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若奥様
数日後
与ひょうは、おつうを連れ、庄屋様の屋敷に行った。
今日から、おつうの行儀見習いが始まるのだ。
しかし、庄屋の若奥様、若様の母は、
あまりこのことを喜んでいなかった。
(いくら亡くなったお嬢様に似ているとはいえ、そのような下賤の者を
屋敷に入れて行儀見習いさせるなど…
しかも、屋敷に居る時は、若様の妹として扱うようにとは、
旦那様は何をお考えなのか…)
おつうが若奥様の所に挨拶に行った。
「つうと申します。
本日より、行儀見習いのため、
お屋敷でお世話になることになりました。
よろしくお頼み申します。」
「お前がつうか。
旦那様より、若様の妹として扱うようにと言われております。
ですので、そのようにいたしますが、
若様とは立場が違うことを弁えておきなさい。
まず、その粗末な着物を着替えなさい。
この屋敷には、相応しくありません。
そこに、お前の着物を用意してあります。」
「この着物は、子が生まれたら着せようと、母が大切に仕舞っておいてくれた物です。
私には大事な着物ですし、
厨での仕事や裁縫を教えていただくには、
そのような綺麗な着物ではもったいないです。」
「目上の者に口答えするものではありません。」
その時、与ひょうが来て申し上げた。
「若奥様、この度は、つうがお世話になります。
その着物は、亡きお嬢様が里山の農家に預けられていた頃、お召しになっていた物をいただいて、亡き妻が大切に仕舞って置いた物でございます。
旦那様が御覧になりたいかと思い着せて参りました。」
「そうですか。
捨てはいたしません。
ただ、今日は、これからお茶の稽古をしようと思っていたので、その着物では余りに粗末なので着替えよと申したまで。
自分の部屋で着替えておいで。
大切な着物であれば、仕舞っておくように。」
「はい、分かりました。
では、着替えて参ります。」
「それでは、私も失礼いたします。」
(まさか、旦那様があのように粗末な着物を娘に与えるとは…。
まぁ、農家に預けるのに、
着飾る必要もなかったのか。
療養のために預けていたのだから。
それにしても、いちいち口答えして、忌々しいこと。
お茶の稽古で、厳しく躾けてやらねば…)
「若奥様、着替えて参りました。」
「では、茶室に参りますよ。」
「はい。」
「お前、茶を習ったことは?」
「ございません。」
「では。道具の名前から教えます。
一度で覚えなさい。」
「はい。でも、道具の名前は、
だいたい分かります。」
「それでは、言ってごらんなさい。」
「はい。これが茶碗、茶杓、柄杓、棗、茶巾、茶筅、蓋置き、建水、水差しでございます。」
「では、平手前をするのに、
あと必要な物は?」
「釜と袱紗、菓子入れ、取り箸、
お菓子の種類によっては黒文字も必要です。
客の練習には、懐紙と扇子も必要です。」
若奥様は驚いた。
「お茶の稽古をしたことごないのに、なぜ知っておる?」
「竹細工を父が作っておりますから、自然と覚えました。竹を使う道具が多いので、他の物も一緒に覚えました。」
(与ひょうは、お嬢様の守り役をしていたという…。
お嬢様から教えられていたのかもしれぬ。)
「道具の名前が分かるのであれば、
茶の稽古と言われずとも、教えられていたのかもしれぬな。
お点前の準備、出来るところまでやってみなさい。」
「はい。菓子鉢とお菓子はどちらにございますか?」
「厨(くりや)にあるので、そこに居る者に聞くが良い。」
「畏まりました。」
つうは、厨に行って
「申し訳ございません、これからお茶の稽古をいたしますが、若奥様から
菓子鉢とお菓子を厨から持って来るように言われました。どちらにございますか?」
「こちらにあります。」
「なに、山から来た娘に丁寧にしゃべってるのさ。
私らとかわらぬ下賤の者じゃないか。」
「だって、旦那様から
『若様の妹と思って、同じ扱いをするように』って言われたじゃないか。」
「若奥様は、私らと同じで良いと。
厨に若奥様は来られるが、旦那様が来ることはないだろ。
若奥様の仰る事を聞いておいた方が、いいと思うけど。」
「そうかぁ?ま、そうだね。
ここにあるから、持ってお行き。」
「はい、ありがとうございます。
取り箸はございますか。」
「菓子鉢の棚の下の引き出しにある。」
「はい。」
つうは、取り箸で菓子鉢に丁寧に菓子を盛り付けた。
「ありがとうございました。」
つうが頭を下げて挨拶して立ち去ると
「あの子、教えなくてもちゃんと盛っていったね。
どこぞで習ったんじゃろか?」
「山の子が、そんな訳ないじゃろ。
お嬢様が里山にいた時、あの子の父親にでも教え込んだんじゃないか。
お嬢様の守り役をしていたそうだから。」
「若奥様、お菓子を持って参りました。」
「では、風炉の平手前をやってごらん。
釜は、もう茶室に設(しつら)えてある。」
「はい。」
水差しに水を汲み、茶巾を絞って畳み茶碗に入れ、その上に茶筅と茶杓を仕組んだ。
「若奥様、準備ができました。」
「では、私が主客の座に着くから、
やってごらん。」
「はい。」
若奥様は、わざと間違えた入り方で茶室に入って行った。
(私の真似をしたら、叱ってやる…)
しかし、つうは襖の前にキチンと座り正しいやり方で襖を開け、真の挨拶をしてから、茶室に入って行った。
若奥様の前に菓子鉢を置き
「お菓子をどうぞ」と挨拶して、
右にひと膝よけて、左足から立って
退出した。
襖も正しい手順で閉めた。
(わざと間違えをやって見せたのに、
作法通りに襖の開け閉めも、菓子も出した…どういうこと?)
また、襖が開き、水差しから道具を運び始めた。
建水まで運び、襖を閉めてお点前の座に着いた。
「はい、お道具は、正しく運べましたね。
お点前を始めて下さい。」
「はい。」
「お待ち。その袱紗は?」
「お茶のお稽古もあると聞いておりましたので、昔父がお嬢様からいただいた物を持って参りました。」
「そうか。続けなさい。」
「はい。」
つうは、迷うことなく、慌てることなくお点前をして見せた。
注意をする隙もないほど、完璧なお点前をするつうに、驚きと疑問ばかりが
若奥様の頭を駆け巡っていた。
「お菓子をどうぞ」というつうの声で、ハッとした。
少し慌てて懐紙を取り出し、お菓子を取りいただいた。
(なにも、私が狼狽えることはない。
落ちつくのだ…。)
つうが茶を点て、若奥様の前に置いた。
「ちょうだいいたします。」
茶を飲み終わり、
「結構なお点前でございます。」と言うと、お辞儀をかえした。
茶碗を拝見し縁外に置くと、
つうは茶碗を取り込み、釜から湯を汲んで茶碗に入れ、建水に湯を捨てた。
そこでお点前が止まった。
少し間を置いて
「おしまいにして、よろしいですか?」とつうに聞かれた。
建水に湯を捨てたタイミングで、
主客の若奥様が「お仕舞いください」
と声をかけるのを忘れたのだ。
「ごめんなさい。考え事をしていて…。どうぞ、お仕舞いください。」
「おしまいにいたします。」
そして、釜の水を足し、道具を下げるところまで完璧にやって見せた。
何も注意することがなかった。
水屋で道具を片付けているつうの所に、
若奥様が菓子鉢を持ってやって来た。
「お前、私に嘘をつきましたね。
どういうつもり?
お稽古をして来たんでしょ?」
「いいえ。父に聞いてもらえば分かります。家には茶の道具はありませんから。
茶筅や茶杓は売り物ですから、
父は造りますが、家では使いません。
抹茶も煎茶も贅沢なものです。
山ではせいぜい番茶かほうじ茶を飲むくらいです。
普段は麦茶や白湯でございます。」
「では、なぜ平手前ができるのだ。
おかしいではないか。」
「それは…私にも分かりませんが、
自然に身体が動きました。」
「まぁ、よい。残った菓子はお前がいただきなさい。道具を片付け終わったら、
菓子鉢と取り箸は厨に下げなさい。」
「はい、わかりました。」
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