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脳裏に加賀男、そしてこがねの姿を思い浮かべて一秒もない。
「ついたよ」
ハナミに声をかけられ、真鶴はそっと目を開けた。
草木の匂いがする。ナラやブナだけではなく、カシワやクスノキ、樫の木などが乱雑に、無作為に生い茂る山の中にいた。
淡く輝くカタクリやクチナシなどの花と木々は、近付く暴風に、怯えるようにして小刻みに震えていた。
『怖いよぅ、星帝さまが怖いよぅ』
『逃げたい。ここから今すぐ立ち去りたい』
木花の念が聞こえる。そこら中から響き渡る念話は強く、大きい。ともすれば頭の中を埋め尽くすばかりの悲鳴に、真鶴はただ、かぶりを振る。
「この山を越えたら、星帝の旦那の屋敷がある」
真鶴から手を離したハナミの声は、緊張のためか強張っていた。
「結界はあくまで霊気や邪気を防ぐものさ。でかい木々や瓦礫、そういったものから守るすべを屋敷は持ってない」
「はい。天乃さまのためにも、ツキミさんのためにも、ここで止めなくては」
「アンタ、どうやってあのオロチを止める気だい?」
「わたしは天乃さまの霊気、分身に名をつけたのです。こがね、と。天乃さまのお姿を見た限り、一つだけ、瞳と体の色が違う部分がありました」
「それがその分身ってわけだね。で、どうする」
「木々の皆さんに力を貸していただきます。天乃さまのお側で、声をかけ続けようかと」
「声が届くかどうかもわかんないよ、ありゃ。いくら名付け親とはいえど」
ハナミのため息に、真鶴は何も答えず背後を振り返った。
ヤマタノオロチが段々と、町を壊してこちらへと近付いている。銀冥の姿はとうになく、力を使い果たしたものだと考えられた。
「変わる、勇気」
「ん?」
オロチを見つめ、吐息と共にささやく。
「変わることには痛みを伴うと、わたしの姉がいっていたのを今、思い出したのです」
「食べられることを想定してんじゃないだろうね」
「いいえ。天乃さまに誤解され、苦しくて、辛くて……痛かったのです、この胸が」
らんの様子はここからでは確認できない。他の蜘蛛たちの姿も、同じく。
「痛みがわたしを変えてくれました。何もできない、何もしようとしていなかったわたしから」
オロチの全貌が見えてくる。まっすぐ、山を飲みこむ勢いで差し迫る加賀男に、真鶴は微笑んだ。
「わたしにはなんの力もないけれど、天乃さまを思う心だけは誰にも負けません」
いいきっただけで、気持ちが高揚するのを感じる。体がほてり、鼓動が高鳴る。
「……いいさ、好きなだけやってごらん。オレはただ、見ててやるからさ」
「ありがとうございます、ハナミさま」
答えて目をつぶると、今までの出来事が走馬灯のように駆け巡った。
優しく抱き留められた事実。髪を梳く手の温もり。たわいのない会話に、食事を喜んでくれたときの微笑み。どれもが今現在のことのように、ありありと思い出せる。
両手を組み、ざわめき、梢と葉を揺らす木々へ声をかけはじめた。
「木々の皆さん、お願いです。わたしに力を貸して下さい」
『頼みってなんだいな、こんな大変なときにさ』
「わたしをどうか、天乃さまの側まで運んで下さいませんか?」
『何を無茶なことを! そんなことしたらなぎ払われちゃうじゃないか』
「このままでも、きっとそうなるはずです。わたしは皆さんを助けたい。天乃さまをお救いしたいのです」
だめだ、いやだ、逃がせ、ここから出して――
否定と困惑の念話だけが返答として脳内に響く。
「お願いです。わたしを運んで、天乃さまの下に」
それでも心から必死に頼む。この事態を収拾するためではなく、加賀男にただ、思いの一つを伝えるためにと。
オロチから伝わる地響きが、地面を揺らす。必死に両足へ力をこめ、ただただ真鶴は念じ続けた。
「誰か、お願い。わたしを……」
『古野羽の娘っ子』
「樫、さま?」
『ワシらの力を汝に貸そう。ここで無闇に手折られるのも、無念というもの』
しわがれた声に、真鶴はそこで目を開け周囲を見た。
ざわり、ざわりと音を立て、樫たちが梢や葉を大きく伸ばしていく。
左右へ上下へ、寿命の全てを使い果たそうとするように。くねった枝の数々は、まるで鳥籠のように真鶴の体を包みこむ。
「……お願いします、樫の皆さま」
『よく掴まっているがいい』
真鶴は足を枝の一つにかけ、眼前の梢を掴んだ。樫の鳥籠は折れることもなく曲がることもなく、安定した土台となって宙へゆらりと浮く。
木々の異変に、だろうか。それとも別の要因があるのか――
オロチの首が一斉に、真鶴の方を向いた。
背筋が寒くなる。恐ろしいと思う心が、無意識に瞳を見開かせる。息が荒くなり、ただ眼前のオロチを、すくんだまま見つめることしかできない。
「天乃さま」
それでもするりと言葉が出た。オロチが止まる。七つの頭は今にも、目の前の獲物を、真鶴を食らわんと、ホオズキ色の瞳をまたたかせていた。
だが。
「……天乃さま」
一つの頭、金色の瞳を持った漆黒の頭頂だけは、子どもがそっぽを向くように視線と顔を逸らす。
今更何をしに来たと、問われた気がした。
足が震え、手の先が冷たくなる。
怖いという思いも、恐ろしいという気持ちも、本能がすくむ恐ろしさも確かにあった。
それでも、微笑む。心の底から偽りのない笑みを浮かべ、オロチに――いや、加賀男へ両手を差し出した。
樫でできた鳥籠が、蓮の花のように割れる。真鶴は道となった枝の上を歩きながら、漆黒の頭へと近付いていく。
恐ろしいけれど、怖いけれど。慕う人のことは全て、受け入れたい。
「あなたさま……いいえ、加賀男さま」
視線を合わせようとしないこがねの前で、はじめて名を呼ぶ。こがねが、その金の瞳を見開いた。真鶴を見る。驚いたように、それでもどこかまだ、拗ねているように。
真鶴の心臓は破裂しそうだ。脈打ち、全身が火照る。目の前が明るくなる。笑みが浮かんでやまない。
深く、笑む。
とろけゆくように。
誰よりも幸せであるように。
「わたしは、あなたさまだけを、お慕いしています」
樫の道、その最先頭へおもむき、漆黒の頭へと身を寄せた。
冷たい感触。さらさらとした、馴染みのある肌触り。
もう怖くない。不気味でもない。そう、一体何を怖れるというのだろうか。
「帰ってきて下さい、加賀男さま――わたしの、こがね」
高揚した胸のままささやいて、牙の生えている箇所へと、ためらうことなく口付けした。
全身が震えた。喜びという感情に支配される。動悸がし、体中が熱い。
背筋に何か、形容のしがたい思いが駆け上がってくる。
オロチが光に包まれた。みるみると真鶴の目の前で、人の形にとって変わる。
望月――満月の赤さが少しずつ、清浄な白へと変容していく。
漆黒の光にそっと抱きついて、口ずさむ。
「……喜び笑むはサクヤヒメ あなたさまに向けるのは 花盛りのはかなき一生」
家伝の祝詞ではない。ただ一つ、今の思いを口にするとしたら、そう思って発した途端だった。
ざわりと髪の毛が、揺れる。鳥肌が立ち、髪の毛先までもが痺れた感覚に陥った、直後。
樫の若苗に、桃色の花が咲く。銀の花粉を撒き散らし、ツバキにも似た形をしたそれが、弾けた。
町へ、山へ、壊れたありとあらゆる場所へ散った花びらが降り注ぐ。星屑よりも、流星よりも遙かにまぶしく、きらびやかに。
「真鶴」
呆けながらそれを見ていた真鶴を正気に戻したのは、ただの一声。
静かに顔を上げた。泣きそうなおもての加賀男がいる。
大島紬の着物を着て。ためらいがちに、真鶴の肩へ手を載せて。
「真鶴……」
「お帰りなさい、加賀男さま」
真鶴は笑む。笑顔を知った幼子よりも遙かに、純粋に。
銀の花粉と桃色の花びらが舞い散る中、強く、今までにないほどの力で加賀男に抱き締められた。
「俺を……馬鹿な俺を、許してくれるか」
「当然です。あなたはわたしの命の恩人なのですから」
「俺の側にいてくれるのか」
「はい。もちろんです」
「俺は、君を思っている」
「わたしもです、加賀男さま」
自分を抱き留める腕に、いや、それを越えて背中へと手を回す。
同じ、鼓動だ。加賀男の胸の音は相変わらず、自分と同じでとくとくと響いている。
片手で頬を持ち上げられた。真鶴は目をつぶり、懸命に背を伸ばす。
そして、唇が重なる。
その口付けは、唇の感覚は、まぎれもなく忘れがたいあの日と同じものだ。
「……はじめてがあなたさまで、よかった」
そういうと加賀男が微笑む。
その頬は紅潮していた。真鶴は嬉しく思う。自分の頬も、ほんのりと赤らんでいるのを自覚しているからだ。
抱き合う真鶴と加賀男の影に、桃色の花弁が舞い散った。銀の花粉もとめどなく散らばり、白に戻った月明かりに輝いている。
「長雅花」
ぽつり、と加賀男がささやく。
真鶴は再び彼を見上げ、それから周囲を確認した。
舞い散る花の花弁は桃色だ。銀の花粉が砂粒のようにきらめいて、やまない。
二つは淡く輝きながら、町や山へと降り注ぎ続けている。
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