第1章 発病る -はじまる-

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ピアノの音色はね、心を落ち着かせる効果があるのよ。 そんな優しい声を、思い出した。 だんだんと意識がはっきりしてくる。僕は薄っぺらい毛布をかけられてソファに寝ていた。昔のことを思い出したのは、多分クラシックが流れていたから。その優雅な雰囲気とは裏腹に、雑居ビルに無理やり家具を並べたような一室、入り口に近い台所に紺のパーカーを着た細身の男が一人、背中を向けて立っていた。 「う、」 起き上がろうとすると思わず呻き声が出た。口に広がっていた鉄の味に吐き気がする。その声を聞いて男が振り返る。目は細く口も引き締めているからか、少し顔つきは厳しそうな印象がある。しかし綺麗にセットされた髪型や肌を見ると清潔感があって、クラシックと同じくらいこの部屋にいることの違和感があった。 「起きたか。そのまま寝とけ。」 声は低め。少し早口。色々考えた挙句、なんだったんだっけと思い返し、まるで夢の中のように何も覚えていなくて思考を放棄した。 「あの、あなた誰ですか。申し訳ないけど僕は何も知りません。」 この人は誰なんだろう。急に不安になる。もしかしたら僕は捕まって、今は監禁中なのかもしれない。僕が目を覚ましたからこのまま脅されたりするのかも。そう思うと、目を覚ましてしまったことを後悔した。男を見ると、コンロの方を向いているから今なら逃げ出せるかもしれないと思った。 外に出て、とりあえず走ればいい。 立ち上がって走り出そうとしたら、隣にあったらしい銀のポールのようなものがバタンと倒れた。先を見ると赤い液体の袋が付いていて、そこから伸びたチューブは僕の左腕に繋がっていた。恐怖に言葉が詰まる。医療機関でもないのに、こんな雑居ビルで輸血されているなんて、普通の状況じゃない。もしかして、とんでもない人に捕まってしまったのかも。ちらっと男の方を見ると、さすがに気づいたようで近づいてくる。 「あー。倒れてる。言っただろそのまま寝とけって。安静にしとかないと、君死ぬよ。」 点滴をもとに戻して、液体の入った袋を揺らして落ち方を確認しながらそう言った。 「死ぬ」その言葉に固まってしまった僕の前に、男は先ほどから作っていたらしいスープを持ってきた。 「とりあえずこれ飲め。今から話すから。」 そう言ってソファの前に座った。 渡されたスープはコンソメのような色と匂いで、とても食欲を誘った。入念に確認する僕を見て男は笑った。 「そんなに怪しまなくても。一応俺は、君の命を救った男やで。」 そう言って僕に渡したスープを取って一口飲んだ。とても美味しそうに見えて、恐る恐る口に運んでみる。飲み込んですぐに口に苦味が広がった。 「苦い、」 そう呟くと男は「やっぱりな。」と言って僕の正面に座り直した。 「今から言うこと、信じられないかもしれないけど、最後まで聞けるか?」 男の目は真剣で、本題に入ったのだと感じた。 「さっき何があったのか。俺は知ってる。聞いたらここで君のことを俺が保護できる。ただ君自身も、その事実を背負って生きていくことになる。でももし聞きたくないというのなら、今すぐここから出てってくれ。」 ゆっくりと指差したのは先ほど逃げだそうとした扉。さっきまではあんなに逃げたかったのに、急に怖くなる。訪れた沈黙の間で、ポツポツと落ちる赤い液体が僕の身体に一定のリズムを加えていた。 「聞きます。教えてください。」
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