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「まず、加賀男には二つの姿がある」
ふすまの側に正座した輝広が、不意に告げた。
「一つは普段どおり、真鶴嬢、君の知る姿。もうひとつは、星帝としての力を使った姿だ」
「星帝の力……」
「ヤマタノオロチ」
ぽつりとみつやが口を挟んだ。輝広の後ろに座っている彼は、あからさまに顔を青ざめさせている。
「そう。理性というものが形をとるとしたら、前者。本能という形は後者、だね」
「蛇宮は、加賀男がヤマタノオロチになること、蛇を使役できることからそう名付けられたんだ」
「蛇を使う……それは、こがねも含めてのこと、ですよね」
「こがね? 蛇に名をつけたの、真鶴ちゃん。どんな蛇に名付けたの?」
「目が金色の、黒い蛇です。天乃さまもそれはご存じで……」
真鶴がいえば、輝広たちが驚いた面持ちで顔を見合わせた。
すぐに真剣な表情で、輝広は続ける。
「真鶴嬢。君が名付けた蛇は、加賀男自身だ」
「え……っ」
「正確にいうと霊気を形にしたもの。分身と呼べばいい代物だね」
「こがねが、天乃さま? じゃあずっと……ずっと私の側に」
「そう、弟は長く君の側にいた、という他ない。そうでなければ、加賀男は長雅花を盗む、などという大罪を犯しはしなかったはずだよ」
真鶴はただ、輝広の声に目を見開いた。
こがねが加賀男。そこまではなんとか理解ができる。だが、長雅花を盗んだ――その事実に、言葉が上手く出てこない。
「君とトウ子さんの母君、千津留さんが咲かせた長雅花。奇跡の花を盗み、君に与えたのは、加賀男なんだよ」
「待って……待って下さい」
告げられた真実に、頭が混乱する。
七つのときにこがねを助け、それ以来友として接してきた。病に伏せ、死にそうになったのは十のとき。
考えてみれば病のために歩きもできなかった状態で、どう長雅花が奉られている社にいけたというのか。
「わたしは、長雅花を使って、ない……?」
「そう、君は無実。弟はね、蛇の姿になって社に入りこんだんだよ」
「お父さまは、それを知りません」
「私と加賀男の父、輝政が事実を知って隠蔽したんだ。加賀男は影ヶ原に追放。陽月家跡取りとしての立場を剥奪されてね」
「そんな……そんなの、って」
実父に虐げられていた日々。花の副作用で感情をなくし、周囲から気味悪がられていた過去。それをもたらしたのは誰でもなく、加賀男だという。
真鶴の体から力が抜け、その場に膝を崩した。
――口付けを、されたことがある。
はじめての接吻ですら、きっと。いや、確実に、花の粉末を飲ませるため、加賀男が奪ったのだろう。
「裏華族御三家から離脱させられることを、父は怖れたのだろうね。真鶴嬢。君は、加賀男と陽月家を恨んでいい」
「……」
とく、とく、と胸がなる。鼓動がする。体が熱い。
「でもね、最後にこの一言、伝言だけは聞いてやってほしいんだ」
「伝言……?」
「『幸せに、真鶴』」
加賀男と似た声音で輝広にいわれた瞬間、体の奥底で何かが弾けた気がした。それはどこか、花と念話がで来たときの感覚にも似ている。
心臓が脈打ち、体がほてった。呼気が微かに荒くなる。
真鶴の様子を見たのだろう、輝広が苦笑した。
「愚かな弟だけれどね。君を思う気持ちは、本物だ。君に対して罪悪感を抱いていたんだろうね。全く、不器用なことだ」
「……ます」
「ん?」
「知って、います。天乃さまがわたしを思って下さっていることを……知っています」
胸へ両手を重ねた。同じ鼓動を共有したのを、今でも覚えている。
優しく抱き締められたこと。髪を梳かれたこと。頬を撫でられたこと。ありとあらゆる思い出が、愛おしい。
いや、と小さく首を横に振る。
思い出にするにはまだ早い。あの手を、胸の高鳴りを、傍らに置いておきたいのだから。
「わたしは、天乃さまに救われました」
うなずき、顔を上げた。頬をほてらせながら。
「例えそれで辛い目に遭っていても。父から虐げられていたとしても。そんなもの、今のわたしにはどうでもいいことなんです」
胸からこみ上げてくる衝動。抗いがたい細波のようなものが、真鶴の表情を、変えた。
「お姉さま。これが愛しいと思う心なのですね」
体中に弾けたのは、喜びだ。自然と口角がつり上がり、目が弧を描くのを自覚した。
「真鶴、あなた……取り戻したのですか? 感情を」
「いいえ、全部はまだ。ただ、天乃さまが思ってくれることが、とても嬉しいのです」
目をまばたかせるトウ子へ、真鶴は薄く、微笑んだ。
「許してくれるのかな、陽月家を。そして君から全てを奪った、弟を」
「わたしは天乃さまに救われた身です。恨みも、憎しみも、ありません」
真鶴は笑む。今までの欠落を、取り戻そうとせんがばかりに。
全てを受け入れること、許すこと、認めること。それを人は、慈しみと呼ぶ。
慈愛だけではない。今、ただただ胸にこみ上げてくるのは喜び。
加賀男に思われているという事実と、こがねとしても自分を見守っていてくれたことが何より嬉しい。喜ばしい。
「早く誤解を解きたいです。わたしは天乃さまの傍らに、お側にいたい」
「それなんだけどね、真鶴ちゃん」
真剣な顔のみつやが口を開いた。
「誤解させてしまったのは本当にごめんよ。ただね、ちょっと気になることがあって」
「気になること、ですか?」
「加賀男のやつがあそこまで僕たちの仲を疑ったのは、やっぱり蜘蛛長の入れ知恵なんじゃないかって。それに軽い地震があったろう。あの瞬間、蜘蛛の気配がしたんだ」
「ふゆ音さまが……」
笑みをなんとか消し、真鶴は唇へ指を当て、思案する。
思えば、助け船を出したのも、加賀男と二人きりになることを自分に了承させるためだったのではないか。みつやのいうとおり、味方のふりをして欺いていたというのなら。
「お姉さま、着物を貸して下さい」
優しさは毒、という言葉を思い出しつつ、横にいるトウ子へ頼んだ。
「着物を?」
「気を引き締め直したいのです。みつやさん、影ヶ原に連れていって下さいますか?」
「もちろん。そのために陽月家にきたんだからね、任せてくれたまえ」
「安心してほしいな、真鶴嬢。一応君の荷物は全て届いているから」
「そうなんですね、荷物まで……ありがとうございます」
「礼をいうのはこちらの方。弟を、よろしく頼むよ」
こくりとうなずく。小さく、それでも力強く。
「みつやさん、着替えるまで待っていて下さい。すぐに支度を済ませます」
「うん。ただね、真鶴ちゃん。もう日が変わった。今日は満月。まつろわぬものたちの気が昂る日だ。少し危険かもしれない。なるべく早くお願いしていい?」
「わかりました。お手間はかけさせません」
「急ぎましょう、真鶴。荷物ならばわたくしの部屋にあります」
「はい。ありがとうございます、陽月さま。全てを話して下さって。わたしはこれで、前へ進めます」
清々しいとはこのことだ。三つ指を突いて礼をし、顔を引き締め直す。
「気をつけていきなさい、二人とも」
輝広に首肯し、トウ子の案内で屋敷内を進む。
姉の部屋と思しき場所には、確かに自分の風呂敷が二つ、あった。
(諦めることなんてできない)
中を検める。そこには、加賀男が買ってくれた黒留袖の一式も入っていた。
トウ子に手伝ってもらい、それに着替える。
(例え天乃さまに嫌われても)
柄は吉祥紋様――向かい鶴に立涌といったものを中心とした、華やかな模様。帯は白金色に近い下地に、細かく蜀江紋様が描かれている。
扇とまだ手元にあった懐中時計を帯に挟み、目をつぶる。
(わたしは心からの思いを伝えたい)
す、とまぶたを開ける。
「……今、あなたのお側に」
謳うように呟いて、微笑んだ。
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