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軽い目眩がした次の瞬間、真鶴が目にしたのは一面の赤、赤、赤。
赤く巨大な満月が、影ヶ原全体を染め上げていた。
「月が……赤い」
天を見上げ、それから周囲を確認する。どうやら今いる場所は、はじめて加賀男とここへきた際に訪れた山の頂上付近のようだ。
「山の中か。加賀男の屋敷までどのくらいだろ」
背後から現れたみつやは、紫紺の髪と紫の瞳という姿となり、様子を見定めている。
「そこまで時間はかからないかと……最初にきたときもこの場所でしたから」
「なるほどね。まつろわぬものたちの力や気配は……うん、ない。これなら館まで突っ切ることができると思う」
「はい。あの、月が赤いのはどうしてでしょう」
「あいつの力の暴走具合らしいけど。ぼくもお目にかかるのはこれがはじめて」
うなずく真鶴もまた、満月により自身の瞳の色が変わるのを自覚した。
「急ごう、真鶴ちゃん。少しばかり走るよ」
「わかりました」
みつやと共に、真鶴は駆け出す。草履は痛くない。何度も確認して、加賀男が買ってくれたものだ。鼻緒も簡単にちぎれはしないだろう。
『星帝さまがご乱心!』
『逃げられん、我らはここでお陀仏だ!』
途中、ナラやブナの木から悲鳴が伝わってきた。梢は風もないのにこすれ続け、藪もまた、逃げ出したいのかその葉を震わせている。
(ごめんなさい、今はみんなの心をなぐさめていられないの)
普段なら、安心させるために対話をしていただろう。だが、今は一刻も早く、加賀男をなんとかしなければどうにもならない。
唇を噛みしめ、走り続けて石灯籠の道へと出る。明かりは相変わらずついておらず、ツキミの安否が気になった。
先を急げば、加賀男と二人でくぐった白い鳥居が見える。いまやその美しさは禍々しいほどの赤に侵蝕され、不気味な雰囲気を漂わせていた。
「ツキミさんは大丈夫でしょうか」
「加賀男の屋敷は四つの鳥居で守られてる。ここまでくればきっと平気なはずだよ」
走っていた足を止め、二人で煉瓦造りの門を通る。館は、見た限り無事だ。引き戸には鍵もかけられていなかった。
「ツキミさん、大丈夫ですか? どこにいらっしゃいますか?」
「ツキミちゃん、返事をしてくれたまえ。ぼくと真鶴ちゃんだよ!」
土足のまま館内に入り、片っ端から扉を開けては中を確認する。
客間、食事処、応接室――そうして台所近くにある廊下を通ったときだ。
「ひいさま……」
「ツキミさん!」
弱々しい声が、した。ツキミの部屋、使用人のための部屋からだ。真鶴とみつやは慌てて使用人室に飛びこむ。
そこには、布団の上にうずくまっているツキミがいた。周囲には乾いたジャムパンが数個、落ちている。
「ツキミちゃん、どうしたっていうんだい。大丈夫かい?」
「うう……みつやさん、体が重くて熱いですの……」
「ひどい熱だ……真鶴ちゃん、水を持ってきてくれないかな」
「急いで準備します」
息を荒げ、赤い顔をしたツキミの容体を確認するみつやに、真鶴はうなずいた。
台所におもむき、たらいへ水を張る。冷たい水に数枚手拭いをつけると、両方を持ってツキミの部屋へと戻った。
そこで真鶴が目の当たりにしたのは、みつやが小刀をツキミへ振りかざそうとしている姿だ。
「みつやさん、何をっ」
止めようとしたが、彼は気にすることなく、ツキミの体周辺の空間を切り裂いた。
すると以前、真鶴の草履近くに現れたように、空気が盛り上がって蜘蛛の姿をとる。
「蜘蛛の毒、邪気だよ。今、祓った。これで少しはよくなるといいけど」
「それではまさか……あのときの停電は」
「あっ、体、少し楽になったですの」
ぱちくりと目をまたたかせ、ツキミが喜びの声を上げた。
「だめですよ、ツキミさん。まだ寝ていなくては」
「ひいさま……」
「そうだよ、まだ完全に毒が抜けてないからねえ」
みつやがツキミの体を横抱きにし、布団に改めて寝かせる。
真鶴は額に、角の上から冷えた手拭いをかけてやった。
「ツキミちゃん、停電になったのは体の不調からだよね?」
「はいな……パンを食べてたら首がチクリ、ってしましたの。それから熱が出て。ずっと転がってましたの」
申し訳なさそうな表情を作り、ツキミはいう。
「じゃあ、やはりふゆ音さまが故意に?」
「ここは結界に守られてるとはいったけど、招いたものの力を止めることはできないんだ。内側からじゃなく、外側からの護りだからね。たぶん、隙を見て蜘蛛を放ったんだろう」
「ツキミさんにまで、なんてひどいことを」
真鶴は呟き、唇を噛んだ。
自分だけでは飽き足らず、まだ幼いツキミを毒牙にかけるとは。怒りの感情はまだ取り戻せていないものの、悔しい気持ちが胸中にこみ上げてくる。
みつやが大げさに溜息をつき、かぶりを振った。
「馬鹿だよねえ。これを夜叉鬼のハナミさんが知ったら……」
「うう、かかさまに未熟だと怒られるですの。蜘蛛ごときにやられるなど間抜けですの」
恨めしそうにツキミが唸り、それを見たみつやが苦笑を浮かべた。
「仕方ないさ。成人じゃない鬼子は、霊気も強くないわけだから。ゆっくり養生したまえ」
「はいな……」
「ツキミさん、寝る前に一つ聞かせて下さい。天乃さまは今、どこに?」
「わからないですの。ひいさまの荷物をまとめてどっかに送ったと思ったら、凄く怖いお顔で外に……もう、ウチ、そのとき半分熱を出してたのですの」
「そう、ですか……」
「蜘蛛長が関わっているとなると、きっとあの女のところにいるんじゃないかな?」
「ふゆ音さまが治める区画は、確か……土淵ですよね」
真鶴はツキミの額に被せた手拭いを変え、顔を引き締める。
「わたし、ふゆ音さまの下にまいります」
「ぼくも行こう。今の状態の影ヶ原を一人で歩かせられないよ」
「でも、ツキミさんを診ててあげなくては」
「ウチなら平気ですの……土淵にいくならお手伝いしますですの」
「ツキミちゃん、体の具合は?」
「ひいさまたちを移動させて帰るくらいには、回復してるですの。それ以外にお手伝いはできませんの……」
「十分すぎます。ツキミさん、お願いできますか?」
「はいな! よっこいしょっ」
手拭いをとり、ツキミは勢いよく起き上がる。
「準備は大丈夫ですの? しゅんっ、ていきますの」
ツキミが手を差し出してきた。真鶴はうなずき左手を、みつやもまた、小刀を持ったまま右手をそれぞれ握る。
「そーれ」
トントン、と二度、ツキミが爪先で畳を叩いた刹那、浮遊感が真鶴を襲った。
次の瞬間には、江戸時代のような街並みが視界に飛びこんでくる。
「ここが土淵ですの。お城は、まっすぐ」
「ありがとうございます、ツキミさん」
「なんかふわふわするですの……邪気、怖いですの」
「うん、助かったよ。ツキミちゃん、早く屋敷に戻って。あとはぼくたちがなんとかするから」
「はいな……」
再び足で地面を叩いたツキミが、消えた。
その直後だ。凄まじい破砕音が聞こえたのは。
「えっ……」
「うわっ!」
けたたましい音と共に、爆風が真鶴たちを襲う。髪と着物を押さえ、丸まるようにして真鶴はその勢いに耐えた。
「真鶴ちゃん、あれ!」
数秒早く前を見据えたみつやの言葉につられ、怖々と瞳を開ける。そこには。
「……蜘蛛と、鬼?」
巨大な土蜘蛛、女郎蜘蛛の群れと、それに攻撃をしたと思しき鬼の軍勢がいた。
「出てきな、高慢ちき蜘蛛女! 星帝の旦那に何かしたのはお見通しだよっ」
巨大な鬼の肩、そこに乗って啖呵を切っているのはハナミだ。飛びかかってくる蜘蛛を、それこそ蹴散らすように手にした棍棒で殴っては豪快に笑う。
「ハナミさま! ハナミさま、真鶴です!」
真鶴はハナミへと必死に声をかけた。
「うん?」
蜘蛛がたじろいだ瞬間、攻防の音がやみ、ハナミがこちらに気付く。
「なんだ、ちっこい真鶴か。どうしてこんなところにいるんだい、アンタ!」
「天乃さまをお救いするためですっ」
「救う……? この邪気に異様な月、やっぱり星帝の旦那に何かしたんだね、あの女」
「それはまだわからないんだけど、ハナミさん。でも、ツキミちゃんに蜘蛛をけしかけたのは事実なんだ」
「ツキミに、かい。そりゃまたずいぶん、娘を可愛がってくれたもんだねぇ」
ハナミの怒気が膨れ上がり、殺意が蜘蛛を押し返す。だが。
「真鶴ちゃん、上!」
はっとして真鶴は右上を見上げた。瓦屋根から飛びかかってきたのは、一匹の蜘蛛だ。
(間に合わない……っ)
避けることも逃げることもできないまま、蜘蛛の口が開くのを見た、刹那。
「退け、げすが」
冷ややかな声音と共に、蜘蛛が千切りにされた。
「らんさま……!」
軍刀の振りだけで蜘蛛を切ってみせたのは、犬神のらんだ。
「ほほほ、また会ったの、古野羽の出来損ない」
「銀冥さま!」
高笑いに真鶴が振り返れば、犬神のらんと揃って並ぶ九尾の銀冥、二者の姿があった。
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