、真鶴は意識を手放す。
その中で、まぶたが下りるさなか――ツバキの花がぽとりと、落ちるのを見た。
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