第五幕:願はくは われ春風に 身をなして

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 脳裏に加賀男(かがお)、そしてこがねの姿を思い浮かべて一秒もない。 「ついたよ」  ハナミに声をかけられ、真鶴(まつる)はそっと目を開けた。  草木の匂いがする。ナラやブナだけではなく、カシワやクスノキ、樫の木などが乱雑に、無作為に生い茂る山の中にいた。  淡く輝くカタクリやクチナシなどの花と木々は、近付く暴風に、怯えるようにして小刻みに震えていた。 『怖いよぅ、星帝(せいてい)さまが怖いよぅ』 『逃げたい。ここから今すぐ立ち去りたい』  木花の念が聞こえる。そこら中から響き渡る念話は強く、大きい。ともすれば頭の中を埋め尽くすばかりの悲鳴に、真鶴(まつる)はただ、かぶりを振る。 「この山を越えたら、星帝(せいてい)の旦那の屋敷がある」  真鶴(まつる)から手を離したハナミの声は、緊張のためか強張っていた。 「結界はあくまで霊気や邪気を防ぐものさ。でかい木々や瓦礫、そういったものから守るすべを屋敷は持ってない」 「はい。天乃(あまの)さまのためにも、ツキミさんのためにも、ここで止めなくては」 「アンタ、どうやってあのオロチを止める気だい?」 「わたしは天乃(あまの)さまの霊気、分身に名をつけたのです。こがね、と。天乃(あまの)さまのお姿を見た限り、一つだけ、瞳と体の色が違う部分がありました」 「それがその分身ってわけだね。で、どうする」 「木々の皆さんに力を貸していただきます。天乃(あまの)さまのお側で、声をかけ続けようかと」 「声が届くかどうかもわかんないよ、ありゃ。いくら名付け親とはいえど」  ハナミのため息に、真鶴(まつる)は何も答えず背後を振り返った。  ヤマタノオロチが段々と、町を壊してこちらへと近付いている。銀冥(ぎんめい)の姿はとうになく、力を使い果たしたものだと考えられた。 「変わる、勇気」 「ん?」  オロチを見つめ、吐息と共にささやく。 「変わることには痛みを伴うと、わたしの姉がいっていたのを今、思い出したのです」 「食べられることを想定してんじゃないだろうね」 「いいえ。天乃(あまの)さまに誤解され、苦しくて、辛くて……痛かったのです、この胸が」  らんの様子はここからでは確認できない。他の蜘蛛たちの姿も、同じく。 「痛みがわたしを変えてくれました。何もできない、何もしようとしていなかったわたしから」  オロチの全貌が見えてくる。まっすぐ、山を飲みこむ勢いで差し迫る加賀男(かがお)に、真鶴(まつる)は微笑んだ。 「わたしにはなんの力もないけれど、天乃(あまの)さまを思う心だけは誰にも負けません」  いいきっただけで、気持ちが高揚するのを感じる。体がほてり、鼓動が高鳴る。 「……いいさ、好きなだけやってごらん。オレはただ、見ててやるからさ」 「ありがとうございます、ハナミさま」  答えて目をつぶると、今までの出来事が走馬灯のように駆け巡った。  優しく抱き留められた事実。髪を梳く手の温もり。たわいのない会話に、食事を喜んでくれたときの微笑み。どれもが今現在のことのように、ありありと思い出せる。  両手を組み、ざわめき、梢と葉を揺らす木々へ声をかけはじめた。 「木々の皆さん、お願いです。わたしに力を貸して下さい」 『頼みってなんだいな、こんな大変なときにさ』 「わたしをどうか、天乃(あまの)さまの側まで運んで下さいませんか?」 『何を無茶なことを! そんなことしたらなぎ払われちゃうじゃないか』 「このままでも、きっとそうなるはずです。わたしは皆さんを助けたい。天乃(あまの)さまをお救いしたいのです」  だめだ、いやだ、逃がせ、ここから出して――  否定と困惑の念話だけが返答として脳内に響く。 「お願いです。わたしを運んで、天乃(あまの)さまの下に」  それでも心から必死に頼む。この事態を収拾するためではなく、加賀男(かがお)にただ、思いの一つを伝えるためにと。  オロチから伝わる地響きが、地面を揺らす。必死に両足へ力をこめ、ただただ真鶴(まつる)は念じ続けた。 「誰か、お願い。わたしを……」 『古野羽(このは)の娘っ子』 「樫、さま?」 『ワシらの力を汝に貸そう。ここで無闇に手折られるのも、無念というもの』  しわがれた声に、真鶴(まつる)はそこで目を開け周囲を見た。  ざわり、ざわりと音を立て、樫たちが梢や葉を大きく伸ばしていく。  左右へ上下へ、寿命の全てを使い果たそうとするように。くねった枝の数々は、まるで鳥籠のように真鶴(まつる)の体を包みこむ。 「……お願いします、樫の皆さま」 『よく掴まっているがいい』  真鶴(まつる)は足を枝の一つにかけ、眼前の梢を掴んだ。樫の鳥籠は折れることもなく曲がることもなく、安定した土台となって宙へゆらりと浮く。  木々の異変に、だろうか。それとも別の要因があるのか――  オロチの首が一斉に、真鶴(まつる)の方を向いた。  背筋が寒くなる。恐ろしいと思う心が、無意識に瞳を見開かせる。息が荒くなり、ただ眼前のオロチを、すくんだまま見つめることしかできない。 「天乃(あまの)さま」  それでもするりと言葉が出た。オロチが止まる。七つの頭は今にも、目の前の獲物を、真鶴(まつる)を食らわんと、ホオズキ色の瞳をまたたかせていた。  だが。 「……天乃(あまの)さま」  一つの頭、金色の瞳を持った漆黒の頭頂だけは、子どもがそっぽを向くように視線と顔を逸らす。  今更何をしに来たと、問われた気がした。  足が震え、手の先が冷たくなる。  怖いという思いも、恐ろしいという気持ちも、本能がすくむ恐ろしさも確かにあった。  それでも、微笑む。心の底から偽りのない笑みを浮かべ、オロチに――いや、加賀男(かがお)へ両手を差し出した。  樫でできた鳥籠が、蓮の花のように割れる。真鶴(まつる)は道となった枝の上を歩きながら、漆黒の頭へと近付いていく。  恐ろしいけれど、怖いけれど。慕う人のことは全て、受け入れたい。 「あなたさま……いいえ、()()()さま」  視線を合わせようとしないこがねの前で、はじめて名を呼ぶ。こがねが、その金の瞳を見開いた。真鶴(まつる)を見る。驚いたように、それでもどこかまだ、()ねているように。  真鶴(まつる)の心臓は破裂しそうだ。脈打ち、全身が火照る。目の前が明るくなる。笑みが浮かんでやまない。  深く、笑む。  とろけゆくように。  誰よりも幸せであるように。 「わたしは、あなたさまだけを、お慕いしています」  樫の道、その最先頭へおもむき、漆黒の頭へと身を寄せた。  冷たい感触。さらさらとした、馴染みのある肌触り。  もう怖くない。不気味でもない。そう、一体何を怖れるというのだろうか。 「帰ってきて下さい、加賀男(かがお)さま――わたしの、こがね」  高揚した胸のままささやいて、牙の生えている箇所へと、ためらうことなく口付けした。  全身が震えた。喜びという感情に支配される。動悸がし、体中が熱い。  背筋に何か、形容のしがたい思いが駆け上がってくる。  オロチが光に包まれた。みるみると真鶴(まつる)の目の前で、人の形にとって変わる。  望月(もちづき)――満月の赤さが少しずつ、清浄な白へと変容していく。  漆黒の光にそっと抱きついて、口ずさむ。 「……喜び笑むはサクヤヒメ あなたさまに向けるのは 花(ざか)りのはかなき一生」  家伝(かでん)祝詞(のりと)ではない。ただ一つ、今の思いを口にするとしたら、そう思って発した途端だった。  ざわりと髪の毛が、揺れる。鳥肌が立ち、髪の毛先までもが痺れた感覚に陥った、直後。  樫の若苗に、桃色の花が咲く。銀の花粉を撒き散らし、ツバキにも似た形をしたそれが、弾けた。  町へ、山へ、壊れたありとあらゆる場所へ散った花びらが降り注ぐ。星屑よりも、流星よりも遙かにまぶしく、きらびやかに。 「真鶴(まつる)」  呆けながらそれを見ていた真鶴(まつる)を正気に戻したのは、ただの一声。  静かに顔を上げた。泣きそうなおもての加賀男(かがお)がいる。  大島紬(おおしまつむぎ)の着物を着て。ためらいがちに、真鶴(まつる)の肩へ手を載せて。 「真鶴(まつる)……」 「お帰りなさい、加賀男(かがお)さま」  真鶴(まつる)は笑む。笑顔を知った幼子よりも遙かに、純粋に。  銀の花粉と桃色の花びらが舞い散る中、強く、今までにないほどの力で加賀男(かがお)に抱き締められた。 「俺を……馬鹿な俺を、許してくれるか」 「当然です。あなたはわたしの命の恩人なのですから」 「俺の側にいてくれるのか」 「はい。もちろんです」 「俺は、君を思っている」 「わたしもです、加賀男(かがお)さま」  自分を抱き留める腕に、いや、それを越えて背中へと手を回す。  同じ、鼓動だ。加賀男(かがお)の胸の音は相変わらず、自分と同じでとくとくと響いている。  片手で頬を持ち上げられた。真鶴(まつる)は目をつぶり、懸命に背を伸ばす。  そして、唇が重なる。  その口付けは、唇の感覚は、まぎれもなく忘れがたいあの日と同じものだ。 「……はじめてがあなたさまで、よかった」  そういうと加賀男(かがお)が微笑む。  その頬は紅潮していた。真鶴(まつる)は嬉しく思う。自分の頬も、ほんのりと赤らんでいるのを自覚しているからだ。  抱き合う真鶴(まつる)加賀男(かがお)の影に、桃色の花弁が舞い散った。銀の花粉もとめどなく散らばり、白に戻った月明かりに輝いている。 「長雅花(ながみやばな)」  ぽつり、と加賀男(かがお)がささやく。  真鶴は再び彼を見上げ、それから周囲を確認した。  舞い散る花の花弁は桃色だ。銀の花粉が砂粒のようにきらめいて、やまない。  二つは淡く輝きながら、町や山へと降り注ぎ続けている。
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