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六月ももう終わる。今日は、新月。月の代わりにまたたくのは星だ。
真鶴は加賀男の屋敷にいた。家事を一通り終え、庭で星々が輝く空を眺めている。
『今宵は星が綺麗だの、古野羽の娘っ子』
「はい、樫さま。風も暖かくなってきていますし、そろそろ本格的な夏ですね」
『あたいらは眠る頃合いだ。クチナシ辺りと交代かな』
「寂しくなります、ツバキさん」
幹や葉、花などに触れ、念話をしつつ口元をほころばせた。
『真鶴はもうここに慣れた?』
「はい。まだ戸惑うこともありますけれど、加賀男さまたちがお側にいて下さいますから」
とはいえ、今、屋敷内には自分しかいない。
加賀男は新しい長がおこなっている土淵の再建の話で忙しく、ツキミは今日、みつやとカフェに行っているため、半休だ。
カフェには誘われたが、加賀男の帰りを出迎えたいと思ったため、断っている。
しばらく草花の香りを堪能し、ゆっくりと自室に戻った。
文机の上には手紙が広がっている。書いている最中で草木に触れたくなったため、一度外に出たのだ。
今は昼八つ。そろそろ一度、加賀男が戻ってくる頃だろう。
「お姉さまへの手紙を書いてしまわなければ」
机の前に正座し、真鶴は行灯の光を頼りに筆を手にする。
あの満月の日、全てが終わったのち――
加賀男に下された処分は、『真鶴との祝言を見送ること』だった。
無論永久に、ではない。ヤマタノオロチを止めた真鶴の功績は讃えられるべきものだ、と銀冥たちは結論づけている。しかし、真鶴が咲かせた長雅花は不完全。
感情を全て取り戻すことができたとき。ちゃんとした長雅花を咲かせたとき。
その際は、祝言を挙げることを許された。
いわば宙ぶらりんな立場から、まつろわぬものたちより婚約者として認められたのだ。
真鶴にとってはとても喜ばしいことなのだが、祝言を願っていた加賀男はいっとき、無気力状態に陥ったこともある。
そんな彼を、ツキミやみつやと一緒になってどうにか奮い立たせることができた。今はすっかりいつもの『星帝さま』である。
「……現在わたしは、変わらず天乃さまのお屋敷で過ごしています。まつろわぬものの皆さんに婚約者として認められました……と」
トウ子には以前も簡易に、説明と感謝をこめた文を送ってはいた。最終的に「どうなったか」を報告するため、真鶴は頭を悩ませながら手紙を書いているのだ。
半月が立ち、土淵もようやく落ち着きはじめ、六割以上が復興しているらしい。
「こんなものかしら」
自分で描いた手紙を読み返す。礼は書いた。現状も、挨拶も、これからのこと――加賀男と共に過ごすという決意も、したためた。
「明日、烏天狗さんのところにお願いしにいきましょう」
呟き、糊封状として手紙を完成させる。
実はトウ子にも、輝広にも、長雅花のことだけは説明していなかった。もちろん、父にも話していない。
自分の中で変化を、もっとちゃんとした変化を受け入れることができたなら。
「……咲かせることができる気が、するの」
だからそれまでの辛抱だ。加賀男には我慢をさせてしまうけれど――と手紙を引き出しに入れた、そのとき。
「今、帰った」
何よりも聞きたい声がした。加賀男のものだ。
早足で玄関へとおもむき、真鶴は微笑を浮かべる彼へ、一つ頭を下げる。
「お帰りなさいませ、あなたさま」
「ただいま。今日はこのまま帰っていていいそうだ」
「久しぶりにゆっくりできますね。お茶の準備をしますから、どうぞ、お部屋へ」
「ありがとう、真鶴」
羽織を受け取りながら、微笑んだ。
まつる、と優しく名を呼んでくれることが、やはり嬉しい。
星帝の顔から、加賀男という一人の人間の顔になるとき。それを見るのも、また真鶴の密かな楽しみになっていた。
羽織の埃をとり、手早く緑茶とあんこ玉を用意して加賀男の部屋に急ぐ。
失礼します、と呟き入れば、加賀男が暗がりを不機嫌なおもてで見ているのがわかる。
「あなたさま?」
「……」
「何か、あったのですか?」
加賀男が大きく嘆息した。盆を置き、中の様子を見渡す真鶴の前で、闇が一つ、動く。
部屋の片隅から現れたのは――
「こがね……!」
見間違えるはずもない。友として、加賀男の分身として愛すべき存在が、いた。
「よかった、ここ最近見かけなかったから」
「俺の霊気がようやく安定しはじめた。だから、また出てきたのだろう」
「そうなんですね。こちらにいらっしゃい、こがね」
漆黒の体をくゆらせて、金の瞳で真鶴を見るこがねをしかし、加賀男が手で止めた。
「あなたさま?」
「不公平だ」
「何がでしょうか……?」
「こがねの名を呼ぶのに、俺の名を、真鶴は呼ばない」
拗ねたように、ぶっきらぼうにいう加賀男に、真鶴は呆気にとられた。こがねが頭をもたげ、瞳を得意げに細めているのがしっかり見える。
うつむく加賀男の横に、真鶴は近付いた。
「……加賀男さま」
一音ずつ、愛しさをこめて。
微笑んで。
慕う人の名を、呼ぶ。
「加賀男さま」
「……うん」
少し、照れた様子で加賀男も相好を崩した。
そうすると、加賀男は年相応の顔になる。雰囲気も柔らかく、穏やかなものになる。
得も言われぬ喜びが、真鶴の背中を駆け巡った。相変わらず鼓動が高鳴ってやまない。
加賀男の手が、遠慮がちに伸びてくる。
背中の後ろから左肩に手を回され、そのまま胸板へと真鶴は身を寄せかけた。
こがねが、それを見ている。月のような金色の瞳で、しっかりと。
「いらっしゃい」
真鶴は小声でこがねを呼んだ。
彼は嬉しそうに近付いてきてから、真鶴の太股に頭を乗せ、休む。
真鶴は笑みを崩さないまま、自分の髪を梳いてくる加賀男を見上げた。
「もう……寂しくはないか」
「はい。何も寂しくありません」
心に弾けるは、代えがたい喜びと愛おしさ。その二つに包まれた自分は今、幸せだ。
星空の元、多幸感に包まれながら、加賀男へ笑みを向ける。
花よりも柔らかく、月のようにたおやかな微笑みを。
【完】
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