622人が本棚に入れています
本棚に追加
◇◇◇
ヒートが終わりました、そう凜からメッセージが届いて、それでも二日、俺は帰ることが出来なかった。
まだあのにおいが残っていそうで。
あれから結局大学にも行っていない。相変わらず咲人達の連絡は多くて嫌になるけど、増えていく通知マークに、そろそろ帰るか、とやっと重い腰を上げることが出来た。
親父からの連絡は来ていない。凜が何も言ってないのか、そもそもヒートの周期を知らないのか。
いや、知らなくていい、番でもないこの間まで高校生だった子のヒートの周期を親父が知っていたら引く。そりゃもうドン引きする。
……帰りたくないなあ、なんて、浮気のばれた旦那や悪いテストを見せるのがこわいこどものようなことを考えてしまう。
自分の家だというのに。
「お、おかえりなさい……」
玄関の扉を開けると、飛んできた凜が申し訳なさそうに出迎える。
その暗い無理矢理な暗い笑顔は何も変わりはないように見える、痩せたこと以外は。
元々栄養が足りてないような痩せ方をしていたのに、更に痩せるとは思わなかった。窶れてるといった方がいいか。
それだけヒート中は大変だということなんだろう。
そんなこと知らない、と言ってしまいたいが、もう知ってしまった、あの辛そうな泣き顔が頭から未だに離れない。
「あ、あの、この間は……あり……ありがとう、ございました、美味しかったです、あの、」
多分味なんて覚えてないだろう、あの感じでは。
それでも凜は律儀に頭を下げる。真面目な子だ。
「掃除、は、ちゃんとしました、換気も」
「……そう」
「箪笥の中、は……大丈夫、だと、思う、んですけど……」
「鍵掛けてたもんな」
「ご、ごめんなさい……」
何で謝るんだろう。いや、計画を立てていた俺からしたら大誤算だ、それはそれで謝って貰いたい位ではあるけど。
「なあ」
「え、あ、はい……?」
「何で鍵してたの、あの箪笥」
玄関で立ったまま、何でこんな会話をしているんだろう。
自分でもこのタイミングじゃなかったかな、と思った。でも引き伸ばした所でいつ訊くかといわれると、そんなタイミングはないかな、とも思う。
ふたりで雑談なんてしないし。
えっと、それは、ともじもじしながら言い淀む凜に、はっきり言えって、と思ったより冷たい声が出た。
びく、と肩を揺らして、足元を見ながら凜はぽつりと、汚さないでと言われたので、と言う。
「わかってるんですけど……でも、その、ヒートの時、は頭ぐちゃぐちゃになっちゃうこと多くて、だから、その、万が一、汚してしまったらって思ったらこわ……」
そこまで言って、ごくんと小さく喉を鳴らし、汚したら大変だから、鍵をしました、と凜は続けた。
ちゃんと瞳を見て話してよと俯いたままの顎を掬って、汚しても良かったのに、と言う。
それは優しい意味ではない。
俺の表情と声で察したのだろう、青褪めた顔がかわいそうなくらい。
ごめんなさい、と謝る声が震えている。
「なんで謝るの?汚してないんでしょ?」
「……か、勝手に鍵、して……す、少し傷、付けた、かも……しれない、です……」
「そう、傷がついてたらどうしよっか」
「べんしょう……弁償、します……」
いつも泣きそうなかおをしている。
でも思い返せば凜は泣かなかった。泣きそうで、涙を零さない。
俺が凜の泣き顔を見たのは一度、この間のヒートの時だけ。
泣いて欲しい、泣いて泣いて泣いて縋って欲しい。ごめんなさい、赦して下さいって。
少しでもそう思ってしまうのは、きっと俺があの時ヒートに当てられてしまったから。
ずっと頭から離れない。追い出したいのに、オメガなんてお断りなのに、あの顔が、呼吸が、熱いものが、ずっと頭から離れない。
こんなのはいつもの俺じゃない。
一度は……ホテルでは整理出来たと思った。
かわいそうだけれど、やっぱり出て行って貰おうって。
なのに凜を見るとおかしくなる。凜のせいだ、オメガのせいだ、俺のせいじゃない、俺はわるくない、ひとをおかしくさせるコイツらがわるい、俺はわるくない。
俺をおかしくさせているのはオメガだ。
「……ッ、」
華奢な凜には、顎を掬った手が、腕を掴んだ手が痛かったと思う。
でも少し顔を歪めただけで、痛い、とすら言わない。
言えない、なのかもしれないけど。
「どう弁償するの」
「……がん、がんばり、ます」
追い詰めたい。泣き喚くまで。
こんな子の精神を壊すのは多分簡単だ。
こうやって何度も何度も言葉を重ねれば、逃げ場のない彼はきっと壊れる。
親父のところにはいけないだろう。
幾ら楽しそうに話してたとしても、咲人のところにも、番のいる姉のところにも。親戚のところにも戻れない。
凜にはここしかないんだ、帰る場所はない、今はまだ。
俺に冷たくされても、追い詰められても、逃げられないから、俺が変な同情なんて持たなければ、
「働いて、返します……」
ほらもう泣きそうだ、大きな瞳が潤んできた。ただそれを零さず、歯を食いしばって我慢してるだけ。
ぎゅう、と手を握り締めて、足を踏ん張って、こんなことで泣くもんか、と耐えてるだけ。あと少し。なにかもっと言えば、酷いことを言えば、この子は泣く。
泣いたらきっと止まらない、大体はそういうものだから。だから泣かない。
「……部屋、戻るから、飯出来たら呼んで」
そうやって逃げたのはまた俺だ。
駄目だ、俺は今何を考えてたのだろう、おかしかった。
そんな追い詰め方、望んでない、望んでない筈なのに、凜を見ると我慢が出来ない、泣かせたいという欲望が我慢出来ない。
今後の話なんて、静かに出来なかった。
……少し時間を置いてどうにかなるかわからない。でも少し頭を冷やさなければと思った。
夜、夕食前後にでもどうしたいか訊いてみよう、それでもいいかもしれない、もしかしたら凜の行きたい場所があるかもしれない。手伝えるかもしれない、円満に終わるかもしれない。
そう自分を無理矢理納得させて、取り敢えず久し振りの寝室へ向かった。
その背中に、買い物に行ってきますね、と凜の震える声がして、手だけで返事をする。
その日、凜は帰ってこなかった。
最初のコメントを投稿しよう!