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◇◇◇
確認をしに行くだけだ……死んでないか、倒れてないかの確認だけ。
飲み物やゼリー飲料とか、プリンとか、食べられやすそうなものを持って行くだけ。
だってあそこは俺の家で、離れてる間に死んでたりなんかしたら困るし。
やばそうなら絶対すぐに逃げる。大丈夫だ、俺は大丈夫。
こうやって結局見に来てしまう。言い訳ばかり考えて。
エレベーターを降り、部屋の前まで行く。
心做しかいつもと空気が違うような、思い込みのような。
もう一度、心の中で大丈夫だ、と呟いて扉を開いた。
……思い込みではなかった。
玄関まであの、嫌なにおいが漂っている。やっぱり俺は出ていて正解だったじゃないか。
そうは思ったけれど、ここまで来て何もせず帰るのは無駄足を踏んだようで少し癪だし、無事か確認はしないといけない。大丈夫だとは、思うけど。
嫌だけど、凜の部屋を確認して、この袋を渡して、また出て行けばいい。
そう考えながら靴を脱いでいると、がちゃがちゃと金属音が響く。何の音だ、と思いながら廊下を歩くと、まあ凜しか居ないから当然といえば当然なのだが、その音は凜の部屋から聞こえていた。
うう、と苦しそうな声と嗚咽。
それに混じってまだ金属音と、かりかり何かを引っ掻くような変な音がする。
取り敢えずちゃんと生きてはいるようだ。
扉を透過して見れる訳ではないから、ちゃんと開けなければ中はわからない。凜の状態も、何の音なのかも。
やはり開けるのはこわい。
廊下に充満したにおいで、既に俺も反応して躰が熱くなってるのがわかる。長居は出来ない。パッと渡してパッと出て行く。本当はもうここに置いて出て行きたいけど、でも、どういう状態か確認くらいしてから……そう思って、一歩進む。
取手に指を掛け、少し躊躇って、一気に開けた。
ぶわ、と熱い空気が外まで漏れた気がする。
ベッドにいると思った凜はそこにおらず、横を見ると、箪笥の前でがちゃがちゃと扉に縋り付いていた。
両開きの扉には、取手のところにぐるぐると鎖のようなものが巻かれ、それを頑丈そうな南京錠で閉じてある。
お陰で開かなくなった扉を無理に開けようとしたり引っ掻いたりしている音が廊下まで響いていたようだった。
状況を把握するまで少し時間が掛かった。
振り返った凜は顔をぐちゃぐちゃにして、……指を体内に突っ込んだまま、歪んだ表情で口を開く。
言葉にならない声が喉から出て、溶けたような瞳からは、そのどろどろになった躰からまだ出す体液があるのか、と思う程涙を流している。
その潤んだ真っ赤な瞳を見た瞬間、やばい、と先に躰が動いた。
手にしていた袋を凜の近くに放るように投げると、扉を閉めて押さえる。
「鍵!締めろ!今すぐ!」
怒鳴るように言うが、扉の向こうからは動くような気配がない。泣いてるような声と荒い息が聞こえるだけ。
再度鍵をしろと怒鳴る。
「早く!」
「……っう、う……ぐ、うぅ」
「凜、鍵!締めろって!」
「ごめ、ぅ、なさ……」
ずり、と這うような音と、扉を一枚挟んで、すぐ向こうでゆっくりゆっくり、壁伝いに手を付き動く音がする。
がちゃりと音が響くまでどれだけかかっただろう。
その音を聞いて、やっと扉を押さえる腕から少し力が抜けて……でも油断をすると自分も呼吸が荒くなってしまいそうで、そんなの……今の凜にはその余裕はないかもしれないけど、でも凜には気取られたくなくて、抑える。
「……食えないかもしんないけど、それ、胃に入れとけ、その、死なれても、困る、し」
「あぃ、がとござ……まっ、は、ぅ」
「……」
「あの、ぁのっ……」
「なに」
「……ッ、まだ、っう、その、外、行かれてっ……んう、ぅ、たほおがっ……いぃ、と……ッあ、う」
途切れ途切れの言葉の合間に苦しそうな声や水音が響く。
話してる間も手を止めることが出来ないのだ。
なんて浅ましくてかわいそうな生き物。それはオメガだけではなく、それに当てられるアルファだってそう。
「……元から様子見に来ただけ、だし、また、戻る、から……」
それだけ伝えて扉に背を向ける。俺の躰だって限界だ、本当なら扉を壊してでも抱き潰してしまいたい、そう思ってしまう程、どうしようもない焦燥感。それをどうにか呑み込んで、玄関を出て、鍵を締める。
ちゃんと鍵が締まっているか何回も確認して、玄関前に座り込んでしまう。
どっと汗が噴き出る。
やばい、やばいやばいやばい、なんだあれ、想像していたものよりもずっとやばい。
いや、本当にだめだ、ここにいたらおかしくなる、また玄関を開けてしまいそうになる。抑え込むようにエレベーターに乗り、待たせておいたタクシーに乗り込み、ホテルに戻る。
ずっと心臓は煩くて、運転手にもフロントにも心配されるくらい、多分顔も紅いし息も荒い。
どうにか部屋に戻り、ベッドに倒れる。
皆に乗せられた気分だった。オメガがあんなになるなんて聞いてない。襲われた時の女子より抑制剤を隠された時の咲人より、ずっと酷い。
あんなにどろどろになって、言葉なんて上手く話せなくて、顔中躰中ぐちゃぐちゃになって、それから、あんな、どうしようもなくなるにおい。
やっぱりだめだ、危険だ、うちに置いておくなんて危険だ。
ヒートはまた三ヶ月後に来る。ずっと、何度も。だめだ、置いてなんておけない。襲いたくない、触れたくない、俺の手の届かないところへ行ってもらわなきゃ。
でも、なら凜はどこに行けばいいんだ?
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