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今は大正五年。月は葉桜が見頃の五月――
市営電車が麻布霞町にできてもう二年。江戸時代から続く老舗は下町に多くあり、今も履物店やござ店、花街が新たに作られている。
坂道が多い台場には、古い歴史を持つ武家屋敷や、現代を生きる華族たちの家屋が建ち並ぶ。陸軍の駐屯基地があるのもこの近くだ。
真鶴と姉のトウ子がいるのは、古川沿いに作られた一の橋に屋敷を構える陽月家である。二人の、いや、トウ子が昨日まで住んでいた古野羽家とは違い、純然とした日本家屋だ。
「お姉さま、とても綺麗」
「ありがとう、真鶴。この日を迎えられたことが何より嬉しい」
白無垢に身を包み、艶やかに紅を差したトウ子が微笑む。
陽月家の一室で、トウ子の支度を手伝っていた真鶴は、笑みすら浮かべられないまま礼をした。
「寿ぎ、謹んで慶び申し上げます」
「立派です。母も常世にて嬉しく思っていることでしょう」
「お姉さまの姿こそご立派かと」
うなずくトウ子には自負が満ち溢れており、開け放たれたふすまから入る陽射しのように、まぶしく真鶴の目に映る。
一方の真鶴が着ている色留袖は灰色で、松と鶴の柄が入っている。三つ紋ではあるが、古野羽家を象徴する花柄の装いをすることは許されなかった。
イグサの香る畳の部屋には二人きりだ。先程トウ子が使用人たちを退室させている。
枯山水にある葉桜を見て目を細めた姉に気付き、真鶴もまた、外を見た。
「……桜も、喜んでいるのでしょうか」
「とても。少しかしましいくらいには。近くの花も、喜びの声を上げてくれています」
真鶴は目を閉じる。集中する。花の声を聞くために。
だが、だめだ。古野羽家の実子だというのに、やはり花たちの声を聞くことはできない。
「真鶴。まだ花の声は、聞こえませんか」
「……はい」
まぶたを開け、姉を見る。
トウ子は茶色い瞳を細めて、厳しい顔つきとなった。
「我々は裏華族が御三家、古野羽家のもの。草花を愛でた木花咲耶姫の力を行使する一族です。それは、理解していますね」
「はい、お姉さま」
背筋を伸ばし、真鶴は首肯する。
裏華族――大正の世ではもはや三つしかない、特殊な家系。世間一般の華族とは異なり、平安時代から神々の力を継いでこの日の国を守ってきた。
天照大御神と月讀命の力を使い、天候を操る一族、陽月家。
須佐之男命の力を使い、もののふや刀に力を与える一族、寿々家。
木花咲耶姫の力を使い、木や花を芽吹かせる一族、古野羽家。
真鶴が知る限り、他にも様々な裏華族が平安からいたらしい。だが次第に力を失い、または失脚し、それぞれ散り散りになったという。
「今は跡継ぎどのもいます。彼ももう力に目覚めていると。ですが、あの花を咲かせられるのは女である我らだけ」
「わかっては、いるんです」
トウ子の強い口調に両手を握り、視線をさまよわせた。
頭の中で、紫色に輝く花が浮かぶ。銀色の花粉を持つ神秘的な花が。
「いつか、真鶴も変わるときがくるでしょう。痛みを伴いますが」
「痛み?」
口調が優しいものとなり、再び姉を見ると、彼女は穏やかなおもてをしている。
「ええ。何かのために変化することは、とても勇気がいることなのです」
「お姉さまが、輝広さまのために変わられたように?」
「そ、それは。真鶴、調子に乗ってはなりませんよ」
「……ごめんなさい」
照れた叱責に、それでもうなだれることはしなかった。真鶴はできるだけ口角を上げ、ぎこちない笑みを浮かべてみせる。
「古野羽家のトウ子ひいさま。輝広さまのお支度が終わりました」
直後、廊下側から声がかかった。使用人のものだ。
呼ばれたトウ子は閉められたふすまを見て、もう一度真鶴へと向き直る。
「離れの鏡台に、母の形見を置いてきました。あれは真鶴が持ちなさい」
「蝶の髪飾りを?」
「姉からの贈り物です」
ささやいてから、「今、参ります」と答える姉は、真鶴にとってやはりまぶしいもののように感じた。
使用人たちが部屋へ入ってくる。誰も真鶴を見はしない。意図して無視されていることがいやでもわかった。
宴席に自分が出ることは禁じられている。トウ子と話すのは、きっとこれが最後だろう。
(お幸せに、お姉さま)
トウ子の横顔に祝いと願いをこめ、思う。
二人を遮断するかのように、障子が閉められた。
残された真鶴は、そっと庭の側へ寄る。白い小石で作られた流水紋に、苔が生えた築山。葉桜は雲のない空にきらめいているが、思念を読み取ることはできない。
「勇気……そんなもの、わたしには」
トウ子の言葉を思い返し、二の腕を抱き締めた。先程は茶化してみたが、姉の言うことがなぜかとても、怖い。
そのとき桜からひらひらと、舞い踊るように一枚の葉っぱが縁側に落ちた。風に吹かれたのではないと気付き、しゃがんでそれを手にする。
「二階ノ客間デ待テ」――
くっきりと刻まれた文字に、目を見張った。父である葉太郎からのものだとわかったからだ。
「お父さま?」
真鶴が認識したあと、字が刻まれた葉は枯れ葉となり崩れていく。
散った葉を手拭いで包み、懐にしまいつつ首を傾げた。
(お父さまがわたしに力を使うなんて、何かあるのかしら……)
この十数年、父とはまともに顔も会わせていない。妙な胸騒ぎがする。
高等女学校を十六で卒業したあとも、二年間、料理や裁縫をして過ごしてきた。しかしそれは全て自分のためだ。家族と別れ、離れで一人暮らすために。日々、必要な食材や最小限の着物は、全てトウ子が用意してくれていた。
――父は、ただただ自分を憎んでいる。
「……二階の客間」
呟き、背後を見た。閉じられたふすまを。
遠くからは、まだ人々のざわめきが聞こえてきている。式がはじまっていない証拠だ。使用人たちも忙しい今なら、二階へ行っても誰とも鉢合わせないだろう。
こくりと唾を飲みこみ、部屋から出た。
日に照らされた通路を一人で行く。子どもの頃、一度だけ来たことのある屋敷の間取りは、今でも変わっていないようだ。
(なんの用で……お父さまはわたしを)
奇妙な不安に苛まれながら、階段を静かに上り切る。鳴ってしまった微かな軋みに、つい辺りを見渡したとき――
「誰か、いるのか」
重苦しい男性の声音が、届いた。
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