若様

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うなだれて、旦那様の部屋から出て来た 若奥様の耳に、若様とつうが 『小学』を素読する声が聞こえてきた。 漢文の書物など私でさえ読んだことがない… あのような書物を読ませれば、 己は賢いと、あの娘はますます増長するであろう。 若奥様は、今度は夫である若旦那様に訴えた。 「あなた、若様ももう12歳でございます。 そろそろ、嫁の事をお考えくださいませんか? 私の実家の遠縁に、良い娘がいると、 母から聞きました。10歳だそうでございます。 若様と見合いをさせてはいかがでしょう?」 「ひとり息子だから、確かに早い方が良いな…。だが、それは、旦那様がお決めになることだ。 私は養子であるし、まだこの家と庄屋を継いだわけではない。私たちの考えだけで物事を進める訳にはいかない。 旦那様には、お話したのか?」 「はい。ですが、もう少し待てと仰って。 つうを若様の嫁にしたいとお考えなのではないかと、心配なのでございます。」 「つうは、良い娘ではないか。 与ひょうも、幼い頃から旦那様に良くお仕えしてきてくれている。」 「ですが、庄屋の嫁となれば、上の方々とのお付き合いもございますし、旦那様もお殿様にお目通りになることがございますでしょ。 ですから、やはりそれなりの家柄の娘でなければ、と私は思うのですが。」 「まぁ、そういう考えも一理ある。 私からも折を見て旦那様にお話しておこう。」 「なるべく早くお話しなさって下さいね。良い娘は、他の家でも迎えたいはずですから。」 「そうだな。」 夕方 つうは、黄昏行く空を見上げていた。 あ、一番星! 「つう、何をしているのだ?」 「若様。空が綺麗だなと見ておりました。ほら、一番星が見えますよ。 あ、あちらにも星が。 さっき、鳥が二羽で飛んでおりました。 渡り鳥のようなのに、群れから遅れてしまったのでしょうか。」 「ならば、その二羽は、きっと 番(つがい)であろうな。」 「なぜそう思うのでございますか?」 「どちらかが怪我でもしたのであろう。 普通は、怪我をすれば置いて行かれてしまう。 遅れれば、群れ全体が冬越え出来なくて死んでしまうからな。 だが、つがいならば、見捨てられずに、 傷が癒えるのを待っていたのかもしれぬ。 番とは、人で言えば夫婦だから。」 「群れに追いつけると良いですね。」 「つうは、優しいな。鳥の心配までする。」 「若様もお優しいです。 つうに学問を教えて下さいます。」 「それは…、私の勉強にもなるからだ。 別に、優しいわけではない。 ただ…」 「なんでございますか?」 「つうと一緒に学ぶのは楽しい。 どうせ学問をするのなら、イヤイヤするより、楽しい方が良いではないか。」 「左様でございますね。 私も、若様とご一緒に学ぶのは楽しゅうございます。」 「そうか。良かった。 でも、もう直ぐ山に帰るのだな。 山の暮らしが好きなのか? 村に居れば、色々な物が買えるし、 稽古事もできる。 ずっと、居れば良いのに。」 「申し訳ございません。 私は山で育ちましたので、やはり山の暮らしが好きなのです。 母の墓もありますから、毎日お参りが出来ます。 木の実を、取りに行けますし、 花も咲きます。 山の人は皆優しいです。 静かですし。 村は人が多すぎて、やかましくて、 少し疲れます。」 「そうか。私は山に行ったことがないので、わからないんだ。 つうの母は、亡くなったのだな。」 「はい、ほんとうの母ではありませんが。 私は捨てられていたようです。 母の墓は家のすぐ前にあって、 私も、父も毎日朝晩手を合わせに行きます。 父がある朝墓に手を合わせに行くと、墓の横に籠があって、中に私がいたそうです。」 「それで、うちの屋敷で預かったのか。」 「はい、父は子どもを育てたことがなく、私も乳飲み子でしたから。 でも、血は繋がっていなくても、 父と母は、私のほんとうの両親と思っております。」 「与ひょうは、つうのことを、とても大切にしているからな。」 「私も父と離れがたく、母の墓がある家から離れがたく、行儀見習いは、 お断りするつもりでした。 でも、今は良かったと思っています。 若様とお会いできたので。」 少し恥ずかしそうに、つうはそう言った。 「また、来月つうが来るまでに、たくさん学んでおく。教えられるように。 つうも、病気などせず、達者で過ごせよ。」 「はい。」 こうして、行儀見習いの七日間は、 あっという間に終わり、 つうと与ひょうは、山に帰っていった。 若奥様は、やっとこれで目障りな娘が居なくなってイライラする事もないと安堵した。
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