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支度を全て終え、トウ子と輝広に見送られて、真鶴はみつやと共に陽月家をあとにした。
「真鶴ちゃん、その着物よく似合ってるねえ……って、こういうこというからだめなのか」
提灯を持って弱々しく笑うみつやに、真鶴は苦笑する。
「みつやさんは悪くありません。信じてもらえなかったわたしのせいです」
「大方は蜘蛛長のせいだろう、きっと。加賀男にいらないことを吹き込んだんだろうさ。陽月家の当主もいってただろう、真鶴ちゃんへの罪悪感が弟にはある、ってね」
「わたしは、嬉しいです」
「嬉しいって?」
「幸せを願ってくれていることが。でも、私の幸福は天乃さまと共にあります」
「そっか」
まるで自分のことのように、みつやは相好を崩した。真鶴はうなずく。
みつやを先頭に、真鶴は見知らぬ道を少し早めに歩いた。
現在、亥の刻――夜四つ半。月明かりと提灯があるとはいえ、外は暗い。霞町は住宅地ということもあってだろう、人気が皆無だ。ところどころに僅かにある電灯には、蛾がたかっている。
みつやは先程から、道の様子を見ては何かを探しているようだ。
「みつやさん、何を探してらっしゃるのですか?」
「四つ角。辻にあるんだよ、影ヶ原への入口が」
「それでしたら、私の実家が近くです。天乃さまが迎えにきたときも、そこから」
「よし。じゃあ真鶴ちゃんの実家に行こう」
「ご案内します」
複雑な道から、真鶴の実家までは距離があった。大通りに出てから再び家屋を目指す。
「……ぼくの母親は、優しい人だった」
「え?」
不意にみつやが口を開くものだから、真鶴はつい、横にいる彼を見上げた。
みつやは眼鏡を指で押し上げ、懐かしむような面持ちを作る。
「愚かなまでにね。誰にでも優しかった。父が正妻の座を他の女に譲る、といったときも黙って受け入れてた」
「どうして……?」
「あの人は弱い人だから許してあげましょう、といってね。まあ、僕を父の暴力から守るためだったのかもしれないけど」
「みつやさんも虐げられていたのですね」
「うん。殴られて、蹴られて。しょっちゅう物置に閉じこめられてた。暗所が怖くなったのはそれが原因」
「そう……だったんですね」
加賀男の屋敷で、母を呼びながら震えていたみつやを、真鶴は思い出す。
「ぼくは真鶴ちゃんに、母様の面影を重ねていたのかもしれない」
ぽつり、とささやかれた言葉に、真鶴は少し目をつぶる。
きっとみつやは、母の温もりを求め、夜な夜な花街へいっているのだろう――そう推測し、まぶたを開けて静かに答えた。
「わたしは……いいえ、誰もみつやさんの母親代わりにはなれません」
「うん。わかってるんだけどね。花街に行くのはやめられそうにないなあ」
自嘲気味に笑い、みつやはそれから話をやめた。
(優しさは毒、というのは、みつやさんの原風景に焼き付いた言葉なのね)
沈黙の中、真鶴は思う。優しさは人を甘えさせることにようやく気付けた。
(それを与えるのは、ただ一人でいい……天乃さまに、注ぎたい)
無言の帳が降り、歩いて十五分ほど。ようやく真鶴たちは洋館の近くまで辿り着くことができた。
「あ……」
白熱灯で浮かび上がる実家。その隅に建てられた離れは、まだ取り壊されていない。
「あの離れは?」
「わたしが暮らしていた場所です……お姉さまがもしかすれば、壊すことをやめさせたのかもしれません」
そう、小声で答えたときだ。
酔っ払ったと思しき真鶴の父、葉太郎が、千鳥足で馬車から降りてくるのを見た。
「どこかに隠れましょう」
みつやと共に、近くにあった電灯の影へと身を潜める。
葉太郎を出迎えるのは使用人の女だ。彼は使用人の肩に、倒れ伏すようにして玄関の中へと入っていった。
「いいの、真鶴ちゃん」
「何がでしょう?」
「だって、長雅花を使ってないんだよ、君はさ。父君の誤解を解かなくていいの?」
「……わたしはまだ、長雅花を咲かせられていません。古野羽の女としては未熟です。それに」
「それに?」
「輝政さまには恩義があります。天乃さまとわたしを出会わせてくれた恩が。現当主の輝広さまにもお世話になりました。陽月家の秘密を暴露するような真似は、できません」
真鶴はきっぱりといいきった。
それに、葉太郎が真実を知れば、加賀男へ憎悪が向くだろう。よしんば、完全に引き離される可能性もありうる。ならば誤解されたままで構わない。
「いきましょう、みつやさん」
「なんか強くなったなあ、真鶴ちゃん……」
ささやくみつやに苦笑だけをこぼし、真鶴は樫の木が見える四つ辻へと向かった。
『真鶴や』
唐突に木々の梢がさざめき、真鶴に思念を跳ばしてくる。
「じいや?」
天を見上げると、風一つもない中、葉がこすれているのが見えた。
『久しぶりだの、元気にしておったようで何より、何より』
「じいやも無事でよかった。ヤツデやユズリハも、大丈夫?」
『大丈夫よ、真鶴』
『トウ子さまが当主さまにお願いをしてくれたんだ! だから平気さ』
「やっぱりお姉さまだったのね。あなたたちが刈られたりしなくて、本当によかった」
『真鶴や、安心するにはまだ早いぞ』
胸を一旦撫で下ろした真鶴に、厳しい声音で樫の木が忠告する。
「ええ、これから影ヶ原に向かうから……」
『それもある。今現在、まつろわぬものたちが荒ぶりつつあるのだ』
「まつろわぬものたちが?」
「どうしたの、真鶴ちゃん」
「樫のじいやが……まつろわぬものたちが、荒ぶりつつあると」
「そりゃあ確かに、今日は満月だけど……」
みつやは眉根を寄せ、顎に指を添えて何かを考える素振りを作った。
「樫のじいや、一体何が起きているの? 満月だからかしら」
『星帝さまが我をなくしたのだよ。すでに影ヶ原は霊気の均衡を失っておる』
「天乃さまが、我をなくした? 霊気の均衡……?」
「加賀男が我をなくしただって? なんてこった、影ヶ原は人間が入れる場所じゃなくなりつつあるぞ」
「どういうことですか? みつやさん」
小首を傾げて問えば、みつやは難しい顔でその場をさまよいはじめる。
「霊気の均衡、っていうのは、いわば天気の状態。普段は加賀男がいるから落ち着いてる。でも、その加賀男が暴走したなら、霊気は裏返って邪気になる」
「邪気……悪いものの気のことですよね?」
「そう、古来から病をもたらす元になった、とされるものに。それに当てられて、一般のまつろわぬものたちもきっと、姿を本来のものに変えてしまうだろう」
「猫又さんや烏天狗さんたちも、危ないのですか?」
「凶暴になる。人間や敵意を持ったものを食らうほどに、ね。とはいえ、こんなことは今までになかったから、加賀男から聞いたことをそのまま伝えてるだけだけど」
「でも、どうして天乃さまが我を……」
うろたえるみつやを見ながら呟けば、樫がさざめいた。
『お前を失ったからだよ、真鶴』
「えっ?」
『お前を失い、深い悲しみと絶望でやけになったのだ、星帝さまは』
「わたしが……いなくなったから?」
『それだけ真鶴、お前は思われていた。我らよりも深く、強く、あのお方はお前を慕っていたのだよ』
また真鶴の胸が、とくん、と胸が高鳴る。
影ヶ原が危機にある。それをもたらしたのは、自分だ。それでも加賀男の強い気持ちに、思いに報いたいと思った。
微笑んで一つ、うなずく。
「わたし、天乃さまの下へ、まいります」
「真鶴ちゃん! 危ない、だめだ。加賀男の結界ですらぐちゃぐちゃで、邪気が漏れ出てる。今影ヶ原に行けば、たちまち襲われてしまうよ」
「大丈夫です。わたしには……この懐中時計があります」
「それ、って」
帯から差し出してみつやに見せた懐中時計は、仄かに緑に輝いていた。
「天乃さまからお借りしたものです。影ヶ原の他の四区画に引きずられないよう、咒いを施してあると」
「ちょっと手にとっていい?」
「はい、どうぞ」
と、みつやに手渡す。彼はじっと、懐中時計を凝視した。穴が空くくらいの勢いでだ。
「なるほど……加護の咒いか。真鶴ちゃん、どうにかなるかもしれない」
「本当ですか?」
「秒針は狂ってるけど、正しい霊気がこの時計からは感じられる。君に近付いた場合、まつろわぬものたちは少しの間、正気を取り戻すだろう」
いって、みつやは時計を真鶴に返す。代わりにスーツの懐から出したのは、小刀だ。
「結界の場所は見つけた。あとはそれを切って飛びこむ。準備はいい?」
「……大丈夫です、いつでも」
真鶴が息を吸い、首肯した直後。
「やっ」
と、かけ声一閃、みつやは四つ角の虚空を切り裂いた。
「空間へ、走って!」
真鶴はいわれるまま、裂け目のようなものに飛びこむ。
迷いも、恐れも、何もなく。ただ、慕う人のところへおもむくために。
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