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※ ※ ※
「……る。真……、真鶴」
クビキリギスが鳴く声。自分を呼ぶ声。その二つがただただ谺している。
(あなた、さま……?)
違う、と、真鶴はぼんやりまぶたを開けた。
「気が付きましたか、真鶴」
顔を覗きこむのは、難しく、それでも労るような眼差しをした女性、トウ子だ。
「お姉さま……」
真鶴のささやきにトウ子は一つ、うなずく。トウ子が居住まいを正せば、真鶴の視界に知らない天井が入ってきた。
「ここ。わたし……ここは、どこ」
「我が家、陽月家の客間です。突然あなたが中庭に現れたので、驚きましたよ。長く眠っていたようですが、体の具合はどうですか」
「中庭……」
どうやら、布団に寝かされているようだ。ぼんやりと横を見る。祝言のときに眺めた日本庭園が広がっている。
「あなたは天乃どのの元に行ったはず。そう、輝広さまから聞いていたのですが」
「天乃さま……」
問われれば、段々と、焼き付いた記憶が戻ってきた。
(君は姉君の元に帰れ)
「っ!」
沈痛な声が脳裏に響き、咄嗟に上半身を起こす。
手が、体が、震えていた。じんわりとした冷や汗が背中を伝う。
「わたし……わたし」
「真鶴、一体何があったのです」
心配そうな声音に、ただかぶりを振った。思い出したくない。加賀男の失望にあふれた、悲しげな笑みを思い返したくはない、その一心で。
胸がざわつく。だが、おもてには何も出てこないままだ。
「奥様、失礼いたします。旦那様がお呼びです」
「今、まいります。真鶴、白湯を置いてあります。少し落ち着きなさい」
トウ子は優しく茶色の瞳を緩めると、着物の襟を正して室外へと出て行った。
残された真鶴は布団を握り締め、小さく頭を左右に振る。
「天乃さま……違うの、違うのです……」
どうして信じてもらえなかったのか。いや、それより何があったのか。
ツキミやみつやの身を案ずる思考など、ない。加賀男に突き放された事実、それだけが胸を押し潰すように去来している。
虫の声がうるさい。のろのろと顔を上げ、もう一度庭を見た。
白い小望月が姿を見せている。大きな月――それは、加賀男と共にはじめて影ヶ原へおもむいたときを連想させた。
優しく自分を抱き留めてくれた腕。微笑み。二人で眺めた花火。
「いや……」
強張った声。悲しげな自嘲。縁切りの、言葉。
「こんなの、いや……」
繰り返し繰り返し、加賀男との記憶がよみがえる。
膝を抱え、涙も出ないまぶたを柔らかい布団へこすりつけた。
あのとき、泣けば許されたのだろうか。笑い飛ばせればよかったのだろうか。哀しみで、真摯に訴えればよかったのだろうか。
だが、それらを行うすべを、真鶴は持っていなかった。
答えは出ない。答えを出してくれる相手は、現世にいない。
「帰りたい」
影ヶ原にと、そう思う。しかしそこへいく方法すら、知らなかった。
帰ったところで、今の自分に何ができるというのだろう。感情もおもてに出せないまま、言葉だけで信じてもらうには、まだ一つも二つも足りないものがある気がした。
「……どうして、こんなことに」
嘆いてみてもどうにもならない。こんなときでも喉が渇く身が、恨めしかった。
側に置かれた白湯を飲もうと、顔を上げたときだ。
月光の差さない文机の影――そこに、こがねがいた。
「こがね……」
馴染みのある友の姿に、少しだけ胸を撫で下ろす。
「こがね、お願い。天乃さまに伝えて。誤解だって。みつやさんとは何もないって」
そういい、立ち上がって近付いた刹那。
シャッ、と――牙を向けられた。驚き、衝撃で真鶴はよろめく。
「こ、がね?」
こがねは、怒っている。はじめて負の感情を友から向けられた事実は、真鶴の思考を真っ白に染めるに十分だった。
金の瞳に宿る、憎悪と悲しみ。絶望と怒り。
まるでこれが最後だといわんがばかりに、彼はとぐろを巻いて真鶴の前から消え去った。
「こがね」
名を、もう一度呼ぶ。
「こがね……」
影にはもう、何もない。こがねの姿など、なくなっていた。
「あ、ああ」
黒い髪を、くしゃりと握る。その勢いで蝶のかんざしが畳に落ちた。
形見のかんざしを拾うこともできず、その場に膝を突く。
「こがね……あなたまで、わたしを」
両腕を垂らし、こがねがいた暗闇を見つめた。
加賀男からは縁を切られ、友には嫌われ、これから自分はどうしていけばいいのだろう。
独りが怖かった。強欲になった思いが、増幅していく孤独感を拒絶する。
「真鶴」
気付けば厳しい面持ちをしたトウ子が、ふすまを半分開けてこちらを見ていた。
「輝広さまからお話しがあります」
「……」
「しっかりなさい。寿々家のみつやさんも来ています」
「会いたくない」
子どもが駄々をこねるように、首を振る。
トウ子が大きなため息をついた。真鶴へ近付き、そっと肩に手を載せる。
「あなたはこのままでいいのですか。真実も知らず、変わらぬままで、いいと?」
「真実……?」
「わたくしも聞いて驚きました。あなたの昔に、陽月家が関与していたとは」
それはどういう意味だろう、とわからず、真鶴は呆けたように姉を見た。
トウ子が一つ、うなずく。
「全てを聞いて納得し、それから何かを決めても遅くないのではありませんか? 許すことも、受け入れることも、みな、あなた次第なのですから」
「わたし、次第」
「真実はときとして人を傷付けます。それでも、一度底に落ちた身なれば、あとは這い上がっていくだけでしょう」
「何か、怖い」
トウ子は笑む。柔らかい微笑に、真鶴は口ごもった。
「怖いと思うことはね、人の身にあって正しい思いなのですよ。恐れを知らねば、誰かに優しくなどできません。厳しくも。あなたは今、羽化をしはじめています」
「……天乃さまにも、友にも嫌われました。今更変わったところで、何も」
「なりません。全てを知る権利と義務があなたにはあります」
厳しい声は、昔の姉を彷彿とさせた。そう、自分を見守っていたときと変わらない、立派な姿と。
トウ子のようにありたいと願ったはずだ。優しく、しっかりとした人間に。
真鶴はこくりと唾を飲む。
真実とやらが何かはわからない。怖い思いは相変わらずだ。それでも、今側にいてくれる姉の優しさが、厳しさが、自分の背中を後押しする。
「……わかりました」
例えどうなろうと、せめて理由を知ってから。トウ子のいうとおりだ。全てを決めるのは、きっとそのあとでも遅くない。
(真実を知って、何かしらの諦めがつくかもしれない)
目をつぶり、思ったあとにうなずいた。
「まいりましょう。ああ、ほら、かんざしまで落として」
「ごめんなさい、お姉さま」
乱れた髪を梳き、かんざしを挿してくれる姉の手が心地よい。
「わたくしのあとに。輝広さまの下へ案内します」
「はい」
「その必要はないよ、トウ子さん」
とても穏やかな声音が、ふすま越しに聞こえた。
「輝広さま」
「お邪魔かな。私もみつやどのも、どう入ったらいいかと悩んでいたものだからね」
「いいえ、輝広さま。入って下さって大丈夫です」
「それでは失礼するよ」
そういい、静かにふすまを開けたのは、二十代前半ほどの美青年だった。一本縛りにした長髪は、青みがかった黒だ。黒目も不思議と青みがかっており、神秘的な雰囲気がある。
陽月輝広――トウ子の夫は、糸目をより細めて軽く頭を下げた。
その後ろには、消沈した面影のみつやがいる。
「真鶴嬢、会うのははじめまして、だね。私が陽月家現当主、輝広。加賀男の兄だ」
「は、はじめまして」
真鶴は慌てて姿勢を直し、指を突いて頭を下げた。
「……君は、加賀男を恨むかもしれないよ」
「え?」
顔を上げた際、ぽつりとささやかれて困惑する。
「全てを話そう。私の知る全てを」
みつやとともに室内に入る輝広を見上げ、真鶴はもう一度、唾を飲みこんだ。
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