第1章 発病る -はじまる-

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第1章 発病る -はじまる-

夏の暑さに負けじと張り上げた蝉の声が窓の隙間から聞こえていた。 色褪せたピンク色のカーテンの端っこが、風で少しだけ揺れている。 肌に張り付いたTシャツが気持ち悪くて、胸の部分をつまんだら手が滑った。指先を見ると、血で染まっている。 独特なぬめり気と匂いと、少しだけ感じる温かさが新鮮だった。 その液体の艶に急激な喉の渇きを感じた。 舐めてみると舌に広がった鉄の味は独特で、枯渇した身体に染み渡るような瑞々しさだった。新鮮だった。夢中で舐めた。 しばらくして、汗が額を伝って口に入ってきて我に返った。気づけば床に広がった血の海を必死で指にとって舐めていた。 ふと目に入ったのは、血の海の先に転がった男の身体。顔は見えない。 白いシャツの床についたところから赤く染まっているのが見えた。 染まった赤は床に広がった血よりも鮮やかで、むしろそのシャツから床に広がっているような違和感があった。 右半分だけ血の海に浸かった身体に傷はなく、どこから出血しているのかよくわからなくて、少し近づいてみた。 近づくとその人の指先が少しだけ動くのが見えた。 「うわ、」 怖くなって立ち上がると、その部屋の異様な雰囲気に気づいた。 十畳ほどの部屋の真ん中に広がった血の海は離れてみるとどす黒くて、その中に横たわった人から出血したものだとわかった。頭が痛くなる。目眩がする。うるさくてしょうがない蝉の声を少しでも和らげようと窓を閉める。 途端に静寂が訪れると、異様な雰囲気はさらに増した気がした。 外に行きたがった空気を部屋中に充満させ、湿って重たい何かが足元にまとわりついているようだった。 気温のせいなのか、日本特有の湿度のせいなのか、それともそこら中に広がった血の匂いのせいなのかもうわからなかった。 はぁっと息を吐くと同時に、障子で仕切られた隣の部屋からすすり泣くような声が聞こえた。障子を開くとそこは畳で、子供部屋のようにおもちゃがたくさん転がっていた。壁に沿っておかれたカラフルな箱の横に、五歳くらいの小さい男の子が膝に顔を埋めてしゃがんでいた。 「あ、」 思わず声を上げる。男の子も肩をびくつかせた。恐る恐る近づくと男の子は顔を上げた。目が合った瞬間、男の子は目を閉じて耳を塞ぎ、大きな声で叫んだ。 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!誰にも言いませんから!」 それじゃあまるで。 まるで僕が悪いみたいじゃないか。 まるで僕が、この人を殺したみたいじゃないか。 少しずつ後ずさり、障子に背中が当たって大きな音がした瞬間、逃げるように走る。玄関に向かう。相変わらず男の子が泣いている声が耳にこびりつく。急がなきゃ。考えるより前に必死に逃げていた。 扉を開けた瞬間、蝉の大合唱が降りかかる。まるで僕を責め立てるように響くそれは、僕の罪悪感を余計に煽った。 大通りに出ると、車がたくさん走っていた。蝉の声は少し遠ざかり、男の子の泣き声も聞こえない。古びた信号の切り替えボタンを押して、青に変わるのを待つ。自動車用の信号がようやく黄色から赤に変わり、軽快なリズム音と共に歩行者用の信号が青に変わった。 踏み出そうとした途端、後ろから誰かがぶつかってきた。 「あ、すみません。」 遠のく声。振り返ろうとして、急激な眠気を感じた。頭が重くなる。頭には信号の軽快なリズムと、蝉の声が響く。目の端に捉えたガードレールに捕まろうと手を伸ばしたが、虚しく宙を掻いた。
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