Episode 14

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Episode 14

「ガラ」 朝靄の掛かる湖を桟橋の先に腰掛けて眺めている、アッシュことガラにケインが背後から声をかけた。 不揃いな襟足の髪を少し高い位置で一つに束ねているガラの首には、アウルが施術した新しいタトゥーが入っていた。後ろから近付いてくる、ケインの気配に気づいていたのだろうガラは驚きもせず振り返る。 「おはよ」 「あぁ、おはよう」 ケインは足を湖に投げ出して隣に座ると、湖に視線を向けているガラの横顔に話しかけた。 「今朝はトレイルに行かなかったのか?」 遠く離れた街からガラが来てから数日が経った。彼は、ここに来た翌朝からトレイルランニングに出掛けている。ここでは何不自由無く過ごさせたい。その思いからケインは事前にスポーツウェアからフォーマルスーツまで、一通り使わせているゲストルームのクローゼットに買い揃えておいたのだ。 「もう行ってきた。早く目が覚めちまったからな」 湖に飛来してきた水鳥たちに目を細めてからガラは続けた。 「ケイン、アウルに黙って出てきただろ?」 「リビングにいなかったんだ」 昨日この時間に何も言わず散歩に出掛けて家に戻れず、二人に心配を掛けてしまった。彼らに迷惑を掛けてしまった罪悪感よりも、記憶力が低下していることにショックを受けた。また黙って家を出たことを責められると思ったが、「なら、書庫で本読んでるアウルが悪い」とガラは湖で泳いでいる水鳥を眺めながら言った。ケインはガラが振ってくれた話題に乗る。 「ガラが来てから食事とトレーニング以外は篭りっぱなしだな」 「アンタに邪魔されねぇって喜んでたぜ」 「だから、ここ最近機嫌がいいんだな」 そう言いながら、機嫌がいいのはガラがいるからだ、とケインは胸中で吐露する。 二人は湖で泳いでいる水鳥の群れに視線を向ける。時折、獲物を求めて泳跡波(えいせきなみ)を残して水中に潜る。その愛らしい姿に、彼らは揃って笑みを浮かべる。S国では考えられなかった穏やかな時間を、暫く楽しんだ後にケインはガラに振り返る。 「お前が知りたい言葉……えっと、何の言葉だったか……」 ケインは顔の前で手を立てて、「ちょっと待ってくれ」と、口を開きかけたガラにストップを掛ける。桟橋に腰掛けたまま、カジュアルなスラックスのポケットに手を差し入れて手帳を探す。ガラと話したいことを記した手帳を書斎に忘れてきたようだ。家に取りに行くかと思ったそのとき、閃くように単語が浮かぶ。 「愛!だったな。その意味はわかったのか?」 思い出せた悦びに声を張ってしまったケインは、「何も忘れてねぇじゃん」と笑っているガラに強く頷いてみせる。 S国にいたある日、いつもアウルと連れ立って家に訪れていたガラが一人で来たことがあった。喧嘩でもしたのかと迎え入れると、何の前置きもなく「なぁ、愛ってなに?」と聞いてきた。どこでその言葉を覚えたのか聞けば、捕らえた悪徳政治家を処刑する際、その男はガラを罵倒して家族への愛を叫んだそうだ。アウルから極力愛情を向けるなと言われていたケインは、アウルに喋らないよう固く約束させてから、見えない心を具現化して言葉の意味を知る方法を教えた。 「アンタが教えてくれた方法を試してる」 「そうか。で、心の器にはどんな容器を選んだんだ?」 「向こうで走ってるときに見つけた不用品」 「不用品?家の軒下に出てる「ご自由にお持ち下さい」ってやつか?」 「そう。デミジョンボトル?とかいうガラスの瓶で……」 湖に向かって足を投げ出して桟橋に腰掛けたままのガラが、「こんくらい」と胸の前に出した両手で円を作る。 抱き抱えらるほど大きなデミジョンボトルだと察したケインは笑ってから言う。 「それじゃ、紙が大量にいるだろ?」 「チューインガムの紙に書いてる」 「いっぱいになる頃には虫歯になってるぞ」 「予防してっし。つか、腹減ったんだけど」 「朝食にしよう。ガラも手伝ってくれるか?」 ケインは、先に立ち上がったガラが差し向けた手を取り桟橋から立ち上がる。その日の気分でスペイン語と英語を使い分けるケインは、「Thanks a lot」と握っていたガラの手を離す。 二人は、ソルやビエントの話をしながら家へと向かう。 「先にシャワー浴びて着替えてくる」 二階のゲストルームに駆け上がって行ったガラを見送って、ケインはキッチンへと向かう。 十分後戻ってきたガラを手伝わさせて、一緒にキッチンでメモを見ながらオーガニックの小麦を使ってパンケーキを焼いた。砂糖を大量に投入しようとするガラを止めて、食事として食べられる程度の甘さにした。それにカリカリベーコンとスクランブルエッグを人数分添えようとすれば、ガラに断られて自分とアウルの皿だけに添えた。パンケーキが乗った皿を、キッチンと続いているリビングに運ぼうとしたそのとき、タイミングよくアウルがキッチンに来た。 三人は自分の皿と飲み物を各自持ち、リビングの十人掛けダイニングテーブルへと向かう。 それぞれ決まった席に着くと、ケインの正面に座るガラがハチミツのボトルを逆さに持ちパンケーキにかけ始めた。またかと言う顔で、アウルとケインは顔を見合わせて苦笑いを零す。何も言わずに好きにさせれば一本使い切る。 「使いすぎだ」 ケインの隣に座るアウルが次の瞬間、ガラの手からボトルを奪い取った。 阻止することも出来なかったガラは、反射的に動けなかった自分に舌打ちしてフォークを握る。 「また俺を刺すつもりか?」 そう言いながらアウルは、ガラに目配せを送る。 瞬時にケインを試すつもりだと直感したガラは、 「だったら」 言葉と同時、テーブルに身を乗り出してアウルにフォークを差し向ける。しかしそれも一瞬、その手を逆にフォークで刺され、握っていたフォークをテーブルに落とす。アウルのフォークが手に突き刺さったまま、身を引いて椅子に座り直す。 「朝から穏やかじゃないな」 また見慣れていた光景が見られたことにケインは嬉しさを感じた。 「新しいのを持ってきてやるから、大人しく待ってろ」 そう言いながらケインはダイニングテーブルから立ち上がり、替えのフォークを取りにキッチンへと向かう。 二人は手間を取らせることを詫びて、ケインの背中を視線だけで見送る。 どこに何が収納してあるのか、調理家電や食器洗浄機の使い方を綴った貼り紙だらけのキッチン。その中央に立ち、目的のモノを探しているケインを一瞥してから、ガラはアウルの方へと振り返る。 「試さなくても、ケインは覚えてるぜ」 ガラは声を抑えてアウルにだけわかる言語で言いながら、手に突き刺さったままのフォークを抜いた。その拍子に流れ出た血を舌先で舐め取ろうとしたのも束の間。すぐにその手を掴まれてアウルに血を吸い取るようにキスされる。 「悪かったな。軽く突き刺すつもりが少し深く入った」 アウルはガラの手を離すと、さっき取り上げたハチミツのボトルを渡してやった。 キッチンからケインが、二本のフォークと救急ボックスを持ってリビングに戻ってきた。 ケインは先に二人に新しいフォークを渡してから、ダイニングテーブルに腰を下ろした。 「ガラ、手当てしてやるから手を出せ」 「こんな傷舐めときゃ治る」 そう言いながらガラは、すでに血が止まりキスマークで封じられた傷を舌先で舐める。 「その言葉も久しぶりだ」とケインは開けた救急ボックスの蓋を閉める。 「あのときみたいに寸止め出来なくて悪かったな」 「ガラがアウルの目を突き刺そうとしたときか?」 「あぁ。あのフォーク、まだ持ってるのか?」 「持ってる。いまは持ってねぇけど」 ガラはハチミツをたっぷりかけたパンケーキを、ナイフとフォークを使ってひと口サイズに切り分ける。 アウルとケインも、それぞれ自分の皿に手をつける。 しばらくして、最初に食べ終えたアウルは、ガラとケインに二杯目の飲み物の希望を聞いた。一杯目と同じでいいと返してきた彼らと自分のマグカップを持ち、ダイニングテーブルから立ち上がる。そのまま二杯目の飲み物を淹れにキッチンへと向かう。 数分後、ハンドドリップで丁寧に淹れた珈琲を注ぎ入れたふたつのマグカップと、ガラ用に入れたピュアココアを持ってリビングへと戻る。さっきまで座っていた椅子に腰を下ろしたアウルは、ガラとケインに湯気が立ち昇るマグカップを手渡した。 すぐに珈琲の芳ばしい香りを鼻先で楽しんでからマグカップに口をつけたケインから、湯気を吹いているガラにへと視線を移す。相変わらず猫舌か、とアウルは小さく笑う。砂糖入りのピュアココアを飲んだガラが、ほんの一瞬眉根を寄せた。それを見逃さなかったアウルは、絶滅危惧種の鳥をモチーフにしたシュガーポットを鷲掴みして自分の方へと引き寄せる。 「何だよ」 「必要ないだろ。砂糖は入ってる」 「入ってねぇのと同じだ」 そう言いながらガラは、左耳の傷痕に手を伸ばす。 「掻くな」とアウルはガラが左耳を掻く寸前で声を掛けた。 「治りが遅いのは掻いてたからか。綺麗に治らないぞ」 「治りが悪ぃのは素人に縫われたせいじゃねぇ?」 「アウルは素人じゃないぞ。たまに手術の助手をしてくれてたからな」 「いつからだよ?」 「ここに来てから……だったよな?」 「あぁ、たまにな」 「へぇ、マジで再結成しなかったんだな」 「俺は元々あそこに長くいるつもりはなかったからな」 「いいタイミングだったってことかよ?」 「まぁな、マフィアの専属になる話が数ヵ国から仲介人を通じて来てたからな」 そう言いながらアウルは、ずっと目で訴えてくるガラにシュガーポットを渡してやった。 ガラは口端を引き上げて、シュガーポットを開ける。 「なら、何でここにいんだよ」 ピュアココアのマグカップに角砂糖を入れる。ひとつでは甘さが足りなかったのか、味見をせずに連続で角砂糖を投入し始めた。 「レッドリストの鳥たちの専属になったからだ」 アウルは見ていられなくなり、シュガーポットを鷲掴んで自分の方に引き寄せながら言った。 またシュガーポットを取り上げられたガラは、アウルを睨みながらマグカップに口をつける。次の瞬間、好みの甘さになっていたのか、ガラの目から鋭さが消える。二人の遣り取りを見ていたケインは、小さく笑ったアウルを視界の端に捉えながら言う。 「俺が、この一帯を購入するまで密猟者が多かったからな」 「アンタ、何でそんなカネ持ちなんだよ?」 「本の印税で儲かったから還元したんだ」 「へぇ、儲かんだな」 「お前も儲けてるだろ?」 「そうなのか?ガラ」 「ケインみてぇに儲けてねぇよ」 「300万ドル以下の仕事は請けないんだろ?」 「ほぉ、アウルの教え子だけあって高額だな」 「そんなことより、今日は何すんだよ」 「そうだな、書庫の整理を手伝ってくれるか?」 「わかった」 「ここは片付けておいてやるよ」 「ついでに昼食も作ってくれると助かる」 「あぁ、わかった」 「何時間やるつもりだよ?」 軽い口調で笑ったガラは、ダイニングテーブルから立ち上がる。 「メニューは任せるよ」とケインも立ち上がった。 アウルは二人を視線だけで見送ると、椅子から立ち上がりテーブルに並んでいる食器を片付け始めた。 ケインとガラは談笑しながら、両側にドアが並んでいる長い廊下を進む。しばらく歩いたところで、湖に面している書庫として使用されている部屋に入る。そこはリビングよりも面積があった。蔵書を日焼けや結露から守る特殊ガラスが嵌め込まれている開放的な掃き出し窓が設けられ、窓以外の壁一面には床から天井まである本棚が設置されていた。オープン本棚には隙間なく、さまざまな言語タイトルの本が並んでいる。収納しきれない本は、何列にも渡って本棚の前にうず高く積まれていた。そして窓辺には、一人掛けチェアがニ脚と円形のサイドテーブルが置かれていた。 「どうだ」 「前より減ってねぇ?売ったのか」 「少し減らしたんだ」 ケインは、さっきの会話から自分のことをアウルがガラに話していないと知り、本宅に半数を移しとは言えなかった。 「ケイン、アンタの新刊はねぇの?」 「あるぞ。ちょっと待っててくれ」 嬉しいことを言ってくれたガラに微笑んでからケインは背を向ける。そのまま書庫を出ると、向かいの書斎部屋に入った。 窓から光が差し込んでいる書斎はアンティーク家具で揃えられている。ライティングビューローのデスクに忘れていた手帳を開き、自分が安楽死のクスリを服用するまでにガラとアウルに伝えることを記した一覧に目を通す。それをスラックスの尻ポケットに差し入れると、デスク部分を収納して引き出しを開けた。三年前に刊行した著書の横にある片手サイズの箱を取り出す。蓋を開けて取り出した中身をスラックスのポケットに入れる。その箱を元の場所に戻し入れると、ガラのために残しておいた献本を取り出して引き出しを閉めた。 ケインは著書を持って書斎を出る。 書庫として使用している部屋に戻れば、ガラが本棚の前で本を開いていた。 「面白いか?」 「いまアウルの気持ちがわかったぜ」 ガラは、読んでいたスペイン語の小説を閉じてケインに振り返る。 「すまん。いいところで声を掛けたな」 「別に構わねぇよ」 「ほら」 ケインは本棚に本を戻し入れたガラに書斎から持ってきた著書を差し出す。 「ありがと」 笑顔で本を受け取ったガラに笑い返して言う。 「それと、もうひとつガラに渡したいモノがある」 「なに?」 「目を瞑って右手を出してくれ」 理由を訊かず素直に目蓋を閉じて従ってくれたガラに微笑んでから、ケインはスラックスのポケットに手を入れる。さっき書斎で箱から取り出した中身である、シルバーのバングルを引っ張り出す。それをガラの右手首に装着して、目蓋を閉じたままのガラに声を掛ける。 「もう目を開けていいぞ」 ケインは、右手首のバングルを一瞥してから自分の方に振り向いたガラに笑いかける。 「デザインされてるのは、ソルの風切羽だ」 「保存してたのかよ?」 「あぁ。いいか、無くすなよ」 小さな嘘をついたケインは、ガラへの罪悪感から逃れるように本棚に視線を向ける。 「さて、本の整理をするか」
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