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「何か、悪いこと?」  けげんそうな表情の早紀は、恐れているように見える。無理もない。最近、心筋梗塞で夫が急死したばかりなのに、思いもしなかったことを言わなければならないのだから。だが、悪いことほど早く言った方がいいのは、この場合も同じだ。 「悪いことだけど、解決できないことではないわ」  真理恵は、早紀を安心させるべく、堅い中にも笑みを浮かべて、言った。 「おとうさんが、私と結婚する前、モデル兼タレントのYURIKA(ユリカ)と結婚していたのは、知っているわね」 「ええ、おとうさんが勤めていた会社のイベントで知り合って、それで結婚したんでしょ?」 「そうよ。そして、YUEIKAは、連れ子がいて結婚したの」 「それは、知らなかった」 「無理もないわね。前の結婚のことは、あなたには詳しく話したくなかったんでしょう」 「それはわかる」 「そして、結婚した時に、おとうさんは、YURIKAの連れ子である翔太君と、養子縁組をしたの」 「へえ、そこまでするなんて、よほどYURIKAさんを好きだったのかしら?」 「恋は盲目というから、結婚当時は、連れ子を養子にしてもいいと思ったんでしょうね」 「でも、自分の子を養子にさせるなんて、YURUKAも意外にしただかだったんだ。初耳」  と言う早紀に、真理恵は、 「悪いけど、バカっぽいYURIKAに、そこまでの知恵があったとは思わない。たぶん誰かが、入れ知恵したんでしょうよ。血もつながらない親子でも、権利だけは盤石にしておくなんて、癪に障るったらありゃしない」 「おかあさんとしても、今までおとうさんと築いてきたものの一部でも、その子にやるのが嫌だというのは、当然よ。まして、連れ子なんて、おとうさんとは他人だったんだもの」 「でも、離婚の時に、翔太と養子縁組を解消しなかったのが、運の尽きね。司法書士が、『自分の判断が正しく、漏れはないと信じてしまう』と言っていたけど、普通はそんなものよ。養子なんか、いなきゃいいのに。まったくおとうさんのだらしなさが、今になって、すごくむかつくわ」 「だけど、いかにもおとうさんらしいわ。離婚の時に、そこまで気が回らなかったのか、それとも、子どもには罪はないからって、あえてそのままにしていたのか、わからないわね」 「たぶん、気がつかなかったたんでしょうね。別れてしまえば、そのまま縁が切れて、養子縁組も自然に解消されるとでも思っていたんでしょうよ。おかげで、今になって、こっちはえらい迷惑よ」 真理恵はいきり立つ。法律うんぬんはともかく、簡単に納得できる問題ではないのだ。まして翔太は、赤の他人だ。 早紀は、 「わかるわ。そのだらしなさは、理科系オタクによくある、仕事以外は何もできないってやつ?」 「そう、それよ。理科系の人って、夢中になると、徹夜でも平気だっていうじゃない?そして、勉強や仕事はできても、社会的な常識とか、簡単なことができないとか、抜けてるとか。十進法の数字を、たちどころに二進法で表したり、十六進法で表示したりとかは、見事だったけど」 「そういえば、おとうさんも、よくシャツを裏返しに着ていたわね」  と、早紀は笑った。真理恵は、 「それに、あなたの成人式の後の、パーティに出るのを忘れたじゃない?会社の仕事で徹夜していて、いつになっても帰ってこなかったから、パーティがあることを、こっちからわざわざ電話で言って、やっと思い出したし」  真理恵は、大事な時に、大事なことを忘れた夫のことを思い出した。 「うん、あれには心底怒った。いくら仕事だからって、娘の大事な行事を忘れるなんて」 「でしょう?だから、てっきり翔太とも、一切の縁は切れたと、思いこんでいたんでしょうよ」 「私だって、腹が立つわ。会社をやめて、おかあさんと苦労して立ち上げたパソコンスクールを、これまでにしたのに、なんで、赤の他人に、遺産を分けなくちゃならないの?ホント、泥棒だわ。YURIKAは、あの後再婚して、工藤ユリカになったけど、翔太は養子のまま、柴田の戸籍に入っていたから、タナボタね」  と、早紀は、ため息まじりに言う。 「そうね。私としても、良彦さんと結婚している間、特に戸籍を取る用事もなかったし。だから、良彦さんに養子がいることに気づかなかったの。でも、うちの会社が急成長したのは、コロナ禍になってからよね」 「そう、立ち上げたのは2000年だけれど、我が国は長いこと、ITが進まなかったし、キャッシュレスも同様だったわ」 「コロナ以降は、パソコンやスマホの受講希望者が、特にシニア層で倍増したわよね。まだまだ、都内をはじめとした関東圏だけだけれど。おかげで、大忙し」  真理恵の顔に、明るさが戻る。早紀は、 「うん。特に当たったのは、富裕層向けの個人レッスンや、出張レッスンね。わかるまでじっくりと質問できるし、他の生徒がいないという気兼ねのなさは、中高年にとっては、重要よね」  と、社長らしく言った。  今や、年よりだからといって、ITが使えなければ、えらい苦労を強いられる時代だ。「むずかしい」、「わからない」と言っていると、よけいな手間ばかりかかる。特に、時間や体力に限界のあるお年寄りは、ひときわ困った事態になる。もはや、スマホやパソコンが使えるという前提で、世の中が成り立っているからだ。 「で、おかあさんは、心の整理はついたの?」 「つけなくちゃならないじゃない?争ったところで、勝ち目はないし、ものは考えようで、さっさとやるべきものをやって、追い払うのが一番よ」 「そうね」 「それに、あなたにとっても、会社にとっても、ケチがつきそうなものは、早いとこ排除した方がいいわ」 「いえてる」 「じゃあ、コーヒーでも飲もうか」 「そうしよう」  真理恵は、コーヒーを淹れに、立ち上がった。  ふと、夫の良彦と、パソコンスクールを立ち上げた時のことが思い出された。街中の、小さなビルの一室を借りての、ささやかな起業だった。  夫が、パソコン大手の、『テクノサイエンス』社に勤めていた時の貯金を使って、やっと立ち上げた零細企業だった。「柴田」という苗字から、柴犬をロゴに使った。知名度がないせいで、最初は、なかなか生徒が集まらなった。それに、機械が苦手な主婦や、短気なお年寄りに教えるのは、苦労が多かった。だが、元々パソコンのエンジニアだった良彦は、中身をわかっているだけでなく、うまくほめたり励ましたりして、教えるのも上手だった。だから、ここまでやってこられたのだ。それに、IT機器は、よくトラブルが起きる。単に操作ミスだったりという簡単なことならいいが、そうでない場合は、近くのパソコンショップを紹介したりして、仕事の人脈も、少しずつ築いていった。クチコミのせいもあり、細々とながらもなんとかやってこられたのは、幸運だった。そして、コロナ騒ぎは、真理恵たちにとって、思わぬ追い風となった。  対面からリモートへ、現金からキャッシュレスへ。紙のポスターは、「検索」か「QRコード」で詳細を見るようにと誘導されているし、確定申告は、e-TAXで、税務署へ行く手間がはぶける。だが、ITが苦手でも、苦労してでも覚えようとする人はいる。そんな人たちに、機械を恐れなくていい、使えればこんなに便利ということを、辛抱強く教えてきたおかげで、今や『柴田パソコンスクール』は、破竹の勢いで伸びている。おかげで、かつての夫の勤務先である『テクノサイエンス』社でも、パソコンやスマホの設定や、使い方のレッスンの提携先にも入れてもらった。真理恵としては、いつかは早紀に結婚してもらいたいと思っているが、今のところ、恋人がいる様子はない。早紀は、容姿は十人並みで、現代からしたら、地味な方だ。だが、夫に似て、理科系の頭脳で、真理恵以上に、良彦の助けとなってきた。『リケジョ』の中でも、パソコンは、花形職業だ。不況にも強いし、これからもどんどん伸びる。IT社会が、昔に戻ることはないのだから。  とりあえずは、目の前の問題を、さっさと片付けることだ。夫のうかつさは仕方ないが、金で解決できることなら、そうするのが一番だ。必要な金をケチったために、禍に発展するのはごめんだ。  真理恵は、不吉さを追い払うべく、早紀と休暇で行くイベントの相談をしたのだった。  
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