第五幕:願はくは われ春風に 身をなして

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 軽い目眩がした次の瞬間、真鶴(まつる)が目にしたのは一面の赤、赤、赤。  赤く巨大な満月が、影ヶ原(かげがはら)全体を染め上げていた。 「月が……赤い」  天を見上げ、それから周囲を確認する。どうやら今いる場所は、はじめて加賀男(かがお)とここへきた際に訪れた山の頂上付近のようだ。 「山の中か。加賀男(かがお)の屋敷までどのくらいだろ」  背後から現れたみつやは、紫紺(しこん)の髪と紫の瞳という姿となり、様子を見定めている。 「そこまで時間はかからないかと……最初にきたときもこの場所でしたから」 「なるほどね。まつろわぬものたちの力や気配は……うん、ない。これなら館まで突っ切ることができると思う」 「はい。あの、月が赤いのはどうしてでしょう」 「あいつの力の暴走具合らしいけど。ぼくもお目にかかるのはこれがはじめて」  うなずく真鶴もまた、満月により自身の瞳の色が変わるのを自覚した。 「急ごう、真鶴(まつる)ちゃん。少しばかり走るよ」 「わかりました」  みつやと共に、真鶴(まつる)は駆け出す。草履(ぞうり)は痛くない。何度も確認して、加賀男(かがお)が買ってくれたものだ。鼻緒も簡単にちぎれはしないだろう。 『星帝(せいてい)さまがご乱心!』 『逃げられん、我らはここでお陀仏(だぶつ)だ!』  途中、ナラやブナの木から悲鳴が伝わってきた。梢は風もないのにこすれ続け、藪もまた、逃げ出したいのかその葉を震わせている。 (ごめんなさい、今はみんなの心をなぐさめていられないの)  普段なら、安心させるために対話をしていただろう。だが、今は一刻も早く、加賀男(かがお)をなんとかしなければどうにもならない。  唇を噛みしめ、走り続けて石灯籠(いしどうろう)の道へと出る。明かりは相変わらずついておらず、ツキミの安否が気になった。  先を急げば、加賀男(かがお)と二人でくぐった白い鳥居が見える。いまやその美しさは禍々(まがまが)しいほどの赤に侵蝕され、不気味な雰囲気を漂わせていた。 「ツキミさんは大丈夫でしょうか」 「加賀男(かがお)の屋敷は四つの鳥居で守られてる。ここまでくればきっと平気なはずだよ」  走っていた足を止め、二人で煉瓦造りの門を通る。館は、見た限り無事だ。引き戸には鍵もかけられていなかった。 「ツキミさん、大丈夫ですか? どこにいらっしゃいますか?」 「ツキミちゃん、返事をしてくれたまえ。ぼくと真鶴(まつる)ちゃんだよ!」  土足のまま館内に入り、片っ端から扉を開けては中を確認する。  客間、食事(どころ)、応接室――そうして台所近くにある廊下を通ったときだ。 「ひいさま……」 「ツキミさん!」  弱々しい声が、した。ツキミの部屋、使用人のための部屋からだ。真鶴(まつる)とみつやは慌てて使用人室に飛びこむ。  そこには、布団の上にうずくまっているツキミがいた。周囲には乾いたジャムパンが数個、落ちている。 「ツキミちゃん、どうしたっていうんだい。大丈夫かい?」 「うう……みつやさん、体が重くて熱いですの……」 「ひどい熱だ……真鶴(まつる)ちゃん、水を持ってきてくれないかな」 「急いで準備します」  息を荒げ、赤い顔をしたツキミの容体を確認するみつやに、真鶴(まつる)はうなずいた。  台所におもむき、たらいへ水を張る。冷たい水に数枚手拭いをつけると、両方を持ってツキミの部屋へと戻った。  そこで真鶴(まつる)が目の当たりにしたのは、みつやが小刀をツキミへ振りかざそうとしている姿だ。 「みつやさん、何をっ」  止めようとしたが、彼は気にすることなく、ツキミの体周辺の空間を切り裂いた。  すると以前、真鶴(まつる)草履(ぞうり)近くに現れたように、空気が盛り上がって蜘蛛の姿をとる。 「蜘蛛の毒、邪気だよ。今、(はら)った。これで少しはよくなるといいけど」 「それではまさか……あのときの停電は」 「あっ、体、少し楽になったですの」  ぱちくりと目をまたたかせ、ツキミが喜びの声を上げた。 「だめですよ、ツキミさん。まだ寝ていなくては」 「ひいさま……」 「そうだよ、まだ完全に毒が抜けてないからねえ」  みつやがツキミの体を横抱きにし、布団に改めて寝かせる。  真鶴(まつる)は額に、角の上から冷えた手拭いをかけてやった。 「ツキミちゃん、停電になったのは体の不調からだよね?」 「はいな……パンを食べてたら首がチクリ、ってしましたの。それから熱が出て。ずっと転がってましたの」  申し訳なさそうな表情を作り、ツキミはいう。 「じゃあ、やはりふゆ()さまが故意に?」 「ここは結界に守られてるとはいったけど、招いたものの力を止めることはできないんだ。内側からじゃなく、外側からの護りだからね。たぶん、隙を見て蜘蛛を放ったんだろう」 「ツキミさんにまで、なんてひどいことを」  真鶴(まつる)は呟き、唇を噛んだ。  自分だけでは飽き足らず、まだ幼いツキミを毒牙にかけるとは。怒りの感情はまだ取り戻せていないものの、悔しい気持ちが胸中にこみ上げてくる。  みつやが大げさに溜息をつき、かぶりを振った。 「馬鹿だよねえ。これを夜叉鬼のハナミさんが知ったら……」 「うう、かかさまに未熟だと怒られるですの。蜘蛛ごときにやられるなど間抜けですの」  恨めしそうにツキミが唸り、それを見たみつやが苦笑を浮かべた。 「仕方ないさ。成人じゃない鬼子は、霊気も強くないわけだから。ゆっくり養生したまえ」 「はいな……」 「ツキミさん、寝る前に一つ聞かせて下さい。天乃(あまの)さまは今、どこに?」 「わからないですの。ひいさまの荷物をまとめてどっかに送ったと思ったら、凄く怖いお顔で外に……もう、ウチ、そのとき半分熱を出してたのですの」 「そう、ですか……」 「蜘蛛長(くもおさ)が関わっているとなると、きっとあの女のところにいるんじゃないかな?」 「ふゆ()さまが治める区画は、確か……土淵(つちぶち)ですよね」  真鶴(まつる)はツキミの額に被せた手拭いを変え、顔を引き締める。 「わたし、ふゆ()さまの下にまいります」 「ぼくも行こう。今の状態の影ヶ原(かげがはら)を一人で歩かせられないよ」 「でも、ツキミさんを診ててあげなくては」 「ウチなら平気ですの……土淵(つちぶち)にいくならお手伝いしますですの」 「ツキミちゃん、体の具合は?」 「ひいさまたちを移動させて帰るくらいには、回復してるですの。それ以外にお手伝いはできませんの……」 「十分すぎます。ツキミさん、お願いできますか?」 「はいな! よっこいしょっ」  手拭いをとり、ツキミは勢いよく起き上がる。 「準備は大丈夫ですの? しゅんっ、ていきますの」  ツキミが手を差し出してきた。真鶴(まつる)はうなずき左手を、みつやもまた、小刀を持ったまま右手をそれぞれ握る。 「そーれ」  トントン、と二度、ツキミが爪先で畳を叩いた刹那、浮遊感が真鶴(まつる)を襲った。  次の瞬間には、江戸時代のような街並みが視界に飛びこんでくる。 「ここが土淵(つちぶち)ですの。お城は、まっすぐ」 「ありがとうございます、ツキミさん」 「なんかふわふわするですの……邪気、怖いですの」 「うん、助かったよ。ツキミちゃん、早く屋敷に戻って。あとはぼくたちがなんとかするから」 「はいな……」  再び足で地面を叩いたツキミが、消えた。  その直後だ。凄まじい破砕音が聞こえたのは。 「えっ……」 「うわっ!」  けたたましい音と共に、爆風が真鶴(まつる)たちを襲う。髪と着物を押さえ、丸まるようにして真鶴(まつる)はその勢いに耐えた。 「真鶴(まつる)ちゃん、あれ!」  数秒早く前を見据えたみつやの言葉につられ、怖々と瞳を開ける。そこには。 「……蜘蛛と、鬼?」  巨大な土蜘蛛、女郎蜘蛛の群れと、それに攻撃をしたと思しき鬼の軍勢がいた。 「出てきな、高慢ちき蜘蛛女! 星帝(せいてい)の旦那に何かしたのはお見通しだよっ」  巨大な鬼の肩、そこに乗って啖呵(たんか)を切っているのはハナミだ。飛びかかってくる蜘蛛を、それこそ蹴散らすように手にした棍棒で殴っては豪快に笑う。 「ハナミさま! ハナミさま、真鶴(まつる)です!」  真鶴(まつる)はハナミへと必死に声をかけた。 「うん?」  蜘蛛がたじろいだ瞬間、攻防の音がやみ、ハナミがこちらに気付く。 「なんだ、ちっこい真鶴(まつる)か。どうしてこんなところにいるんだい、アンタ!」 「天乃(あまの)さまをお救いするためですっ」 「救う……? この邪気に異様な月、やっぱり星帝(せいてい)の旦那に何かしたんだね、あの女」 「それはまだわからないんだけど、ハナミさん。でも、ツキミちゃんに蜘蛛をけしかけたのは事実なんだ」 「ツキミに、かい。そりゃまたずいぶん、娘を可愛がってくれたもんだねぇ」  ハナミの怒気が膨れ上がり、殺意が蜘蛛を押し返す。だが。 「真鶴(まつる)ちゃん、上!」  はっとして真鶴(まつる)は右上を見上げた。瓦屋根から飛びかかってきたのは、一匹の蜘蛛だ。 (間に合わない……っ)  避けることも逃げることもできないまま、蜘蛛の口が開くのを見た、刹那。 「退()け、げすが」  冷ややかな声音と共に、蜘蛛が千切りにされた。 「らんさま……!」  軍刀の振りだけで蜘蛛を切ってみせたのは、犬神のらんだ。 「ほほほ、また会ったの、古野羽(このは)の出来損ない」 「銀冥(ぎんめい)さま!」  高笑いに真鶴(まつる)が振り返れば、犬神のらんと揃って並ぶ九尾の銀冥(ぎんめい)、二者の姿があった。
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