210人が本棚に入れています
本棚に追加
……結局、真鶴は式に出ることも許されず、宴会に参加することもなく自宅に戻った。
(結婚。わたしは天乃さまの下に、嫁ぐ)
帰路の途中ずっと、突きつけられた事実だけが脳裏をよぎる。
(でも、どうして天乃さまが、こがねのことを知っていたのかしら)
こがねはもしかしたら、あやかしなのかもしれない。あれほど賢い蛇なのだ。そうだったら納得がいく。
「まつろわぬものたちは怖くない」と言ってくれた、加賀男の言葉を想起した。こがねのような穏やかなあやかしたちなら、親しくなることもできるだろう。
一人うなずき、裏口から離れへと入る。少し冷たい風に、草木がさわさわと揺れていた。
『お帰り、真鶴』
『早かったのね。せっかくおめかしをしたのに』
「わたしがおしゃれをしても、意味はないわ」
ヤツデとユズリハの念話に答えつつ、庭の横にある炊事場へと向かう。喉の渇きを覚え、冷やしておいた茶を静かに飲んだ。
改めて、木々が生い茂る庭を見つめた。自分が天乃家に嫁げば、この離れは取り壊されるだろう。大方の見当はつく。
(せめて庭だけでも残してほしいけれど)
内心でため息をつきながら、湯飲みを洗った。
「こことも、さようならするのね」
『真鶴や』
外に出たと同時に、樫の木の思念が頭に響く。
「じいや」
『お前は星帝さまの下に嫁ぐのだろう』
「どうしてそれを知っているの?」
『例えどのような場所であろうとも、我らは芽吹いておるためにな』
「……盗み聞きをしたということ?」
『口が悪い』
だが、樫は否定しなかった。
砂利を踏みしめて樫の木へ近付き、滑らかな幹に手を触れる。
「わたし、天乃さまのところへお嫁に行きます。上手くなじめるか、わからないけれど」
『星帝さまは立派なお方。きっと無下にはすまいよ』
「そうね。みんな、今までありがとう」
『我らは常にお前と共にある。案ずるな』
「……はい」
穏やかな声音に、少し緊張が解けた。
木から離れ、家の中へと入る。荷造りをしなければいけない。それと、簡易な掃除も。
「そういえば、お母さまの形見をいただいたわ」
思い出し、鏡台前へ正座した。抽出を確認してみれば、櫛の他に封筒が入れられている。
中をあらためた。蝶がついた二本足のかんざしは、母がずっとつけていたものだ。
その他には、新二十圓硬貨が数枚と一枚の手紙が入っている。
手紙には達筆な文字で「何かに使いなさい」という文字と共に、トウ子の名前が記載されていた。
「お姉さま……ありがとう。こんなによくしてくれて」
姉の気遣いに、しかし感情は働かない。嬉しいはずだ。だが、顔にも心にも、何も変化はなかった。
封筒を胸に抱き、目を閉じる。
(お姉さまのように、わたしも強く……優しく、ありたい)
加賀男の姿を思い出した。夫となる相手の姿を。例え彼が他に思い人を描いていようと、妻としての役目は果たそう、と決める。
しばらく姉への感謝に思いを馳せ、それから我に返った。
「……身支度をしなくては」
一人呟き、小さなたんすを開く。
身支度、とはいったものの、さして必要なものが思い浮かばない。着るもの数着、それに、姉から与えられた硬貨とかんざしがあれば十分だ。
大きな風呂敷に、姉が差し入れてくれた着物、洋装の類いを畳んで入れていく。洋服は一度も着たことはないが、たんすの肥やしにするのも忍びなかった。
「あとは、掃除ね」
風呂敷を二つほど準備し終えた、そのとき。
藪が鳴る。はっとして振り向けば、いつもは夜に来るはずの友人が、草むらで頭をもたげているのが見えた。
「こがね。だめでしょう、昼に出てきては。また傷を負うかもしれないのに」
真鶴は友を迎えるために、縁側へと向かう。
こがねは、いつものように平然とした様子で、真鶴の方へ寄ってきた。
「これからは手当てしてあげられないの。だから、もう……ここに来てはだめよ」
言って、手の甲を差し出した。こがねは犬がそうするように、冷たい頭頂部を押し付けてくる。
こがねとは、母が病に伏せはじめた頃に出会った。路地裏で子どもたちにつつかれていたところを、真鶴が見かねて助けたのだ。それから数えて十一年。負った傷は、今では見る影もない。
「あなたはあやかしなの? 天乃さまのことを知っているかしら」
とぐろを巻く友人に、平坦な口調でたずねてみる。
「天乃さまは確かに言ったわ。「こがねによろしく」って。あなたと天乃さまはお友達なの?」
問いかけで気分を害したようだ。こがねはつれなく、そっぽを向く。
「答えてくれてもいいのに」
真鶴は一つ嘆息し、陽射しで身を温める友人を見つめた。金色の瞳は閉じられている。
「……わたしは天乃さまのところへお嫁に行くわ。あなたも……来る?」
こがねは相変わらず、日当たりで心地よさそうにしているだけだ。
「そうよね。あなたはきっと、自由でありたいわよね」
真鶴は天を仰ぎ、陽に目を細める。
「今までありがとう、こがね。わたしの寂しさをなぐさめてくれて。天乃さまの家がどこにあるかわからないけれど、また会えたら嬉しいわ」
自分は三日後、どこにいるか不明だ。生きていける保証だって、ない。
だからこそ残された時間、友や草木と穏やかなときを共有したいと、心から思った。
最初のコメントを投稿しよう!