第二幕:天の海に 雲の波立ち 月の船

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 赤い。今日の日暮れは、恐ろしいほどに真っ赤だった。  真鶴(まつる)は少しの不気味さを胸に秘めつつ、風呂敷を持って離れから外に出る。  支度をし、家の清掃をして三日目の(とり)の刻――加賀男(かがお)と約束した日時だ。  祝言(しゅうげん)を挙げるのか、それともしないのか伝えられていなかったため、装いはこの間と同じく灰色の色留袖(いろとめそで)にした。黒髪はいつものように、後ろで緩めの一本縛りにしてある。  振袖(ふりそで)を購入するか悩んだが、掃除などをしている間に、呉服店へ行く機会を逃してしまった。必要に応じて買えばいい、と思った上での着回しだ。  まだ古野羽(このは)家の所有地内ということもあってだろう、近くの四つ角に人気はない。 (出るのが早かった、かしら)  建物にかぶさるように落ちる夕陽を眺めながら、横に置いた荷物へ手を触れたときだ。 「待たせた」  一体、いつの間に側へ来ていたのだろうか。四つ辻の影から加賀男(かがお)が姿を現す。 「天乃(あまの)さま」  真鶴(まつる)は若干驚きつつ、深々と一礼した。  夕映えの道を歩く彼は、亀甲(きっこう)柄が紡がれた大島紬(おおしまつむぎ)の着物と羽織を着用している。頭には黒い中折れ帽があるものの、流行りのステッキは持っていない。  真鶴(まつる)のすぐ前まで来た加賀男(かがお)は、藍色の瞳をつと、下へ向ける。 「荷物はそれだけでいいのか?」 「はい」 「なら俺が持つ。君は手ぶらで構わない」 「お気遣いだけで十分です。自分で、持っていきますから」 「……気にしないでくれ。俺がやりたいだけだ」 「でも」  真鶴(まつる)は小さく声を上げたが、加賀男(かがお)に軽々と風呂敷二つを持たれてしまった。 「ありがとうございます、天乃(あまの)さま」 「礼はいらない。行こう」 「天乃(あまの)さまのお屋敷は、ここから近いのでしょうか?」 「近いといえば近い。遠いといえば、遠い」 「……?」  謎かけのような言葉に、真鶴(まつる)は小首を傾げた。  その間に加賀男(かがお)が歩き出したものだから、慌てて後ろをついていく。  人力車か馬車を用意しているのか、と最初は思った。だが、数歩先で加賀男(かがお)が立ち止まる。  辻の中央で二つの風呂敷を片手に持ち、真鶴(まつる)が来るのを待っているようだ。  追いついた真鶴(まつる)は、周囲を見て何もないことを確認する。 「どうなさったんですか?」 「今から影ヶ原(かげがはら)へ向かう」 「かげがはら?」 「常世(とこよ)現世(うつしよ)の境目にある隠世(かくりよ)。まつろわぬものたちがいる世のことだ。俺の屋敷は、そこにある」  加賀男(かがお)の説明に、真鶴(まつる)は小さく唾を飲みこんだ。  天乃(あまの)家の(おさ)――すなわち星帝(せいてい)という立場であっても、普通に帝都で暮らしているのだと思っていた。そこで、目に見えぬあやかしたちを()べているのだと。  しかしまさか、この世ではない場所に居を構えているとは。見当外れもいいところだ。 「着物の端を掴んでおいてほしい」 「は、はい……」  困惑しながらも、たもとを軽く、握る。  加賀男(かがお)が人差し指と中指だけを立て、空間を裂くような仕草をした、刹那。  めまいのようなものがして、真鶴(まつる)は目をつぶった。  周囲の匂いが変わる。冷たさを帯びた涼風らしきものが、真鶴(まつる)の後れ毛をさらった。 (草木の香りが濃い……?) 「もう大丈夫だ。目を開けても構わない」  優しい声に、怖々とまぶたを開ければ、そこに広がったのは―― 「ここ、は」  一面の緑が目に飛びこんでくる。巨大なブナやナラが乱立し、梢を風に揺らしていた。樹齢百年はゆうに越える木々たちの周囲を、青白い灯火が仄かに照らしている。  辺りは真っ暗で、真鶴(まつる)は戸惑いながらも天を見た。欠けた月もまた、大きい。雲にも近い鼠色の霧が空にはたなびいている。 「ここが、影ヶ原(かげがはら)ですか?」 「影ヶ原(かげがはら)蛇宮(へびみや)。俺が住み、他四区画の中心になっている場所だ」 「さっきまで外は夕暮れだったのに……」 「ここに日は差さない。とこしえの夜なんだ。月は満ち欠けするし、星も出るが」 「あの灯火はなんでしょう」 「鬼火だ。屋敷にいる鬼の子がつけたもので、無害だから安心してくれ」  真鶴(まつる)はうなずき、静かにたもとから手を離した。 「鬼火があるとはいえ、かなり暗い。足下に気をつけてほしい」 「わかりました」 「怖くは、ないか」  加賀男(かがお)の問いに、真鶴(まつる)は無表情で首を横に振る。 「大丈夫です」 「……そうか」  加賀男(かがお)は呟き、くねった道を歩き出した。煉瓦で舗装されていると思しき道は、真鶴(まつる)にとって歩きやすい。 (へびみやという場所なのね。蛇たちが集まるところなのかしら)  こがねがいるかも、と近くの藪を見たりしても、何もなかった。時折ふうわりと浮き、発光する鬼火が足下を照らすだけ。  熱くもなく、まとわりつくこともしない灯火は、恐れを呼び起こすには至らない。  加賀男(かがお)の大きな背中を見た。彼は荷物を持ってくれている上、ずいぶんゆったりと歩を進めている。自分に配慮してくれていることが、いやでもわかった。 (寡黙(かもく)だけれど、お優しい方)  素直に思う。心遣いで十分だ、とも。だが同時に―― (わたしに気を遣わないで、天乃(あまの)さま。その優しさは他の方に)  うつむきながら歩いて、念じる。  与えられる気遣いと優しさに甘えてはいけないと、悟られぬよう小さく吐息を漏らした。
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