第5章 監視る -みまもる-

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第5章 監視る -みまもる-

「ねえせんせい?」 ニくんの大きな丸い瞳。 この世の汚いものなんて知らないかのような。そんな目で私を見つめても、ここは君が思い描いているような素敵な場所じゃない。 名前も教えられず「イチ」「ニ」なんて呼ばれて、研究者たちはまるで人とも思っていないような扱いをすることもあった。 「なあにニイくん。」 短く切られた爪、外に出られないように靴も与えられていなかった。眠るときはマウスピースをつけられ、未だに赤ちゃん用と同じ、周りに柵のついたベッドだった。かわいそうという感情を持つのが正しいのか。どうやって接するのがこの子たちのためになるのかわからなかった。 「ぼくらのママは、いつお迎えに来てくれるの?」 あなたたちの母親はもう来ない。父親を襲ったあなたを恐れ、世界初の病気にかかったと知って捨てたような人。口に出してはいけない。病気のことも、母親のことも。医者からの指示だった。毎日の生活を監視され、部屋から出ることは許されず。壁一面の鏡の裏には常時観察する研究者がいた。 「そうねえ。ママは今忙しいから、私の所にいて欲しいってお願いされたの。だからママが忙しくなくなるように、応援してあげないとねえ。」 そんな呪文を唱えるうちに、時が経った。 岡崎兄弟。「イチ」くんは今年十五歳。「ニ」くんはまだ十三歳だ。イチくんが四歳の誕生日を迎えて1か月、母親が家に帰ると父親が血だらけで倒れていた。兄弟はそのそばにいて、二人とも口の周りは真っ赤に染まっていたのに無傷だったという。父親は失血死し、その後の日本血液研究センターの調べによって兄弟二名が世界初の患者だという報告を聞いて、母親は突然姿を消した。二人はそのまま第一号の被験体として国で預かることになったわけだが、本人たちに病気のことを話すのは医者の判断に委ねられた。当面は本人の精神的負担を考え、ママはお出かけ中、というように説明することが周りの職員に徹底された。状況から言って、兄弟は実の父親を襲った犯罪者。殺しかけていたのだ。ただその記憶がなく、そして悲しいことに幸せな家族の時間は覚えていた。この部屋で生活するようになってすぐの時には泣いたり、夢でうなされたりもしていたが、最近では私を慕うようになった。きっとこれが、今の二人にしてあげられる唯一のことなのだろう。 この病気の研究に携わる人間は様々な場所から集められたいわばエリート集団。国営の機関である日本血液研究センターが主な出資を行い、それぞれの場所から研究員という形での引き抜きを受けた。私はここに来る前、英才教育系の私立保育園の園長をやっていた。二人に関しては週に一度、毎週水曜日の夜中2時に会議があった。ある日、兄弟のカウンセリングを担当していた精神科医が話し出した。 「もしかしたら、二重人格のようなものかもしれません。」 「どういうことですか?」 お医者さんが前のめりになる。 「二重人格のもう一人の人格のように、貧血で気性の荒い人格が現れる。その時の記憶はなくて、本人たちも周りと同じように深層心理ではもう一つの人格を恐れているのでは。」 誰も何も言わなかった。二十人ほどの大人が沈黙し、みんなが周りを伺った。それほどまでに、未知な病気であった。 それからは二重人格のテストも行ったものの、何もわからず時は過ぎていった。小学校にも通わせることなく、外にも出さず、研究室の敷地内で一生を過ごすことが決まった。その後同様の症状が発生する人もおらず、計算では既に最大でも三十歳までは生きられないだろうという予測が立っていて、そのためマスコミ発表も足踏み状態だった。 幸い大きな発作もなく、私の役目は義務教育期間で終了することが決まった。それから二人は研究所内での実験などに参加しながら、一生を過ごすことになるという。 最後の日、兄弟はこれでもかというほど泣き、私との別れを惜しんでくれた。それだけで、私が長い時間をかけてやってきたことが無駄ではなかったことがよくわかった。イチくんは木に登ったりかくれんぼをしたりと外交的な性格だが、弟にとても優しい良き兄だった。ニくんは大人しく、人の言うことをよく聞いて動く慎重な性格だったが、とても頭の良い勉強熱心な子だった。二人とも私に反抗したことはなく、とても穏やかな性格だった。そして一度も薬をサボらず、カウンセリングにも真面目に参加し、薬も守って飲んでいた。 「お医者様に言われたことはしっかり聞くのよ。」 「わかった。」 「お薬はちゃんと飲むの。忘れないで。」 「もう!わかってるよ!」 二人とも大泣きだった。 最後に私が車で帰る時、二人は敷地の中を車を追いかけて走っていた。敷地の門の前で、見えなくなるまでずっと手を振ってくれていた。約十一年間、私にはどうしても二人が人を襲った子には見えなかった。
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