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Episode 02
三日後、朝の五時。
一階に中華飯店が入るレンガ造りの五階建てアパートメント。歴史を感じさせる外観とは違い、建物内は近代的なリフォームが施されている。各自の個室以外の共用部であるワンフロアにぶち抜かれた二階。キッチンや室内遊戯ゲーム用品を完備した広々としたリビング。その窓辺に置かれているソファでリックは、一ヵ月後にここにやってくる二人のひとり中央情報局のエージェントの劉花龍(通称リウ)と携帯電話で話していた。挨拶代わりに互いの近況を話したあと、話題はアッシュのことに移った。三日間の様子を報告したところでリウにアッシュの所在を聞かれる。
「ロードワークに出掛けていない」
リックは、ローテーブルに載っているノートパソコンの液晶画面を一瞥してから答えた。
アッシュの居場所は、彼の腕に埋め込まれているマイクロチップが発信する情報で追える。いま海沿いの道を走っていることを示すアイコンが、地図上に表示されていた。
「よく許可したね」
「殺しの仕事をさせるなら、身体を絞らせろと言われたら仕方ないだろ」
ここに連れてきた日の夜に銃を取られ、許可する他になかった。その際にも性的な礼をされて関係を持ったとは言えず、もうひとつ頼まれたことを伝えようとすれば、
「タクティカルトレーニングもやらせろって言われなかった?」
察したリウが代弁してくれた。
「あぁ、まだ許可はしてない」
考えさせてくれと保留にしたものの、再三に渡り許可を求められて正直迷っていた。
「君の新市街の家には射撃場があったよね。そこでやらせてあげたら」
「簡単に言うな。もし何か起こっても責任取れないぞ」
そう言いながらリックは、シガレットケースから手巻きタバコを取り出す。その先をオイルライターで焼き、ニコチンを吸い込んで煙を吐いた。
「禁煙は失敗したようだね」
「安定剤代わりだ」
一年前の作戦に参加する前から禁煙するためにガムを持ち歩いていたが、結局除隊してからまた吸い始めてしまった。禁煙中に間違えて購入したチューインガムで、アッシュと関わることになるとは思いもしなかった。
「また例の夢を見たのかい?」
「あぁ、何度見ても胸糞悪い夢だ」
特殊部隊に所属していたリックは、三年前に任務で行った先の戦地で親友を亡くしていた。励ましの言葉をかける間もなく逝った彼や仲間を忘れられずにいる。何度かに渡る戦地派遣で壮絶な体験をしたリックは、心身が蝕まれる寸前で除隊した。
「アッシュに何度も尋問で会っていたお前の見立てを教えてくれ」
「名前を付けさせた君を脅しても殺害する気はない。銃器を与えても君が考えているような最悪の展開になることはないよ」
「そう断言する理由は?」
「あのガラと一つ屋根の下にいるのに今も君はいる。それに走りに出掛けても自発的に戻ってきている。施設にいた頃とは明らかに違うよね?まだ完全に信用はできないけど、保留の件に許可を出してもいいと思うよ」
「そうだな。俺の家が吹き飛ばないように祈っててくれ」
賭けてみるか、とリックは胸中で呟いて、短くなったタバコを灰皿でもみ消した。
「なるべく早くそっちに行けるようにするよ」
「すまないが、お前に報告したことをエディにも伝えておいてくれ」
一ヵ月後にここにやってくる二人目、元海兵隊航空部隊のエディ・ベルスだ。彼もリックと同時期に除隊している。
「うん。わかったよ。僕たちが行くまでアッシュとの生活を楽しんで」
「そんな余裕ができたらな」
軽い口調で笑ったリックは、スピーカー機能にしていた携帯電話を切った。
リックは腰掛けているソファの背凭れに頭を載せて天井を仰ぐ。宙に視線を漂わせながら目頭を摘んで揉むと、身体を起こしてノートパソコンに視線をやった。ここにアッシュが向かっていることを示すアイコンを確認して、ノートパソコンを閉じる。リビングの壁に掛けられている時計に視線を投げれば、朝の六時を回っていた。
(朝飯でも作るか)
気持ちを切り替えるように短い息を吐いて、ソファから立ち上がる。そのままリビングと続いているキッチンへと向かう。
リックは、ある程度の料理は作れる。今日のメニューは、幼い頃に母親から教わったフレンチトーストだ。牛乳と生クリームを半量ずつ加えて、卵液に浸しておいた厚切り食パンが入る保存容器を冷蔵庫から取り出す。一晩おいて食パンの中心までしっかり卵液を吸わせたそれをキッチンカウンターに置き、続けてバターを取り出して冷蔵庫のドアを閉める。そして、キャビネットからアッシュ一人分の皿を取り出してカウンターに置いた。
あとから来る二人も料理をすることから、唯一拘ったプロ仕様の火力が強いガスコンロにフライパンを載せてスイッチを捻る。熱したフライパンにバターを落とし入れて中火で溶かし、半分に切ってある食パンを火加減に注意しながらじっくりと焼いていく。
キッチンにバターの甘い香りが漂う。両面に焼き色がつくまで焼いた食パンを皿に乗せたそのとき、背後でリビングの入口ドアが開く音が聞こえた。
「腹減った」
タイミングよくアッシュがリビングにやってきた。五階の自室でシャワーを浴びてきたのだろう髪が濡れている。それに関して何度も注意をしたものの、言うことを聞かないことから何も言わず、席に着くよう促して冷蔵庫のドアを開けた。
オレンジのコールドプレスジュースのボトルを取り出す。それと湯気が立ち昇るフレンチトーストが乗った皿、フォークをウッドトレーに載せてリビングへと向かう。
六人掛けのダイニングテーブルに座るアッシュの前にウッドトレーを置いてやる。
「今日はフレンチトーストか」
「苦手だったか」
そう言いながらリックは、自分のエスプレッソを淹れにキッチンへと戻る。
レトロなエスプレッソマシンにカップをセットしてスイッチを押せば、「食ったことねぇからわかんねぇ」とアッシュの声が返ってきた。
「それなのに名前は知ってるのか?」
「雑誌で見たからな。つか、メープルシロップっていうヤツがかかってねぇ」
「持っていくから座ってろ」
ダイニングテーブルから立ち上がろうとしたアッシュを制して、キャビネットからガラス瓶に入ったメープルシロップを取り出した。それと一緒にエスプレッソを淹れたカップを持ってリビングへと戻る。
リックはアッシュにメープルシロップの瓶を渡してやり、正面の席に腰掛ける。エスプレッソのカップを口元に運びながら、目の前に座るアッシュを観察する。メープルシロップの匂いを嗅いだかと思えば、全部使い切る勢いでフレンチトーストにかけ始めた。
「おい、かけ過ぎだ」
思わずテーブルにカップを置いて声を掛けた次の瞬間、フレンチトーストを口に入れたアッシュが、初めて食べた自分と同じ反応をしたことから何も言えなくなった。
(コイツも年相応のガキってことか)
リックは口端を引き上げてエスプレッソを飲み干すと、テーブルにカップを置いた。
この三日間食事をともにして気づいたことがある。それは何でも美味しそうに食べることだ。向こうにいるときも接見したエディから聞いていたが、個人的な主観だと思っていた。しかし、そうではなかった。テーブルに肘を付いて食べている様子を眺めていると、アッシュが話しかけてきた。
「なぁ、もう待てねぇぞ」
「いい子でトレーニング出来たら、銃の携帯も許可してやる」
「わかった。で、場所は?」
「新市街にある俺の家だ」
「初めからそっちに住まわせろよ」
「通いで今日は一時間やらせてやる」
「足りねぇ、オレの気が済むまでだ。アンタらのおかげで素人並に鈍っちまったからな」
「案外ストイックなんだな」
「狩られる側になりたくねぇだけだ」
「五分で泊まる用意をして、ここに戻って来い」
「その前に腹を満たせねぇと」
ん、とアッシュはフレンチトーストが載っていた皿をリックに向かって差し出す。
「なんて言うのか教えてやっただろう」
「おかわりお願いします、で良いんだろ」
舌打ちしながらもアッシュは、教えられた言葉を口にした。
リックは鼻先で笑ってから皿を受け取り、キッチンの方へと向かう。
朝の十時。新市街の緑が多いエリアにある高級住宅地。大通りに面した居住区から距離を置いた森の中の家から海が望める、白と黒を基調としたスタイリッシュな外観の地下一階・地上二階建て住宅。地下射撃場と武器庫が完備された邸宅の持ち主はリックだ。外部者が地下のドアを開けようとすれば、家屋ごと爆発するように仕掛けが施されている。
広々としたリビングルームはモノトーンで統一されており、海が望める広大な庭に面した天井まである窓辺には高級家具メーカーのシックなL字カウチソファ。そこに荷物を置くようにリックは、リビングを見回しているアッシュに促す。
「なぁ、今日からここに住みてぇ」
そう言いながらアッシュは、カウチソファに背負っていたバックパックを投げる。
「周囲に何もない場所だ。住むには不便すぎる」
「少し車で走りゃマーケットがある。別に不便じゃねぇだろ」
「いまの場所に慣れれば、そのうち不便だとわかる」
「そんな拒絶するってことは、女を連れ込めねぇからだろ?」
オレも混ぜてくれてもいいんだぜ、とアッシュは口端を引き上げる。
旧市街のアパートメントは、関係者以外住居部は立ち入り禁止になっている。
「ここに無駄話をするために来たのか」
着いて来い、とリックは背向けざまに手を振り、廊下へと続いているドアに向かう。
肩越しにアッシュが着いて来たことを確認すると、両サイドにドアが並ぶ長い廊下を広い歩幅で進む。
しばらく歩を進めたところで、一階奥にある部屋の前に立ち止まる。指紋認証でドアを開いて中に入る。ゲストルームに偽装している部屋を通り抜けて、何の変哲もないドアを開けると人感センターが働き照明が点った。その瞬間、「ヒュー」と口笛を吹いたアッシュに振り向きもせずにリックは足を進める。無機質なコンクリートの壁に両サイドを挟まれた、人ひとりが通れる階段を下りる。そして左右に別れている廊下を左に曲がり、しばらく歩を進めて重圧なドアの前で立ち止まった。
「手順を間違えると、この家は吹っ飛ぶ」
そうリックは言って、アースアイを隠す目的で掛けているカラーレンズのメガネを取る。それをシャツの胸ポケットに挿し入れながら、ドア横に設置されているパネルを覗き込んで暗証番号を打ち込む。
「網膜スキャンと暗証番号か、どっかの施設並みに厳重だな」
「登録して欲しいなら、せいぜいいい子でいろ」
リックは重厚なドアを開けアッシュを先に通す。続けて射撃場に入る。
ライフル対応のレーンには、ディバイダーで区切られたブースが三つ。その背後には壁一面のガンロッカー。もう一面の壁には長物の銃器が、種類別にガンラックに並んでいた。まるでガンショップだ。否、それ以上のラインナップにアッシュが口端を引き上げる。
「アンタ、マニアなのか?」
「いや、兄貴の生業が武器商人なだけだ」
「へぇ、だからアンタだけ他の奴らより扱いがこなれてたのか」
「くだらない観察をしているから、俺に捕まったんじゃないのか?」
「アンタを撃ち損じた自分を呪いたいぜ」
「あぁ、俺もだ」
互いに顔を見合わせて口端字を引き上げる。それぞれの身体には相手に撃たれた銃創がある。
「どれ使ってもいいのか」
「あぁ、好きなのを使え」
「好き?…わかった」
冒頭の言葉を口にした際、一瞬首を傾げたアッシュは手首にしているヘアゴムを取る。
見逃さなかったリックは引っ掛かりを覚えたものの、不揃いな襟足の髪をひとつに束ねているアッシュに別の疑問を振る。
「その首のレタリングタトゥー、何か意味はあるのか?」
首の後ろに入っているタトゥーの文字は、一般的な言語ではない。軍の施設に収監していたときに、所属していた反政府ゲリラとの関連性を疑い関係者が詰問した。結果ファッションという結論に至った。けれど、いまもリックは疑いを持ったままだ。
「へぇ、相当腕がいい奴だったんだな」
「何のことだ?」
「そのアンタの首のタトゥー、オレがやった傷がわからねぇ」
「さっき俺が聞いた質問の答えになっていない」
「ここに無駄話をするために来たのか」
アッシュはここに来る前にリックが言った言葉を、そっくりそのまま返した。
「俺は上にいる。何か用があるなら天井のカメラに向かって手を振れ」
追及する気が失せたリックはそう言って、重厚なドア横に設置されているバネルに向かう。さっきと同じ手順で射撃場を出る。
リックは足早にリビング戻ると、センターテーブルに載っているリモコンを取った。後ろに振り向き、壁に設置されている大型テレビを点ける。すぐに各部屋や外に備え付けられている監視カメラの映像が画面に映し出された。地下の映像を拡大表示に切り替え、L字カウチソファに腰を下ろす。
アッシュは壁一面に並ぶガンロッカーをひとつひとつ開けながら見て回っている。そして一通り調べ終わると、数種類のライフルとハンドガン、それぞれの口径に合った弾丸が入るケース。それらをコンクリートの床に置くと、その場に胡坐をかいて座った。手慣れた様子で各銃のマガジンを抜き取り、次々に標準装填数までマガジンローダーを使って弾丸を詰めていく。数分後アサルトライフルを手に立ち上がると、三つ並んでいるブースの真ん中へと向かった。
「まずはライフルからか」
リックは自分が拘束したときにアッシュが持っていたライフルが、カスタマイズされていたことを思い出す。あのときと同じモデルだが、いま手にしているのは標準仕様だ。それをブースに立ち、構えるアッシュを画面越しに注視する。
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