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Episode 08
旧市街を訪れる観光客から絶景ロードと言われている、大通りの片側に延びる海岸沿いの道路。その道をロードワークのコースにしているアッシュは、まだ朝日が昇らない涼しい時間帯から走っていた。仕事上フットワークが軽いことは基本だ。三食食事を摂れるようになり。否、リックと出会う前まで口にしたことがなかった食事や果物から得られない甘味を食べられるようになり体重増加を避けるためと、スタミナ強化も兼ねて走っている。
灰色の空を飛んでいるペースメーカー役のソルを一瞥して、徐々に持久力を高めるように速度を上げていく。
一時間ほど走った頃、モノクロの空に曙光が差し始めた。折り返し地点である灯台を左手に望める場所を少し走ったところで、「Buenos dias. 」と毎朝スペイン語で声を掛けてくるレネの声が聞こえた。いつも無視して通り過ぎているアッシュは、昨夜のこともあり足を止めて声が聞こえる方へと振り返る。
大通りの反対側は、飲食店や雑貨が軒を連ねている。その一軒、レンガ造りの六階建て店舗兼住居。一階の路面店はカジュアルにスペイン料理を楽しめる「BAR Dado」。その二階は食料品店、上階は倉庫とレネの住居になっている。
二階のインナーバルコニーから手を振っているレネを仰いだアッシュは大きな溜息を零す。頭上を飛んでいるソルを見上げてから、行き交う車の切れ目を待って大通りを横切る。
外階段を二段飛ばしで駆け上がれば、レネが二階の出入口ドアを開けて待っていた。彼のハグを躱して食料品店の店内に入った。
先を歩くレネはハミング交じりに軽い足取りで、均等に陳列棚が並ぶ通路を進む。その背を追いながらアッシュは、店内に視線を配りながら足を進める。
少し歩いたところで視界が開け、促されるまま朝の光で鮮やかなブルーに染まり出した海を一望できるインナーバルコニーに出る。そこに置かれた二人用のラウンドテーブルに腰掛ければ、ソルがインナーバルコニーに向かって飛来してきた。手摺りに止まったソルにスペイン語で、攻撃するな、と命じてアッシュはレネに振り返る。
「アンタの要求通り来てやったぜ」
アッシュは、昨夜店に漆葉を連れて帰るレネに誘われてエディとここで食事をした際に、レネから「カードゲームの敗者は社会奉仕」で明日店に来るように命じられたのだ。
「あと二つ。君をおれの自由に出来る」
そう言いながらレネはオルチャタをグラスに注いで、アッシュの前に置いた。
アッシュはレネに三連敗していた。彼が要求できる社会奉仕はあと二つだ。
「その前に兄さんとウルのドラマチックな再会話をしてあげるよ」
「興味ねぇ。くだらねぇ話をするなら帰るぜ」
「そうだね。他人のロマンス話ほどつまらないモノはないね」
「さっさと社会奉仕の内容を話せ」
「ウチの専属にならない?」
「またその話かよ」
「なってくれたら、いまよりもっと君を甘やかしてあげられる」
飲まないの?とレネはアッシュの前に置いたグラスを視線で指す。
アッシュは、目の前のグラスを見る。それにはタイガーナッツを使って作る乳白色の甘い飲み物オルチャタが注がれている。喉が渇いているアッシュはグラスに手を掛ける寸前で、「レネと二人だけで会うときは何も口にするな」というリックの言葉を思い出す。小さく舌打ちしてから飲まずに言う。
「アンタ、オレに三ヶ月もライの店で皿洗いやらせてぇのかよ?」
「それはさせない。おれの二つ目の要求は……」
ラウンドテーブルに肘を付いているレネは、もう片方の手で封筒を滑らせてアッシュに差し出す。トカゲのシーリングスタンプが押された封筒を人差し指で叩きながら、「これ」とレネは微笑んでから手を離すと続けて言った。
「兄さんが、厄介ごとが片付いた祝いに開くパーティの招待状」
「で、三つ目は?」
「おれも付き添うから、兄さんに挨拶して欲しい」
「わかった」
「もしパーティでトラブルが起きたら参加してね。勿論報酬は払うよ。どう、三つのルールを守った社会奉仕でしょ?」
「想定済みを「if」とは言わねぇぜ」
「ウルを追い掛けてた組織に雇われたらしい連中が嗅ぎ回っているようだから、パーティの件を知ったら迎えに来るかもしれないからね」
「この街の連中は口が堅ぇんじゃねぇのかよ」
「ドレスコードはブラックタイオプショナル」
「何だ、それ?」
「タキシードかフォーマルなスーツは持ってる?」
「腹減ったから帰る」
これ以上レネの話に付き合う気がないアッシュは、椅子から立ち上がる。同じタイミングで、バルコニーの手摺りに止まっていたソルも飛び立った。一緒に朝食を摂らないかと誘ってきたレネの言葉を無視して、食料雑貨店の出入口ドアの方へと足早に向かう。
アパートメントに戻ったアッシュは、五階の自室でシャワーを済ませ着替えてから外階段を使って二階のリビングに下りた。まだ朝の六時半ということもありエディとリウは、三階の各自の部屋から降りてきていない。リビングと続いているキッチンでは、リックがフレンチトーストを焼いていた。アッシュは五年前のあの日から、朝食にフレンチトーストを食べ続けている。キッチンから漂うバターの甘い香りを胸いっぱいに吸い込んでから、自分に気づいていないリックの背中に声を掛ける。
「おはよう」
朝の挨拶を交わして、六人掛けのダイニングテーブルへと向かう。
席に着けばタイピングを見計らったようにリックが、オレンジのコードブレスジュースのボトル、メープルシロップのボトルと厚切り食パンのフレンチトーストが二枚載る皿。それとカトラリーをウッドトレーに載せてリビングにやってきた。
「Thanks」
目の前にウッドトレーを置いてくれたリックに笑顔で言えば、笑みが返ってきた。自分のエスプレッソを淹れにキッチンに向かう彼を視線だけで見送り、アッシュはメープルシロップのボトルを取る。蓋を開けると上下逆に持ち、湯気が立ち昇るフレンチトーストに並々とふりかけたところで、リックがリビングに戻ってきた。
「レネのところに寄ってきたのか」
「へぇ、またオレの居場所を探ってたのかよ」
アッシュは握っていたナイフとフォークを、フレンチトーストが載っている皿に置いた。
五年前、アッシュは単独で殺しの仕事を行った際、左腕に埋め込まれていたマイクロチップをコンビニのトイレで自らナイフで摘出した。その代わりとしていまは、リックから贈られたGPS内臓のピアスを左耳にしている。
「飼いネコの行動範囲を把握するのも飼い主の役目だ」
「他の家に移住しねぇようにって言えよ」
鋭い言葉を落ち着いた口調で言いながらアッシュは、左耳のフープピアスに手を伸ばす。次の瞬間、正面に座るリックがアッと思う間もなく耳朶からビアスを引きちぎる。
「間抜けな飼い主は、ペットのエサの味見でもしてろよ」
言葉と同時、椅子から立ち上がりピアスをダイニングテーブルに投げる。
「アッシュ!」
「ウィルの店に行ってくる」
左耳から滴る血もそのままにアッシュは、リックに振り向きもせずリビングを出る。
リックが追いかけてくる気配はない。アッシュは手の甲で乱暴に左耳から流れる血を拭って、外階段へと繋がるドアの方へと向かう。
外階段を下りたアッシュは着ているTシャツに血で濡れた手を擦りつけながら、Y字路の方へと広い歩幅で足を進める。昨日ヤクザに追われていた漆葉が逃げた方角、ウィルの店がある方へと進む。
イヌを散歩させている者や通勤途中の者に奇異の目を向けられても気にするでもなく、チューインガムを噛みながら歩き続ける。
しばらくして、ウィルが営む古本屋「Shamrock」に着いた。五年前リックに本屋の場所を聞いたときに教えられた店だ。新刊でなくても構わないアッシュは、常連客になっていた。しかし、こんな早朝に訪れるのは初めてだった。ドアハンドルを掴めば、鍵が掛かっていなかった。アッシュは口端を引き上げると、ドアベルを鳴らして店内に入った。すると、ウィルと談笑していた顔見知りの男が振り返った。
「アッシュ、お前その耳どうした?!」
五十代のスティーヴンは、頬までびっしりと覆われた髭スタイルに丸メガネを掛けている。ヨレヨレの白衣とレトロなドクターバッグが、トレードマークの町医者だ。
「そんな驚くことでもねぇだろ」
痛みに慣れているアッシュは、左耳の痛みを感じていなかった。
「縫ってやるから、そこに座れ」
スティーヴンはレジカウンター前に置かれている椅子に座るようにアッシュを促して、ガマ口のドクターバッグをカウンターに置いて開く。
ウィルにも視線で促されたアッシュは溜息を零してから椅子に腰掛ける。消毒液付き綿棒で、乾き始めている左耳の血を綺麗に拭き取られる。続けて局所麻酔をかけずにザクザクと極細の針を使って裂けた場所を縫い合わされる。最後にもう一度消毒して傷口を塞ぐように絆創膏を貼られた。
「終ったぞ。化膿止めもやるから飲んでおけ」
そう言いながらスティーヴンは、ドクターバッグを漁り黄色いボトルを取り出す。丸メガネを持ち上げてボトル裏に貼られた成分表を読んで、ある成分にアレルギーがあるアッシュが反応するそれが含まれていないことを確認してから彼にボトルを渡す。
「そりゃどうも」
アッシュはスティーヴンに違和感を覚えながらも口には出さず、黄色いボトルを受け取る。
「じゃあな」とスティーヴンはウィルに片手を軽く上げて店から出て行った。
レジカウンターに両腕を乗せて身を乗り出しているウィルが、椅子に座ったままのアッシュに後ろから声を掛ける。
「そのTシャツを着替えられては?」
七十代の元バトラーのウィルは、ホワイトヘアを後ろに撫ぜつけ、白い長袖シャツに店名が刺繍された黒いエプロンをしている。
「このままで……」
そこまで言い掛けたところで、「いや、着替える」と言い直す。この五年間で無自覚であるものの、他者を思い遣る優しさが芽生えていた。しかし、それは見返りを求めず親切にしてくれる人間に限られている。
「では、お持ちしますね」
ウィルは微笑んでから、レジカウンターの後ろに振り返る。そしてそのまま、両サイドを本棚に挟まれた店の奥に続いている戸口に消えた。
椅子に座ったままのアッシュは、思い出したかのようにジーンズのポケットに手を突っ込む。チューインガムの包装紙の束を引っ張り出す。それをレジカウンターに置くと、ペン立てからペンを取り包装紙に西暦と日付、短い単語を綴る。すべての包装紙にそれぞれ違う単語を書いたそれを今度は小さく折り畳んでいく。全部折れたところで、ウィルが着替えのTシャツを持って戻ってきた。
「マメですね」
「アンタらが挨拶代わりに使う言葉の意味を知りてぇからな」
アッシュは口端を引き上げると、細かく折ったチューインガムの包装紙を潰さないように持って椅子から立ち上がる。レジカウンターの内側に回り込むと、古本の山でボディが隠れている大型のデミジョンボトルの口に単語を綴った包装紙を入れていく。それは五年前アッシュが自室のクローゼットに置いていたボトルだ。一度リックに見つかり中身を問われたことから、隠し場所をこの店に変えていた。
「さぁ、こちらにお召し替えを」
「ありがとう」
アッシュはTシャツの首元を持って引っ張り脱ぐと、新品のTシャツに袖を通した。まるで測ったようにピッタリのそれにアッシュは笑みを浮かべる。ウィルの方に振り返れば、彼は笑顔で頷いた。
「なぁ、飼い主は飼いネコを信用しねぇのか」
「飼い主…リックさんのことでしょうか?」
「まぁな。エサは食わせても……」
アッシュは本棚に背を預けて腕を組むと、この店に来るまでのことを話し始めた。
レジカウンターを背にしているウィルは、相槌を打ちながら話を聞き終えると口を開いた。
「あなたがピアスを引きちぎったのは、身体が熱くなる怒り。それとも冷たくなる悲しみ。どちらによるものでしたか?」
「うぜぇと思ったけど…なんか胸が冷たくなった」
「それが「悲しい」です」
「リックさんがあなたの居場所を探ったのは、あなたを大事に思われているからです」
「大事…?」
単語は知っていても、それがどういう気持ちなのかわからないアッシュは首を傾げる。
「大切とも言いますが。まだそのお気持ちはお分かりにならない?」
ウィルは元バトラーということあり、人を見抜く力がある。アッシュが初めて店に訪れたときに交わした会話から感情が欠落していることを見抜いていた。その日から感性が豊かになる本を薦める傍ら、アッシュの潜在意識に働きかける言葉を助言として与えてきた。ウィルもアッシュを大事に思う一人だ。
「人って複雑だな」
「左様でございますね」
「なぁ、向こうの祭りで仕入れてきた本はねぇの?」
この店にある大半の本を読み尽したアッシュは、レジカウンターから出る。
古本の聖地として知られる英国の片田舎で年に一度開催される古書の祭典。約二週間開催されるフェスティバルには、世界各国から多くの本好きや古本屋を営む者が集まる。それに参加するために出掛けていたウィルは、先日帰ってきたばかりだ。
「あなたのご興味を引きそうな本も何冊か仕入れてまいりました」
ウィルは「お好きな」という言葉を使いたかったが、アッシュが理解出来る言葉を選んだ。
「猛禽類研究の第一人者、ケイン・ラーティ教授の著書です」
「へぇ、センスいいじゃん」
そう言いながらアッシュは、『懐かしい』という言葉の感情を知る。しかし、それを口には出さずに。いや、ケインはアウルの友人ということもあり言えないという方が適切だ。それ以上何も言わずにアッシュは、分厚い本を手に取る。そしてそのまま、この店で本を読む定位置に向かう。
ウィルは、何も言葉を掛けずに優しい眼差しでアッシュの背を見守る。
天井まである木製の本棚には、ウィルの趣味で集められた様々なジャンルの古書がぎっしりと詰まっている。本棚に収まらない本は、壁に沿うように設置されている本棚の隅に山積みにされている。その店の奥にある一角が、アッシュのお気に入りの場所だ。
本棚に背を向けてその場に座ると、遠い昔に読了したケイン・ラーティの本を開いた。古書特有のカビ臭い匂いが鼻先を掠めた次の瞬間、「本を読んでいるのは、自分のメンタルを知るためだ」という声が耳元で鮮明に蘇った。
(……メンタルを知る?)
いまもあのときアウルに言われた言葉の意味がわからずにいる。アッシュは本に視線を落とす。ゆっくりと左から右へと文字を追っていく。徐々に店の外から聞こえる雑踏が聞こえなくなり、シンクロするかのように意識は綴られている世界へと融け込んでいく。けれど、いつものように集中力が続かず息継ぎをするかのように顔を上げる。アウルが言っていた言葉の意味がわかったような気がした。
アッシュは深呼吸して、また本に視線を落とす。
積み上げられている古書で上部しか見えない窓から差し込む、光のグラデーションが刻々と濃度を増していく。それにも気づかずに活字を追うことに没頭する。
「ッシュ…アッシュ」
自分を呼ぶ声に現実に引き戻されたアッシュは、声が聞こえた方向を仰ぎ見る。すると、いつのまにか店内に灯っていた照明を背にリックが傍に立っていた。
「いまならオレを殺れたぜ」
アッシュは口端を引き上げて、丁度読み終えた分厚い本を閉じる。
「今朝はすまなかった。帰って話を聞かせてくれないか?」
そう言いながらリックは背を屈めて、座ったままのアッシュに手を差し出す。
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