第四幕:逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに

5/7
前へ
/42ページ
次へ
 ――次の日、真昼九つ(12時)になっても加賀男(かがお)は戻ってきていない。  空に浮かぶは金色の小望月。掃除も洗濯も終えた真鶴(まつる)は、彼から借りた懐中時計を眺め、自室でぼうっとしていた。 「天乃(あまの)さま……まだかしら」  先程から同じ言葉と嘆息ばかりが漏れる。  一日くらいで帰ってくる、と加賀男(かがお)はいったはずだ。まだ半日ちょっとしか経っていない。食事のときも落ち着かず、ツキミに心配された。  太股に首を載せ、気持ちよさそうに目を細めているこがねをおざなりに撫でつつ、時計の音に集中する。一分一秒が、とても長い。  加賀男(かがお)がふゆ()といることを考えただけで、胸が靄がかる。この気持ちもまた知らないものだ。 「待つ身が辛いと昔の人はよく言ったものだわ」  呟いて、また大きなため息を漏らした直後。 「ひいさま、ひいさま」  ふすま越しにツキミが話しかけてきた。 「ツキミさん、どうしたんですか?」 「みつやさんがきてますの。美味しい食べ物の匂いがしますの」 「みつやさんが? 今いきますね。応接室に案内をお願いします」 「はいなー」  真鶴(まつる)はこがねを見る。声で起きたのだろう、彼もまた金色の瞳をこちらに向けていた。 「隠れて見回りをお願いできる? こがね」  頭をくすぐりながらそういえば、こがねは大人しく真鶴(まつる)の側から離れ、首をもたげた。  小紋(こもん)の着物の裾を払い、懐中時計を帯に入れて立ち上がる。  すでに道のりも、間取りも頭の中に入っていた。迷うことなく応接室へとおもむく。 「真鶴(まつる)です、失礼します」  一声かけて中に入れば、お茶を運んだらしきツキミが、みつやの側で目を輝かせているのがわかった。 「やあ、真鶴(まつる)ちゃん。こんにちは」 「こんにちは、みつやさん」 「美味しそうな匂いがしますの! 何持ってきたんですの?」 「ツキミちゃん、相変わらず鼻がいいねえ。ちょっと待っていてくれたまえ」  苦笑したみつやが、机の上に置いていた風呂敷をほどく。中から出てきたのは、パンだ。しかも十個はある。 「木村のジャムパンだよ。まあ、先んじてのお祝いにと思ってね。現世(うつしよ)で買ってきたんだ」 「お祝い、ですか?」  パンを目の前に喜ぶツキミをさておき、真鶴(まつる)はみつや近くの椅子に座った。 「加賀男(かがお)祝言(しゅうげん)を挙げるんだろう? あと念話ができたって。それの、お祝い」 「ま、まだ、正式に(おさ)の皆さまに認められたわけでは……」 「あれ、そうなの? 鬼の花街(かがい)じゃそう聞いたけど」 「とりあえずは、保留です」 「そうだったんだねえ。ってツキミちゃん、よだれよだれ。垂れそう」 「はっ……失礼しましたですの!」  ツキミが慌てて手拭いで口元をぬぐう。  待ちきれない様子の彼女へパンを一つ手渡しし、みつやは扉の方を見た。 「加賀男(かがお)は?」 「ふゆ()さまのところへ、霊気の調節をしに」 「あの女のとこに? よくいかせたね」 「お仕事ですから。星帝(せいてい)というお立場を邪魔するわけにはいきません」 「仕方ない。パンは全部平らげてしまおう。ツキミちゃん、僕たちは一個でいいから、あとは全部食べていいよ」 「いただくですの! ひいさま、お部屋で食べていいですの?」 「はい。ゆっくり休んで下さいね」 「じゃあ、これ。真鶴(まつる)ちゃんの分」 「いただきます、みつやさん」  みつやは自分と真鶴(まつる)の分のパンをとり、残りを風呂敷ごとツキミに渡す。 「ひいさまのお茶もありますの。ごゆっくりどーぞ」  一つ、可愛らしくお辞儀をし、ツキミは鼻歌交じりに退室していった。  ジャムパンを少し囓り、飲みこんだみつやがカーテンの下りた窓を見つめる。 「それにしても霊気の調節か。明日は満月だからね。僕たち裏華族(うらかぞく)の人間もそうだけど、見目を変えるものや体調を崩すものもいておかしくはない」 「わたしは花と念話ができて、はじめての満月を迎えるのです。一体、どんな髪色になるか……不安で」 「加賀男(かがお)にどう思われるか心配してるのかい?」 「はい……」 「髪がどんな色になっても、あいつなら褒めそやしそうだけど」  みつやの言葉に何も返答ができず、パンを一口、食べた。アンズの甘酸っぱさが口腔を満たし、香りが鼻から通り抜けていく。 「みつやさんも、寿々(すず)家の血を引いてらっしゃるなら、目と髪の色が変わるのですよね?」 「髪は紫紺(しこん)。目は紫に変わるよ。急患がいるときは、非常に困る」 「普通一般の方が見たら、驚いてしまうでしょうね」 「まあ、満月の夜は基本的に休んでるよ。加賀男(かがお)の様子を見なくちゃいけないし」 「天乃(あまの)さまが、何か?」 「え、何、あいつまだ真鶴(まつる)ちゃんに話してないの?」 「はい、聞いていません。どこか体調を悪くされるのでしょうか」 「うーん……」  パンを食べ終えたみつやが、こめかみを指で叩いて難しそうな顔を作った。机にあるツバキの水差しを揺らす勢いで、真鶴(まつる)は身を乗り出す。 「教えて下さい、みつやさん」 「……末路衣(まつろい)」 「え?」  渋々、といった様子でみつやは口を開いた。真摯な顔つきで。 「まつろわぬものたちはね、満月で力を暴走させてしまうことがあるんだ。それが、末路衣(まつろい)天岩戸(あまのいわと)ってところで休めば大抵は治るけど、加賀男(かがお)の場合、そうはいかない」 「何か、もっとひどい症状が……?」 「万が一、末路衣(まつろい)で力を暴走させたとき、天岩戸(あまのいわと)を使おうとしてもだめなんだ。逆に霊気を全て吸い取られる。天照大御神(アマテラスオオミカミ)が隠れたとされる場所とは、加賀男(かがお)は相性が悪くてね」 「霊気を吸い取られる……死んでしまう、ということですよね?」 「それは知ってるんだね。そのとおり。だからぼくが結界を張る役目としているんだ」 「よかったです。みつやさんはそのために」  対処法がある事実に、真鶴(まつる)は胸を撫で下ろす。 「うん。とはいえ、加賀男(かがお)も今まで末路衣(まつろい)をしたことなんてないから、大丈夫。酒を飲まない限りはね」 「お酒、ですか。確かに今まで飲んだ姿は見たことがないです」 「代わりに甘いものを持ってきたわけだけど。それにしてもあいつ、遅いなあ」  と、みつやが机に突っ伏した、ときだ。 『真鶴(まつる)、何か変だよ』 「ツバキのお方……?」  真鶴(まつる)がツバキから思念を受け取った直後、それは訪れた。  館全体が微かに揺れる。 「地震?」 「これって……」  顔を上げる二人の前で、ぱらぱらと天井から埃が舞い散った。途端、全ての明かりが消え去る。たちまち暗闇が辺りを制した。 「えっ……」 「ひっ!」  みつやが大きな悲鳴を上げる。次いで、物音。どうやら椅子から転げ落ちたようだ。  カーテンを下ろしていたせいで、月明かりも入らない。 「ツキミさん、ツキミさん? 鬼火は……」 「……い。怖い、怖いっ」  暗闇に目が慣れない中、立ち上がる真鶴(まつる)をよそに、みつやが声と息を荒げた。 「みつやさん、大丈夫ですか? どうしましょう……」  ツキミの力が、なんらかの理由で消えたのだろうか。鬼火は必ず一つ、どこの部屋にも残されているはずなのに、今はそれすらない。 「怖い、助けて……! いやだ、暗いのはいやだっ」 「みつやさん、落ち着いて下さい。大丈夫です、わたしがいます」  真鶴(まつる)はなだめるようにささやき、みつやの近くへとしゃがみこんだ。その刹那―― 「(かあ)様……!」 「え?」  呟くみつやに、強い力で抱き締められた。彼はそのまま真鶴(まつる)をかき抱き、震える手に力をこめる。その息はとてつもなく荒く、全身から汗が噴き出していた。 「かあさま、怖い……暗いのはいやだ……怖いのは、いやだっ……!」 「みつやさん……大丈夫、大丈夫。一人じゃありませんよ」  そっと、こがねにそうするように、真鶴(まつる)が頭を撫でた途端だ。  突然電灯が復活する。その光は強烈で、思わず真鶴(まつる)は一瞬、瞳を閉じてしまった。  まぶたを開ける。みつやはまだ目をつぶったまま自分を抱き締め、離そうとしない。  抗うこともできない力の入れように、真鶴(まつる)がもう一度口を開きかけたそのとき―― 「何を、している」  強張った声がして、顔を扉の方へ向けた。  そこには、恐ろしいほど無表情の加賀男(かがお)が、いた。 「あなたさま」 「何をしていると、聞いている」 「これは、あの」 「ま、これはひどいところを。いいえ、あなたたちにとってはお楽しみだったのかしら」  加賀男(かがお)の後ろから、ふゆ()の声が届く。嘲りと侮蔑(ぶべつ)をこめた声音が。 「違います、これは」 「真鶴(まつる)さん、誠実であれといったはずですわ。なのに、他の殿方と抱き合っているなんて。これは加賀男(かがお)さまに対する裏切りも同然」 「……君と俺は、同じ思いだと……そう感じていたのに」  加賀男(かがお)が、力なく笑った。自嘲するような笑みに、真鶴(まつる)は必死で首を横に振る。 「あなたさま、聞いて下さい。誤解なんです、違うのです」 「黙りなさいな、小娘! 加賀男(かがお)さまのお心を傷付けておきながら、よくも!」  ふゆ()の叱咤に、びくりと身が震えた。  ようやく光に気付いたのだろう、みつやも目を開き、はっとした表情を作る。 「真鶴(まつる)ちゃん……か、加賀男(かがお)っ。誤解! これは――」 「もう、いい。二人とも現世(うつしよ)に戻れ」  失望と傷心、その二つをにじませた声で、加賀男(かがお)がゆらりと手を振るった。 「君の幸せがみつやにあるというのなら、それでいい」 「違うのです、あなたさま!」 「……君は姉君の元に帰れ。話は、つけておく」  どうして、と真鶴(まつる)は思う。  どうしてこんなときに、こんな大事なときに、自分は表情一つ変えられないのだろう。  焦りも何も、届くことはない。  指二本の刀で加賀男(かがお)が空気を切り裂いた、刹那。  強烈な目眩がして、真鶴(まつる)は意識を手放す。  その中で、まぶたが下りるさなか――ツバキの花がぽとりと、落ちるのを見た。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

209人が本棚に入れています
本棚に追加