第1章 発病る -はじまる-

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「聞きます。教えてください。」 男はニッと笑って立ち上がった。壁際に置かれていた透明なボードを持ってきて、マジックペンを持って僕の方を向いた。 「ならまず君のことを教えてもらわないと。名前とか。諸々言って。」 「名前、は、葉山大智です。葉っぱの葉に山、大きいに知ると日の智です。」 男はすらすらと書いていく。綺麗な字だ。書いている背中を見ながら、個人情報とか教えない方がいいかもしれないという臆病な自分を、この人は信頼出来る!と無責任な自分が抑え込んだ。どのみち警察沙汰になる可能性は高いのだから、誰か信用できる人はいてくれないと困る。 「出身とか、最終学歴とか、仕事とか、とりあえずなんでもいいから、覚えてること。」 「えっと、出身は、東京です。江東区。今は二十三歳で、大学を卒業して、フリーターしてます。彼女はいなくて、バイトはレンタルビデオ店とファーストフードです。一応、就活中でもあります。」 話しながら、落ち着いてくる。なんだ、ちゃんと覚えてるじゃないか。男は箇条書きで、僕の話したことを書いた。書き終わって振り向いた男は、先ほどより穏やかな表情で諭すように言った。 「じゃあ葉山くん。君はなぜあそこにいた?」 あそこ。その表現で全てフラッシュバックする。 「あそこは、実家で、久しぶりに弟に会って、」 ピンクのカーテン。男の子。蝉の声。暑い部屋。血の海。一つ一つが現れて消える。なんで、いつから、あの人は誰。昔映画でそのシーンを見たかのように、情景は浮かぶのに感情と切り離されたような感覚。何も覚えていない。本当に、自分の記憶かどうか疑いたくなる。 「覚えて、いません。」 男は僕の目をまっすぐに見つめていた。僕の心の中まで見透かすような。自分でも忘れていることがないか必死で思い出そうとする。 「あ。」 舌に広がった苦味、これはまるで、さっきの。 「どうした。」 男はゆっくりと聞き返し腕を組んだ。その姿に少し怖くなって、逡巡したら男が一歩こちらに踏み出した。手の震えを反対の手で抑え込もうとしてもどうもうまくいかなくて、力を入れて拳を握った。 「血を、舐めた。」 言葉にしてからもっと怖くなって拳を口に押し込む。手の震えも止まらない。久しぶりに帰省した。そこには弟と母がいて、その後喋って・・・。で、何をしたんだっけ?気づいたら血の海に倒れた母。隣の和室にいたのは、弟だ。血が美味しそうに見えて舐めた。目の前に倒れた母を置いて、あろうことかその血を飲んだんだ。なんで。上手く呼吸ができない。スープの苦味が血の味を思い出させて、途端に胃の中身が脈打ったように上に上がってくるのを感じた。咄嗟に近くにあった水色のバケツを抱えた。 口から出てきたのは、真っ赤な血。血。血。 息ができるまで吐いてから、口を拭いた手を見て恐ろしくなった。昔アニメで見たような、ドロッとした血が左手の第二関節のあたりに乗っていた。 うわぁっと言って放り投げたバケツは倒れて中の液体が流れ出るのが見えた。男は僕の横に座り背中を強くこすった。そのせいで自分の震えを感じる。寒くなる。先ほどかけていたブランケットを肩に強く巻きつけた。 「今全部出したから。これで少し楽になるんじゃないかな。」 さっきよりも優しくて包まれるような声だった。 「僕は、何を。」 唇も震える。声が上ずる。歯がなっているのも感じた。 「君は、血を舐めたんだ。それはわかるな?」 小さい子を諭すように男は言った。小さく頷く。 「そしてさっきのスープ、君は苦味を感じると言ったよな?あれ、普通に売っているコンソメスープだよ。少しだけ血液が固まるのを阻害する薬を入れたけど、それは無味無臭だ。」 今まで味覚や嗅覚に不自由したことはないし、そんなきっかけも特にないはず。男は腑に落ちてなさそうな僕を見て、それからまだ落ち続けている点滴を見て、ゆっくりと言った。 「君は発病した。」 耳にこびりついた蝉の声が、どこからかまた聞こえ出した。 発病。はつびょう。脳まで言葉が届かなくて、下に下に言葉が落ちていく。からっぽになった胃に何か重たいものが入ったようだった。 「病気。」 振り絞った喉からはその一言しか出てこなかった。 「説明する。」 男は立ち上がって壁沿いの本棚からファイルを持ってきた。 「君は、血球欠乏性貧血という病気だ。普通の貧血、いわゆる鉄欠乏性貧血と違ってだんだん発症するものでもないし、血液検査ではわからない。まだ未知の病気でもある。」 ファイルを開き、【病気について】と書かれたページを開いて渡された。 「あなたは誰なんですか。」 疑問をどこから解消したらいいかわからず、そう尋ねるのが精一杯だった。 「俺は、矢田直樹だ。本業はフリーのライターだけど、裏でこの病気の研究をしてる。本当はこの研究をしてる国家機関があるんだが、そこで働いてる人間じゃない。」 矢田が言うには、名目上は「日本血液研究センター」といって人工透析や輸血に関する研究や開発を行っていることになっているらしい。そこのもっとも中枢にある秘密の部門が「血球欠乏性貧血」に関しての情報を集め、研究しているという。まだ病気の存在が一般には発表されていないのは、発症のプロセスがはっきりと解明されていないためにパニックを避けるためだという。 「君は今のところ、その珍しい病気の発病者だ。つまりこの建物を一歩出た瞬間、君を一般社会から隔離し、保護下に置こうとする者が次から次へと君を襲うだろう。」 矢田はそう言った。学生時代に友達と盛り上がっていた特殊能力のドラマに同じようなセリフがあった。特殊能力を奪い合う人間たち。それから逃げるために必死に特殊能力を使う者たち。貴重なサンプルと言われる人種。 「矢田さんはなんでこの病気の研究を?」 そういってめくったページに、患者一覧が載っていた。一番上には、「矢田」の名前。 「え、矢田さんも、患者?」 「そうだ。幼い頃に、この研究所から逃亡した。」 だからか。対処も、治療法も、経験してきたということなのか。 「明日ここを出て別の場所に行く。君を匿った時に防犯カメラに映ったから、居場所がバレる可能性がある。」 台所に向かった矢田は、コンソメスープのカップとバケツを持って行って洗い、手も洗っていた。 「お前もシャワー浴びてこい。さっきから血なまぐさいぞ。」 笑った矢田の口の端から覗く八重歯は、厳つめな顔をとてもチャーミングにさせていた。 「ありがとうございます。」 突然投げられたバスタオルは、新しい匂いと感触で急に安心した気持ちを思い出した。 きっと今の僕には、この人を信じる道しか残されていない。
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