第四幕:逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに

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  ※ ※ ※ 「……る。真……、真鶴(まつる)」  クビキリギスが鳴く声。自分を呼ぶ声。その二つがただただ谺している。 (あなた、さま……?)  違う、と、真鶴(まつる)はぼんやりまぶたを開けた。 「気が付きましたか、真鶴(まつる)」  顔を覗きこむのは、難しく、それでも労るような眼差しをした女性、トウ子だ。 「お姉さま……」 真鶴(まつる)のささやきにトウ子は一つ、うなずく。トウ子が居住まいを正せば、真鶴(まつる)の視界に知らない天井が入ってきた。 「ここ。わたし……ここは、どこ」 「我が家、陽月(ひづき)家の客間です。突然あなたが中庭に現れたので、驚きましたよ。長く眠っていたようですが、体の具合はどうですか」 「中庭……」  どうやら、布団に寝かされているようだ。ぼんやりと横を見る。祝言(しゅうげん)のときに眺めた日本庭園が広がっている。 「あなたは天乃(あまの)どのの元に行ったはず。そう、輝広(てるひろ)さまから聞いていたのですが」 「天乃(あまの)さま……」  問われれば、段々と、焼き付いた記憶が戻ってきた。 (君は姉君の元に帰れ) 「っ!」  沈痛な声が脳裏に響き、咄嗟に上半身を起こす。  手が、体が、震えていた。じんわりとした冷や汗が背中を伝う。 「わたし……わたし」 「真鶴(まつる)、一体何があったのです」  心配そうな声音に、ただかぶりを振った。思い出したくない。加賀男(かがお)の失望にあふれた、悲しげな笑みを思い返したくはない、その一心で。  胸がざわつく。だが、おもてには何も出てこないままだ。 「奥様、失礼いたします。旦那様がお呼びです」 「今、まいります。真鶴(まつる)白湯(さゆ)を置いてあります。少し落ち着きなさい」  トウ子は優しく茶色の瞳を緩めると、着物の襟を正して室外へと出て行った。  残された真鶴(まつる)は布団を握り締め、小さく頭を左右に振る。 「天乃(あまの)さま……違うの、違うのです……」  どうして信じてもらえなかったのか。いや、それより何があったのか。  ツキミやみつやの身を案ずる思考など、ない。加賀男(かがお)に突き放された事実、それだけが胸を押し潰すように去来している。  虫の声がうるさい。のろのろと顔を上げ、もう一度庭を見た。  白い小望月(こもちづき)が姿を見せている。大きな月――それは、加賀男(かがお)と共にはじめて影ヶ原(かげがはら)へおもむいたときを連想させた。  優しく自分を抱き留めてくれた腕。微笑み。二人で眺めた花火。 「いや……」  強張った声。悲しげな自嘲。縁切りの、言葉。 「こんなの、いや……」  繰り返し繰り返し、加賀男(かがお)との記憶がよみがえる。  膝を抱え、涙も出ないまぶたを柔らかい布団へこすりつけた。  あのとき、泣けば許されたのだろうか。笑い飛ばせればよかったのだろうか。哀しみで、真摯に訴えればよかったのだろうか。  だが、それらを行うすべを、真鶴(まつる)は持っていなかった。  答えは出ない。答えを出してくれる相手は、現世(うつしよ)にいない。 「帰りたい」  影ヶ原(かげがはら)にと、そう思う。しかしそこへいく方法すら、知らなかった。  帰ったところで、今の自分に何ができるというのだろう。感情もおもてに出せないまま、言葉だけで信じてもらうには、まだ一つも二つも足りないものがある気がした。 「……どうして、こんなことに」  嘆いてみてもどうにもならない。こんなときでも喉が渇く身が、恨めしかった。  側に置かれた白湯(さゆ)を飲もうと、顔を上げたときだ。  月光の差さない文机(ふみづくえ)の影――そこに、こがねがいた。 「こがね……」  馴染みのある友の姿に、少しだけ胸を撫で下ろす。 「こがね、お願い。天乃(あまの)さまに伝えて。誤解だって。みつやさんとは何もないって」  そういい、立ち上がって近付いた刹那。  シャッ、と――牙を向けられた。驚き、衝撃で真鶴(まつる)はよろめく。 「こ、がね?」  こがねは、怒っている。はじめて負の感情を友から向けられた事実は、真鶴(まつる)の思考を真っ白に染めるに十分だった。  金の瞳に宿る、憎悪と悲しみ。絶望と怒り。  まるでこれが最後だといわんがばかりに、彼はとぐろを巻いて真鶴(まつる)の前から消え去った。 「こがね」  名を、もう一度呼ぶ。 「こがね……」  影にはもう、何もない。こがねの姿など、なくなっていた。 「あ、ああ」  黒い髪を、くしゃりと握る。その勢いで蝶のかんざしが畳に落ちた。  形見のかんざしを拾うこともできず、その場に膝を突く。 「こがね……あなたまで、わたしを」  両腕を垂らし、こがねがいた暗闇を見つめた。  加賀男(かがお)からは縁を切られ、友には嫌われ、これから自分はどうしていけばいいのだろう。  独りが怖かった。強欲になった思いが、増幅していく孤独感を拒絶する。 「真鶴(まつる)」  気付けば厳しい面持ちをしたトウ子が、ふすまを半分開けてこちらを見ていた。 「輝広(てるひろ)さまからお話しがあります」 「……」 「しっかりなさい。寿々(すず)家のみつやさんも来ています」 「会いたくない」  子どもが駄々をこねるように、首を振る。  トウ子が大きなため息をついた。真鶴(まつる)へ近付き、そっと肩に手を載せる。 「あなたはこのままでいいのですか。真実も知らず、変わらぬままで、いいと?」 「真実……?」 「わたくしも聞いて驚きました。あなたの昔に、陽月(ひづき)家が関与していたとは」  それはどういう意味だろう、とわからず、真鶴(まつる)は呆けたように姉を見た。  トウ子が一つ、うなずく。 「全てを聞いて納得し、それから何かを決めても遅くないのではありませんか? 許すことも、受け入れることも、みな、あなた次第なのですから」 「わたし、次第」 「真実はときとして人を傷付けます。それでも、一度底に落ちた身なれば、あとは這い上がっていくだけでしょう」 「何か、怖い」  トウ子は笑む。柔らかい微笑に、真鶴(まつる)は口ごもった。 「怖いと思うことはね、人の身にあって正しい思いなのですよ。恐れを知らねば、誰かに優しくなどできません。厳しくも。あなたは今、羽化をしはじめています」 「……天乃(あまの)さまにも、友にも嫌われました。今更変わったところで、何も」 「なりません。全てを知る権利と義務があなたにはあります」  厳しい声は、昔の姉を彷彿(ほうふつ)とさせた。そう、自分を見守っていたときと変わらない、立派な姿と。  トウ子のようにありたいと願ったはずだ。優しく、しっかりとした人間に。  真鶴(まつる)はこくりと唾を飲む。  真実とやらが何かはわからない。怖い思いは相変わらずだ。それでも、今側にいてくれる姉の優しさが、厳しさが、自分の背中を後押しする。 「……わかりました」  例えどうなろうと、せめて理由を知ってから。トウ子のいうとおりだ。全てを決めるのは、きっとそのあとでも遅くない。 (真実を知って、何かしらの諦めがつくかもしれない)  目をつぶり、思ったあとにうなずいた。 「まいりましょう。ああ、ほら、かんざしまで落として」 「ごめんなさい、お姉さま」  乱れた髪を梳き、かんざしを挿してくれる姉の手が心地よい。 「わたくしのあとに。輝広(てるひろ)さまの下へ案内します」 「はい」 「その必要はないよ、トウ子さん」  とても穏やかな声音が、ふすま越しに聞こえた。 「輝広(てるひろ)さま」 「お邪魔かな。私もみつやどのも、どう入ったらいいかと悩んでいたものだからね」 「いいえ、輝広(てるひろ)さま。入って下さって大丈夫です」 「それでは失礼するよ」  そういい、静かにふすまを開けたのは、二十代前半ほどの美青年だった。一本縛りにした長髪は、青みがかった黒だ。黒目も不思議と青みがかっており、神秘的な雰囲気がある。  陽月(ひづき)輝広(てるひろ)――トウ子の夫は、糸目をより細めて軽く頭を下げた。  その後ろには、消沈した面影のみつやがいる。 「真鶴(まつる)嬢、会うのははじめまして、だね。私が陽月(ひづき)家現当主、輝広(てるひろ)加賀男(かがお)の兄だ」 「は、はじめまして」  真鶴(まつる)は慌てて姿勢を直し、指を突いて頭を下げた。 「……君は、加賀男(かがお)を恨むかもしれないよ」 「え?」  顔を上げた際、ぽつりとささやかれて困惑する。 「全てを話そう。私の知る全てを」  みつやとともに室内に入る輝広(てるひろ)を見上げ、真鶴(まつる)はもう一度、唾を飲みこんだ。
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