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「この……臭いは」
部屋の中を見渡すと、ぼんやりと薄暗い部屋の片隅に、鈍く輝く何かが落ちているのが目に入る。
ゆっくりと近付いていくと、それは赤い血に濡れた一本の小刀だった。
「これ……は」
膝をつき、仄かな蝋燭の灯りに照らされたその刃に触れる。指先にべっとりと残る赤い色は、やはり血痕だった。
「どうして……こんな」
顔を上げると、その小刀の落ちていた床の周辺には真っ赤な血溜まりが出来ていた。そして明かりの届かないその先に、拳ほどの大きさの何か赤い塊が落ちているのに気付く。
「あれは……何だ?」
手を伸ばそうとした時、背後に立つ奈々緒の声が聞こえてくる。
「残化は……怨念の化身でした。彼女は、愛する家族を失った憎しみから生まれてきた」
「奈々……緒?」
振り返ると、奈々緒は灯した蝋燭の炎を静かに見つめていた。その光が、彼女のか細い姿を薄暗い部屋の中に浮かび上がらせていく。
奈々緒は、炎の明かりに揺らぐ自らの手を見つめて呟く。
「その気持は、私も同じでした。あの夜……糸切村で父が殺された時、私の心の中に湧き上がってきたのは、残化に対する憎悪の感情だけでした。私から全てを奪った残化が……その運命が、憎かった」
「それは当然だ。肉親のあんな酷い姿を見せられたら、誰だって普通じゃいられない。君は何も悪くない。もう残化は死んだんだ、君が自分を責める必要なんてない」
立ち上がってそう告げる私に、奈々緒は僅かに目を細めて返す。
「……分かっています。けれど、一度心に巣食ってしまったこの感情に触れる度に、抑えきれない何かが自分の中に芽生え、脈々と息づいていくのに私は気付いてしまった」
「……」
「残化から、私を捨てた本当の両親を殺して喰ったという話を聞いた時、正直、私は安堵したんです。これまでずっと胸の内に残り続けてきた苦悩から、やっと解き放たれた気がして。殺された実の親に対して、何の同情する感情も浮かんでこなかった。むしろ……それが私を捨てた報いだとさえ思ったんです」
「奈々緒……」
「私は残化の手によってこの命を救われたんです。あの……憎むべき残化の手によって。そう、私の心のどこかにも、紛れもない憎悪が存在している。誰かを妬み、怨み、陥れようとする悪意。そんな赦されざる憎悪の感情が……私の中に、今も黒い染みのように広がっているんです」
「奈々緒……君は」
「人は誰かを犠牲にして、何かを傷つけて生きている。だとしたら、その罪を背負い続けている限り……、残化は誰の中にも巣食い続けていく」
憂いを帯びた表情でそう告げると、奈々緒は自分の装束の胸をはだけて見せる。
そこには……心臓のある場所を中心にして、大きく裂けたような赤い十字の傷跡が残っていた。
「そ……そんな」
茫然とする私に、奈々緒は真新しいその十字の傷を指でなぞる。
「私もまた、購うことの出来ない罪を背負っています。残化がこの場所で消えていったあの時から……憎しみという罪を」
奈々緒の瞳から溢れ出した涙がその頬を伝い、赤い十字の傷跡に次々と落ちていく。その度に、その傷跡からは切り裂いたばかりのように血が滴っていく。
「私は……昨日の夜、人としての命を捨てたのです。生贄にされた残化と同じように。その短刀で自らの胸を切り裂いて」
「奈々緒……。君は……まさか」
慌てて床に跪いた私は、小刀の近くに落ちていた赤い塊を手に取る。鮮血に塗れたその肉と血管の塊を見て、それが何なのか、ようやく私にも分かる。
それは……奈々緒の心臓だった。
「そ……んな。嘘……だ」
愕然と血溜まりの中に膝をつく私の目の前で、奈々緒の体が次第に黒い粒子に覆われていく。
「私には……赦すことできなかった。この運命を。呪われた宿命を」
その頬を伝う涙が、いつしか赤い血の涙へと変わっていく。
「奈々……緒」
「誰かを犠牲にして、次なる憎悪は生み出される。そう、誰かの心に憎悪が宿り続けていく限り、残化はまた蘇る。それが止むことはない。永遠に」
「な……奈々緒!」
伸ばした私の手をすり抜けるように奈々緒の輪郭が霧状に拡散し、その姿を失った奈々緒の黒い粒子が空中に消えていく。
「ま……待てっ! 奈々緒っ!」
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