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早紀のスマホの着メロが鳴る。
「はい、もしもし」
「こんにちは、翔太です」
なれなれしい声に、一瞬、イラつく。
「ご用件は?」
「今、おたくの会社の近くに来てるんだけど、一緒にお茶でもどうかと思って」
「話したいことがあるのなら、今言ってください」
早紀は、ビジネスライクに言う。
「ないよ、でもさ、たまには息抜きもいいかなと思って」
翔太の本心は、わからない。いちおう、警戒すべきだし、相続の件で、言いたいことがあるのかもしれない。
「では、この近くの『ウィーン・カフェ』で待っていてください。10分もすれば行けると思いますので」
「了解」
電話は切れた。
もしかしたら、本当に用事はないのかもしれないが、それならそれでいい。ただでさえ多忙な毎日だ。ちょっとしたお茶くらいなら、差支えない。
早紀は、内線電話で、
「少し外出します。たぶん1時間以内に戻ると思うので、よろしく」
と、秘書に告げた。
「早紀さん、ここだよ」
手を振る翔太は、雰囲気はいただけないが、カフェの中でも、絵になる。整った容貌は、それだけで、彼に多くの恩恵を与えてきたことだろう。彼をちらちらと見ている若い女性も、一人や二人ではない。
早紀は、
「だいぶ待ちましたか?」
と言った後、ウェイトレスにホットのカフェラテを注文してから、座る。
「俺も来たばかりだから、大丈夫」
ニコッと笑うさまは、一見、人を惹きつけるが、要注意だ。翔太は、
「ここ、『ウィーン・カフェ』っていう名前のとおりだね、値段も高いし。俺なんか、めったに入れないよ」
と、世間話を始める。
早紀は、
「この前の件で、ご不満でもありますか?」
と、単刀直入に切り出す。懸案は、さっさと解決した方がいい。気の進まない話ほど、早くするのは、ビジネスを進めるうえでの鉄則だ。
「だから、ないって言ったはずだよ。やたらと警戒しているようだけど、そんなに俺が信じられない?」
「お互い、今まで会ったこともありませんから」
早紀は、当然の事実を言う。翔太は、
「俺さ、YURIKAの息子として、ネットニュースなんかで悪く言われてるのは知ってる。でも、この前言った、芸能界の厳しさは、本当だよ」
「そういわれましても、私には関係ありませんので」
早紀は、理科系らしく、ドライな姿勢を崩さない。
「今さら、俺の母がどんなに苦労してきたか言っても仕方ないよね。早紀さんにとっては、おとうさんの元妻で、縁のない人だったからね」
「わかっているじゃないですか。お金の話でないなら、用事がなくて呼んだの?」
「うん」
翔太は、悪びれずに言う。
「早紀さんは、パソコンスクールの社長で、もちろんビジネスウーマンのしっかり者だよね。でもさ、時にはこうして、息抜きもいいかと思って」
「ご心配していただき、ありがとう。ですが、あいにく、それにはおよびませんので」
すると、翔太はいきなり笑い始めた。
「そうだよね、隙のない社長で、いつも堅く、仕事に忠実。俺みたいな、高校中退の最下層とは違うってことはわかってる」
「最下層」という言葉を使うわりに、深刻さがない。皮肉なのか、なにか魂胆があるのかわからない。わかるのは、世間で言うとおり、逮捕歴があり、危険なものを持ち合わせているということだけだ。
その時、
「お待たせいたしました」
と、ウェイトレスが、注文の品を運んできた。
彼女は、優雅な動作でそれを置くと、
「どうぞ、ごゆっくり」
と言って、去っていく。
早紀は、カップを口に運んだ。カフェラテの温かさが、ほっと心をなぐさめてくれる。いつも仕事できりきり舞いしている日常の、ほんのつかの間。だけど、それが、こんなに心地いいとは。十分に余裕がある空間。街中の、ほどほどに安くて、がぶ飲みして去るのとは違う場所。やわらかなミルクと、質の高いコーヒーのハーモニーが、ゆっくりと喉をすべっていく。父が亡くなってから、こんなにほっとした瞬間は、初めてかもしれない。今までも、ここには仕事の合間に、時折来ていたのに、なぜか心がゆったりする。きっと、最近、相続のことで疲れていたせいだろう。
「ずいぶんおいしそうに飲むね」
との声で、早紀は我に返った。
なんで、こんな奴がそばにいるのに、心地よく感じるのだろう。格差社会の、あすをも知れぬ、浮草。タレントの母親の稼ぎで食っていて、早紀の父親の遺産を、一刻も早くほしいことを、隠そうともしない。用もないのに呼び出し、勝手なことを言い、だが、外見だけはいい男。
でも、それでも、ひとときの休息にはなった。なぜかわからないが、呼び出してくれた口実で、久しぶりに心に余裕が戻ってきた感じだ。
「おかげで、いい休憩になりました」
と、早紀は本心を言う。
「そう、よかった」
翔太の本心は、相変わらずつかみどころがない。が、それでいい。相続が終われば、おさらばだ。評判が悪いからでなく、住む世界が違うのだ。
「早紀さん、疲れてない?」
唐突な言葉が、胸に突き刺さった。
「それはもちろん、仕事に加えて、今回の父の急死もあったから、多少は。でも、さっき申したとおり、ご心配にはおよびません」
「そういうビジネスというか、社交辞令のことばかり言っていると、よけい疲れない?」
「それが、社会というものです。あなたの住む世界とは違うのです。ですが、誤解しないでください。単に『違い』を指摘しただけで、差別の意味ではありませんので」
杓子定規な言い方に、翔太は、
「大学教授かよ。違いとか、差別とか。俺は、不愉快なら、そう言うから、いちいち警戒しなくていいって」
「それなら、失礼しました」
「だから、そういう堅い言い方はしなくていいっての」
早紀は、黙ってカフェラテを味わう。相続手続きが終われば、去って行く人間だし、1度くらいお茶につきあうのもいいだろう。義理は果たした。
いきなり、翔太は早紀をまっすぐに見て、
「あのさ、これからも時々会わない?」
と言う。
軽く言えるのは、自分に自信があるからだろう。
早紀は、
「会うとしたら、相続手続きの時で、それが最後になります。法定相続になるのだから、文句はないでしょう」
「そんなに警戒するのは、これ以上つきあうと、たかられるとか、階層が違う人間とつきあうのが嫌だとか?」
早紀は、絶句する。たかられるうんぬんは当たっている。だが、階層だとか、そういう格差を指す言葉は、要注意だ。昨今はちょっとしたことで、SNSにアップされ、炎上する。まして、彼が何を考えているかは、わからないのだ。
「正直言って、つきあっている時間がありません。寝る時間もないほど、仕事が山積みなんです」
一般的で、無難な答えをするのは、伊達に長年父の補佐をしてきたからではない。日進月歩のこの世界の技術を吸収し、人間関係にも鍛えられてきた。私は、単なる理科系オタクではない。経営者なのだ。
「そういうよそよそしさ、おとうさん譲りだね」
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