N.TOKYO

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「お疲れ。麦茶、飲む?」 「ありがと」  居間に戻ると、作務衣の背中が冷蔵庫に向かう。居間と台所の間には壁がなく、畳が板張りに変わるだけだ。 「夏、だねぇ」 「んー」  長い指に包まれたグラスを受け取り、喉が欲するままにゴクゴクと流し込む。一気に半分ほど中身の減ったグラスをちゃぶ台に置けば、すぐに丸い水の輪が出来た。 「もうトンボが飛んでいるよ」 「へぇ……」  斜め前方に腰を下ろした要は、縁側の向こうを眩しげに眺める。甘いヘーゼルの瞳に、鼻筋の通った美丈夫。柔らかくウェーブする亜麻色の髪は肩に付く長さだから、家にいるときは無造作に束ねている。 「爽、夕飯は、冷や麦にしないか?」 「唐突だなぁ」 「嫌?」  白く長い指先が、グラスの側の右手を撫でる。スリスリと思わせぶりな触り方で。 「ん……いいけど」  1本1本、指の股まで丁寧に、ひんやりとした滑らかな感触がゆっくりと絡みつく。 「爽……」 「要……」  ハチミツを流し込んだみたいに、ヘーゼルの眼差しがトロリと熱を帯びる。大きな影が乗り出してきて――。 「締切! 近いんだろっ」  迫る唇を左手でムギュッと塞いだ。 「書けないからって、僕に逃避しようったって、そうはいかないからな!」 「……ちぇっ」  グイッと押し退けると、彼はあっさりと身を引いた。やっぱりか。失礼なヤツめ。 「ちゃんと仕事が終わるまで、僕はお預けっ。いつも言ってるだろ」 「浮かばないんだよぉ……“ミレーユがガレリア星に旅立った”あと……」  要は、この時代には珍しい小説家だ。彼が紡ぐのは、愛と夢と冒険に満ちた「異世界転生SFファンタジーアドベンチャー」――要するに「ここではないどこか(フィクション)」の物語。芸術や創作の世界にまでAIが蔓延るようになって久しく、そしてAIの作品が当たり前のように娯楽として評価されている現在、彼のライバルは少なくない。だから、決して売れっ子ではないが、そこそこ売れている――それだけでも大したことなんだ。 「僕に訊いてもムダだよ。センスないの知ってるだろ」 「うー」  そこは否定しないんかいっ。ま、リアリストの僕に、架空の星での冒険譚を求められても困るけど。  要が諦めて2階の書斎に消えてから数時間。  ふとタブレットから顔を上げてみれば、室内はほんのりと翳り、空は茜色に変わっていた。僕はリクエストの冷や麦を茹で、木桶の中に氷水を入れて麺を冷やす間に、要を呼んだ。 「明日から、ちょっと家を空けるよ」  スダチの輪切りが浮かぶツユの中に、一味唐辛子を一振りし、桶から掬った冷や麦を潜らせる。スダチの爽やかな酸味と一味のピリリとしたアクセントが美味しい。暑さに下降気味だった食欲も少し復活したようだ。 「ちょっと、ってどれくらい?」  要は桶に箸を深く差し込み、ひと掬いでごっそりツユの中に麺を移す。そして、そこから数回に分けて麺を啜る。  一度に口に入れる量だけを桶から掬ってツユに入れる僕とは、食べ方が違う。 「そうだなぁ……」  壁のカレンダーを見ながら思案する。実際、現地に行ってみないことには、なんとも分からない。帰宅予定が遅れるよりも、早まった方が喜んでもらえるはずだから、若干長めに見積もっておくか。 「10日もあれば、大丈夫かな」 「10日!」 「急いで片付けてくるって。ね?」 「うん……気をつけて」 「ありがと。要も、執筆……締切守るんだよ?」 「そこは頑張れって言ってよ!」 「あはは」  夕食のあと、縁側で虫の音を聞きながら、日本酒で軽く口を湿らせ――小一時間ほど。しばらく会えないから、甘ったるい言葉と気持ちと体温を重ねて、分け合って。それから、それぞれの部屋――彼は書斎、僕は寝室――に入った。
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