9 エピローグ

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 参道に積もった雪を見つめたまま、奈々緒は静かに言う。 「いえ……何も」 「そうか……」  確かに彼女の言う通り、この神社にもあの夜のような禍々(まがまが)しい気配は感じられなかった。  その後、御神体の(まつ)られた本殿へと行くと、神棚には三種の神器のうちの霊石だけが置かれていた。  手を合わせて神棚に祝詞の言葉を唱えた後、奈々緒は顔を上げる。 「刀と鏡は失いましたが、この霊石だけでも残されたのは幸いでした。霊石は神が隠れ住む場所だと言われているので」 「神が住む……」  呟く私の頬を、山から吹き下ろしてきた少し冷たい風が(さす)っていく。  あの時、この頬を何度も伝っていった残化の血の涙を思い出し、私は口を開く。 「祈祷所に現れた時、奴……残化は、武科由羽でもニラヤでもなく、人間だった頃の本来の自分の姿で現れた。おそらく奴は覚悟していたんだろう。だからこそ、最期は本当の自分でありたいと思っていたのかもしれない」 「残化が……」 「奴は最後まで人間のことを知りたがっていた。人間がなぜ人を信じ、人を守り、人を愛おしむのか、を」 「人間……を」 「ああ。もし人々の憎悪にひとつだけ抗うことが出来るとしたら、それはきっと(ゆる)しなんだろう。奴が俺を殺さなかったのは、最期にそれを伝えたかったからじゃないかと思うんだ」 「赦し……」  そう囁くと、奈々緒は狩衣の裾を手で払いながら静かに立ち上がる。 「瀬野さん、もう一度、祈祷所まで一緒に来て頂けませんか。もしかすると……残化の残した痕跡が見つかるかもしれません」 「ああ……それは構わないが。でも残化の痕跡とは?」 「……」  何も言わず、奈々緒は本殿を出てゆっくりと祈祷所へと通じる廊下へ向かっていく。  その後に続くと、あの時と同じように、ひっそりと静まり返った細い廊下の先に木製の扉が見えた。  古びた扉に手を掛けた奈々緒が言う。 「祈祷所は、あの時のままです。私以外には誰も足を踏み入れていません」 「……」  軋んだ音を立てて開いた扉から、窓のない真っ暗な祈祷所の中にひとすじの光が射し込んでいく。  結界に使っていた五芒星のあった場所には、三方と呼ばれる小さな木の台の上に、お神酒と(さかき)の葉が供えてあった。 「もう結界を作る必要もないので、普通の神事に使われる供え物だけです」  そう告げると、奈々緒は燭台に一本の蝋燭を灯す。  仄かな蝋燭の光に照らされた室内は、あの時と何も変わっていなかった。壊れた神棚も、残化に砕かれて粉々になった神鏡も。 「鏡も……そのままで?」 「ええ、もう何も力は宿っていませんから。人間が頼り続けてきた神の力も……残化とともに消え失せてしまいました」  奈々緒は、二本目の蝋燭に火をつける。  残化が黒い塵となって砕け散っていった床の方に目をやると、そこにはもう黒い影の跡は残っていなかった。  次第に明るくなっていく部屋の中で、唯一、これまでと違う気配に気付く。 「……」  それは、真新しい血の臭いだった。
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